なぜメンヘラは優生思想を内面化するのか

左派の人々は、度々優生主義批判を展開する。優生主義を展開したと思われる右翼や、特段政治思想を持たないような人たちを左派は痛烈に非難する。「老人は早めに死ぬのが世間に於いて得」であるとか、「障害者を社会が包括するのはデメリットが大きい」などの意見について、これを優生思想であり、許されざる言説であると痛烈に批判するわけだ。

私も、やまゆり園事件の被告を擁護する人々が多かったのには非常に驚いた。極めて凄惨な事件であり、被害者の生きる権利を踏みにじった被告に怒りを抱いただけに、これを擁護する人に驚くと同時に、社会の生きづらさというものを実感したのである。

さて、優生思想を展開する人々は、差別的右派や素朴な一般人のみならず、意外な人々の中にも存在したりする。

タイトルの通り、「メンヘラ」と呼ばれる人々だ。

精神疾患を持つ人々や発達障害を持つ人々、社会に対し生きづらさを抱いている人々の総称であるメンヘラ。彼らは、特段の政治思想を持った集団では無い(左派が多い傾向ではあると思うが)しかし、彼らの発言を見ると、優生思想めいた発言が見え隠れすることもある。

「障害者は子供を産んではならない」という発言をよく見聞きするし、やまゆり園事件の犯人に対して一定の理解を示している人も存在した。

優生思想と呼ばれる思想とメンヘラは敵同士であるように貴方は感じ取るだろう。精神疾患や発達障害者を「いらない人」と排除する動きはたしかに存在するし、それを是正する動きはここ数年でも進歩しているのだ。しかし、メンヘラと呼ばれる人々は度々、優生思想というものを世間の解釈の下敷きにしている。

一体なぜだろうか。出典らしい出典も出せないが、自分の見解をここに書いていく。

契約の自由と人々の関わり

一見関係の無い話から説明を始める。自由主義国家には「契約の自由」というものがある。「契約自由の原則」とも言われるが、雑に言えば「誰とどのような契約をしても個人の自由だし、政府はこれには介入できない」という物である。

想像しにくい人々は様々な例に置き換えてみればわかるだろう。就職活動は、志願者は様々な企業から入社したい企業を選ぶことができる。また、企業は、その中から好きな人材を選ぶことができる。

店も、客を区別する権利を有している。「一見さんお断り」「マスクをつけてない人は入店お断り」「〇〇人入店お断り」などなど。様々な事例を出したが、貴方は全て許容できるだろうか?客側たる貴方だって、その基準が気に入らなければ不買運動なり何なり呼びかけられるし、その基準が不快で代替手段があるならそもそも店に入らないだろう。

そして、先に書いたように政府はこれに介入できない。勿論、差別解消の文脈に於いて差別的な基準を規制する動きがあり、民法90条により幾ばくかの制限は受けているのだが、これに反対する人は「契約の自由」に於いて懸念を示すわけだ。反対派からすれば、政府が介入してしまえば「個人の自由な意思決定の尊重」という物などできない。「人思いで優しい道徳的な政府」なら良いが、仮におかしなことを言い出す政府が存在した場合、国民は不当な差別を強要されるかもしれず、それを防ぐ為に「契約の自由」という大原則があるのだ、といった所だろうか。

話が少し逸れたが、これらのようなお硬い「契約」でなくとも、我々は人付き合いという身近な行動によって契約の自由に似たことをしている。「〇〇な男、女とは付き合うな!」と言った話はよく見聞きするし、友人として付き合うなら、嘘をつかないような人、約束を守る人、店員に愛想が良い人などが良い。と感じるのが一般的だろう。

これがなぜメンヘラの話と結びつくのか?その答えは、メンヘラは「契約をされない」属性である為だ。

メンヘラと呼ばれる人々の就職活動は難航してしまうこともある。学歴や職歴に穴が開いてしまうと、他の人々が優先的に採用されて行く。企業側からすれば、不確定な人材より確定的な人材を取るほうが合理的であるため、当然そうなるだろう。

友人関係に於いてもそうだろう。「病みアピール」を忌避する動きは存在する。いくら政府機関や精神科医が「悩みの相談」「ゲートキーパー運動」を推奨した所で、メンヘラの希死念慮や社会不安などが一昼一夜で解決するはずもなく、継続的な相談、愚痴を家族や友人に行うし、行われた側も疲れて縁を切ってしまうこともしばしばあるのだ。

メンヘラ界隈では度々「理解のある彼くん」という概念が持ち出される。これは何かというと、発達障害や精神疾患者の体験談の最後に出てくる配偶者のことだ。「こんな自分を彼は愛してくれました」と微笑ましく綴るのだが、そんな配偶者など存在しない当事者からしてみればずっこけも良い所。「そりゃあ苦しくても誰かが支えてくれるなら苦しみも軽減されるだろう」と揶揄や嘲笑の対象になるわけだ。この概念は男性の当事者からすれば「女性であることにより男性が支えてくれる」として、女性当事者からすれば「選ばれない女性は悲惨である、女性であることによって支えてくれるなんて幻想にすぎない」と、このような話がクルクルと繰り返されるのだ。

ここでわかるのは、「他人に選ばれない」という共通認識がメンヘラにあること。精神科医はエビデンスも持ち出し「他者に支えられている人は幸せになる」というが、これは生存バイアスも良い所であり、他者に支えられないことによる苦しみ、他者に承認されないことによる苦しみという物はメンヘラと呼ばれる人々には存在するだろう。

筆者たる私は「他者に期待せず生きる」と思っている希死念慮持ちのメンヘラであるが、そう言う私も社会と繋がって生きなければならないのである。企業は優秀な人材を求めるし、私のような要領の悪く、幼少期より精神をしょっちゅう病んでしまう人間は求められていないのである。金を稼ぐのも一苦労。これは誰だってそうだろうと思うが、メンヘラのそれはメンヘラ以外のそれとは性質が異なるということは確かだろう。

こうして選ばれなかった人は「世間は自分という存在を求めていない」ということを思い知るのである。思い知った上で「自分は世間にいらない人間である、精神疾患や発達障害があるから当然である」とするのである。これがメンヘラの抱える優生思想の正体なのだ。こう書いてしまえば、メンヘラが自身の敵であるはずの優生思想を持つことも理解できるだろうか。

さて、ここまでタイトルの通り書いてきたが、私の書きたい結論は「社会はメンヘラを労れ」というものでも「政府はメンヘラが生きやすくなるよう統制を強めろ」というものでも「みんな頑張って生きていこうね、死んではダメだよ」というものでもない。もう少し話を進める。

様々なケースとメンヘラ当事者。そして人々が見ようとしないこと

カサンドラ症候群というものがある。発達障害の配偶者をパートナーに持つ人物が起こす不調であり、ツイッターでは、これを自称する人々が、自身の配偶者に度々強い暴言を吐いていたりする。貴方はどう思うだろうか?勿論、家庭により個別の案件であり、一概に語るべきではない。発達障害の人が、自身の配偶者に暴言や暴力を飛ばし、配偶者が心を病んでしまうケースだって存在する。一概に語れない微妙なケースと言えよう。

境界性パーソナリティ障害は通称ボーダーと呼ばれている。見捨てられることをに敏感であり、それを防ぐ為に試し行為とよばれる行為を度々行い、愛情を確かめようとする。ネットでは、彼らの評判は非常に悪い。そうでない人からすれば、頻繁な連絡や気を惹こうとする行為をうざったく感じてしまうだろう。恋人がそうでないかという質問について「別れてしまえば良い」と助言するのは多くある。創作実話でも「ボーダー」というのは悪しように語られ、「スカっと」の対象になるのだ。

そのような彼らだが、ツイッターでそれを自称する人々を見ると、自分勝手ながら可愛そうになってしまう。愛情を求めているのに、愛情を求めるせいで愛されなくなる。ただ、このような悪循環に精神科ですら太刀打ちできないのも実情であると思っている。というのも、精神科医やカウンセラーは患者の内面に入り込めないのだ。これは職業倫理であり、精神科側が患者に深く入り込むことで精神を病んでしまわないように半ば「他人事」として接するためである。

最近は「悪い人間関係は断ってしまえば良い」というのがトレンドである。おかしな彼氏、おかしな彼女、おかしな上司、おかしな親、おかしな親戚…変なことを言ってくるような人間とは関わらなくて良い。家父長制度をやっつけろ、昭和慣習をやっつけろ…このような動きが盛んに行われている。勿論、これで救われるメンヘラだって存在する。社会のお荷物として扱われがちなメンヘラの地位は確かに向上した。しかし、その悪い人間関係、おかしな他人というものに度々メンヘラと呼ばれる人々は当てはまってしまい、排除される。これは当然であるだろう。いくら相手に事情があろうとも「知らんがな」というのが、正直な一般人の反応といえるだろう。

たらい回しにされるメンヘラ

ここまで見ていただいた方はこう思ったかもしれない。「精神科にかかればよいだろう。一般人に比べて遥かに知見がある。自分に求めずに精神科医に求めれば良い」と。

しかし、先に書いた通り、精神科医は患者の内面に入り込めないのだ。患者によって行われるエピソードトークは薬を増やすか減らすかの判断材料にしかならない。カウンセラーという人々も確かに存在する。しかし、結局の所彼らも人間である。患者との相性問題はよくメンヘラ当事者の間で嘆かれる所であり、万能薬というわけではない。

そして驚きは、精神科医が寛解しやすい患者の特徴として「配偶者の有無」を挙げていることだ。それ自体はエビデンスもあるし、先に挙げた通り納得できる。しかし彼らは「結局の所他者との関わりあい。互いに必要としながら、困った時は助け合いながら生きていくのだ」とさも美談のようにまとめるのだ。こちらからすればふざけやがってという気分である。要は精神科医は自分ができないことを、一般の人々に押し付けているのだ。「自分は助けられないからよろしくね」それだけに過ぎない話を美談のようにまとめている。助けてくれないから寛解できないというのが根底の問題である。でなければ「理解のある彼くん」概念なんて存在しないだろう。私からすればこのような文章を書く彼ら精神科医が、自らの職業倫理により患者に深く介入できないことに触れず、「助け合わない」現代社会批判などを行うのが理解できないが、これ以上言及すると本題から逸れるのでこの辺りで止めておく。

おわかり頂けただろう。メンヘラは、精神科医からも、一般の人々からもたらい回しにされる存在である。そりゃあ、誰だって人付き合いにコストを支払いたくないのだから、そうなるのも必然であるのだろう。

メンヘラの優生思想を叱れるか

昨年、女性ALS患者が優生思想を持つ医師に依頼して発生した嘱託殺人事件が発生した。この件に於いて優生思想と死の権利という両側から語られたのだ。さて、筆者は安楽死賛成の立場から反対派にリプライを飛ばしていた。そもそも安楽死の議論は、ツイッターに限って言えば賛成反対双方に左派が多いという特殊な状況である。そんな中、安楽死反対派の左派に共通点が存在したように見受けた。

彼らは右翼や著名人などの優生思想を持つ人々には威勢よく批判するが、そうではない、難病当事者や精神疾患者の賛成派には全く触れなかった。

全くである。かろうじて私のツイッターアカウントのプロフィール欄はメンヘラに見えない(内容は毎日と言っていいほど自殺に関連した話をしている)のが要因か、1人の反対派左派に罵倒を頂いた程度。その反対派左派だって他の当事者の声には全く耳を傾けず、安楽死について取り扱ったという学説がある日本の古典文学を取り上げながら「日本のような国に安楽死は早い」と結論づけるにとどまった。

反出生主義は、優生思想と絡んで語られやすい思想の一つである。詳しい解説はここでは行わないとして、正式な反出生主義は「全ての出生を行うべきではない」為優生思想とは関係ないが、これを支持不支持関わらず優生思想と誤認する向きや、「全ての出生に反対」しているはずの賛成派が優生思想的見解を話してしまったりもする。当然これらを咎める向きはあるのだが、自分が見た限り、安楽死反対派が右翼について行っていたそれとは全然雰囲気が違うのである。

反出生主義者に行われる優生主義批判は、歯切れが悪いのだ。

この2つの現象を見て、筆者は一つの仮説に至った。

「メンヘラを排除する自由に恩恵を受けている以上、メンヘラが内面化した優生思想を批判できない」のではないかと。

ここまで書いたように、メンヘラは度々誰にも包括されず、宙ぶらりんの孤独に至ることがしばしばある。左派は政府に彼らの支援を求めるが、正直私からすれば自分が行いたくない事を政府に丸投げしているようにしか見えない。

だからこそか。メンヘラの優生思想を批判してしまえば「社会はそうなっていないじゃないか、お前が養うわけでもないのに」と反撃を食らうのだ。当然だ。精神疾患は本人の責任ではないとはなっているが、実際そう言う人と関わりあいを持つ人は少ない。そうなった社会に恩恵を持っているのは左派だって同じだ。

私が書きたかった結論は「メンヘラも含めて、みんな誰と関わるか、そう言う広い意味での契約の自由の恩恵を受けている」ということ。

私は別に「社会はメンヘラを労れ」と書きたいのではない。社会は、メンヘラを含めて扱いづらい人を社会の隅っこに追いやることに成功した。これは社会の勝利ではないか。皮肉的な書き方だが、「おじさん」「お局様」などなどが社会の隅に追いやられるのとメンヘラが追いやられるのにどのような違いを見いだせるのだろうか?何が違うのだ!社会にとって扱いづらいから追いやられたのだろう?!

勿論、メンヘラだって「老害」「鬼ババア」などが追いやられることに納得している人もいるだろう。それを後押しする人もいるだろう。結局は皆責任を取りたくないのだ。変な人は政府に押し付けて、明るい世界でみんなで仲良く暮せば良い。異物は排除し、仲良く暮せばよい。

そう言うことだ。みんな恩恵を受け、みんな追いやられる可能性がある。それだけの話に過ぎない。私は一部の左派がさも自分を「倫理観に優れた人物」と振る舞い、メンヘラを無視して優生思想を持った右翼を叩いているのが許せないからこういう結論を書いた。

優生思想に反対する人々は優生思想を持つメンヘラを批判してはどうか。批判に躊躇するのなら、それこそが歪みの現れであると私は考えるのだ。

勿論、ここまで書いた話を信用するかしないかは自由だし、私を罵倒したって構わない。ただ、こういう側面があると言い放った人間がいることだけ覚えて頂ければ私としては嬉しい限りだ。

他者が判断して殺すのではなく、自らのみの判断にて行われる安楽死の合法化と、私がいつか後遺症もなく、一発で自殺できることを願って筆を置くことにする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?