通り道、長い廊下

20歳の社員の女の子が、大人ってずるいなと思ったんですよ〜、と言った。

その子の先輩が会社を辞めたいと上司に伝えたら、それから上司に露骨に避けられ続けて退職するまでに何ヶ月もかかった、という話で、
あー大人ってこんなかんじなんだって思いました、だからあの上司は嫌いです。と言う。

その時パッと、まあそういうこともあるよな〜中間管理職も大変だな〜と内心思ったけど、
そうか、それはなんか嫌ですね。みたいな返事をした。

この会話を最近よく思い出す。
わたしはあのとき反射的に、同じ現場で働くこの子ではなくて上司側の気持ちに寄り添っていたことが思い返す度にまじ怖いな、とおもう。

わたしはいろんな考え方を理解しようと今まで意識してきたのだけど、
色々なんとか腑に落ちさせて、なんとなく色んな立場の人に理解を示してきてしまって、
そしてそれを処世術のように使っていた(!)ことで、
この子のようにとても純粋な不満な気持ちを感じなくなってることが、現代日本社会人の一種のレールのようなものに乗ってしまったようで怖いのだ。
とにかくわたしはあの子の不満は綺麗だと思っているから、ああいうものを忘れたくはない。
気持ちがどれだけ理解できても、こっちが嫌なもんは嫌と覚えておきたい。

少しは物わかりのいい大人になってしまったんじゃないかまさか自分が。癪だ。
癪だけど、それはそれで悪い訳では無いとして、変わる段階でキラキラを落としてきてしまったような気がしてならない。
と思っていることはもうあんまり答えのない堂々巡りで、ぼやーっとした焦りだけそれだけ浮いた。



どうにもならないので、とりあえず中高生の頃聴いてた音楽をひたすら掘り起こす作業に入った。
最近無意識にひたすらそれを繰り返すので、早めの原点回帰なのかなと他人事のように思うけど、
歳上の友達に話したら、だいたいそういう時期はそのくらいの歳(いま22)であると言われた。
またわたしは誰かのレールに乗っていた。

考えていることはだいたい、生活の流れで偶然起こったこととみせかけて、めちゃくちゃ必然的な年齢に合った思考のひとつの流れなのかと思ったらもう、心底 白目を向きそうになるけど、それでアップルミュージックのライブラリを漁る手が止まることは特にない。
自分自身とその人生や頭の中すべてがスイミーの点のような大衆の一部だとしても、とりあえず川谷絵音に感動したって咎めることはなにもない。

なんとなくいいなと昔思ってたバンドは、改めて聴いてなにこれヤダって思ったりもしたけど、お父さんが家で流してた曲を歌詞とか断片的な情報で探し当てるのとか楽しいし、なにより昔大好きだった曲やバンドはいまでもやっぱり大好きだったのが嬉しくなった。

聴いてると当時の自分を思い出したりするのが、音楽とかの繰り返し享受できる芸術のすごいところだと思う。
そしてこの一連の確認作業をするというか、同じものをもう一度聞いて、歩いてきた道の上の1歩1歩の事実にヨシ!と言えてるような気がして、とにかくこれは、とても心地のいい時間に間違いはなかった。

ただこんなことは停滞か後退で、やはり何をしてもその先を考えるということで人は進むと思うから、何か考えたいんだけど、なんにも浮かばなくてまた焦る。
曲を聴いていないときはボケっと焦り続けているのかもしれない。

なので、とにかく思いついたことを書いて詩にして、後にまたヨシ!と確認できる形に残してみる。
歌に出来そうならするけど、出来ないものは残念なことにかわいそうな歌詞のヘドロとして、わたしのケータイに詰め込まれていく。

注文の多い料理店という話が、宮沢賢治の書いた小説なのだけど、とても今の自分に近しいものを感じて(というのがきっかけで結局あんま関係ないけど)歌詞になった。全く歌に成る気がしない。できたらする。
少しの疑問を感じながらも、時計を外せと言われたら気持ちを汲んで外すし、塩を揉めと言われたらきっと揉むし、そうやって廊下を歩いて、いずれ食べられて消えていったとしても不思議なことって何もないなと思う。最後復活した猟犬みたいなできごと或いは人をまってるのかも。でも待つのもやだし、でも、でもと、ぐるぐるまわる。とにかくかんがえる。おわり

※はずかしいので載せてた歌詞はけしました

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