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修行とは

修行時代の葛藤

修行時代、
最初は素材の扱い方やひとつひとつの工程の意味が分からず、数学の公式を覚えるようにただ作業を体に覚えさせる毎日でした。

親方に聞いても、
ずっとそうやってきたから何故と言われても…
と答えるばかりでした。

作業に慣れてきて、少しずつできることが増えていくこと事態は嬉しかったですが、
応用がきかなかったり、
ちょっとしたことで手順を忘れてしまいそうな危うさも感じていました。

そうして完成していく刷毛も、なんだか知らない人のような顔をしていました。

"言われた通りにやるしかない
そしてそれを次世代にも伝えていくしかない"

これが伝統工芸の真髄だったのだろうか…と、内心では落胆していました。


しかし、あることがきっかけでそれはガラッと変わりました。


独立です。


新しい場所での葛藤


独立し、地元に帰ってきて作業場を整え、いざはじめてみると、何もかもがうまくいきませんでした。

いくら修行で覚えた通りに作業をしても、糊漆の調合からして全くできなかったのです。

しばらくして、それには気候のちがいが大きく関係していることに気がづきました。

私は修行3年間、東京の気候下での刷毛作りを学んでいたのです。

そうではない環境下ではどう対処したら良いのかまでは、全く分からなかったのです。

私も、そして助けを求めた親方も。


従事者が少ない仕事なのでネットで検索しても解決法は載っていないし、
塗師さんとも材料の扱い方が違うので聞いても解決の糸口を見つけることはできませんでした。

とにかく、どうしたらいいかを自分で試しまくるしかありませんでした。


試行錯誤の日々で髪の毛や漆をたくさん無駄にしては、悲しくて、落ち込んで…

会津では漆刷毛はできないのかもしれない…
と諦めそうになったことも何度もありましたが、
条件が整えば刷毛はできるという事実を修行中に得ていたことが、
もう一度やってみよう
次はうまくいくかもしれない
と立ち上がる唯一の支えとなっていました。


ひとつひとつ手法を変え、材料の割合を変え、思いつくものを試していき、だんだんと"漆刷毛が作れる条件"が見えてきました。

なんとか刷毛ができるようになった頃には、作業の手順や材料の扱い方、材料を混ぜ合わせるタイミングや割合のほとんどは、会津で、自分が考えたもものに変わっていました。


修行時代は、次はこうですか、と、
工程をいちいち親方に聞いて確認していましたが、今では自分の頭で答えを導き出すことができます。

いちど完全に壊れたものを自分で考えながら再構築したことで、やっと刷毛づくりを自分のものにできた気がします。

特注の注文がきても、もう怖くはありません。

まだまだ未解決のことも多いですが、これからもひとつずつ解決法を見つけていきます。

私のやり方は親方から学んだやり方とはだいぶ変わってしまいましたが、今はとても充実し、修行時代とは比べものにならないくらいに"刷毛を作っている!!!"という実感をもちながら、日々の作業を行っています。

この話をすると、伝統工芸というのは親方に教わったことをそのまま受け繋がないといけないのではないのか。
勝手に変えてしまっては伝統が歪んでしまうのではないか。
と言われたこともありました。

私も刷毛づくりをはじめる前は職人という仕事についてそう考えていたような気がします。

でも今はそうは思いません。


自然の素材を扱っている以上、地域や気候が違えば作り方もおのずと変えなければ作れないことを、身に染みて感じたからです。

こだわりと核


それともうひとつ、手仕事のものは、人の手で作っている以上、どこかしら個人的なこだわりが入り込んでいることにも気付きました。

親方が私に教えてきたものの中には、個人的なこだわりの部分もたくさんあったことが、経験を積むごとに分かってきたのでした。

そして今、私の刷毛づくりにも、私なりのこだわりが入っています。

それがその人の手仕事の特徴ともなるし、
作り手がものづくりに込める気持ちの部分を知ることができる要素でもあります。

しかし、継承を考えるとき、
意識すべきは"核の部分"です。


人が死んだら天国には好きなものを持って行けないのと同じで、次の世代へ伝えるべきものは、物事の核部分だけなのです。

伝える側と受け取る側が、これをちゃんと理解していないと、伝言ゲームのように少しずつずれていってします。

いつの間にか核が抜け落ちてしまうないように、技術を伝える者は核を意識する必要があります。


しかし、もし、技術を伝える側が核を意識していなかった場合は…
受け継ぐ側は学ぶことをむやみに自分で取捨選択しないほうが良いです。

どの技術や感覚がこれから先役に立つのかは、そのときになってみないと分からないからです。

条件が揃って刷毛ができるときの"感覚"自体は同じ場合が多いです。

だから、とにかくまずは

いくら他の人のこだわりが入っていても、
その環境下でしか通用しない手法だったとしても、
与えられた環境でゴールの感覚をひたすら身体に叩き込む!

それが修行なのだと思います。



修行明けのサインは、人によっても、業種によっても違うでしょうが、漆刷毛作りの場合は、
作業をやっていないときでも作業の感覚が思い出せるかどうかかなと思いました。

修行というのは、長いようで短かったです。

これを焦って行うことも、省略すことも、きっとできないのです。

修行の時間は、目指すべきゴールの感覚を得るのには必要不可欠な時間だったと、今は思っています。

何かの修行中の人には、この貴重な時間に、できるだけたくさんの感覚を身につけてほしいです。
取捨選択や悩むことは、あとでいくらでもできるのですから!!

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