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暮らしだより vol.1 「石徹白洋品店」

―中尾
今日は、石徹白に来ています。
石徹白は澁澤さんがとても縁の深いところで、今日は平野かおりさんという女性と一緒にお話ししたいと思います。
まずはご関係からお伺いしてよいですか?

―平野
よろしくお願いします。
出会ったところは、名古屋で豊森なりわい塾を始めたときにご一緒させていただきました。

―澁澤
2009年に企画をして、その時から事務局を担っていただきました。

―中尾
豊森なりわい塾に魅力を感じて、ご一緒されたんですか?

―平野
私はその時すでに石徹白に出会っていて、こちらに移住するにあたって、集落というか地域のこととか、いろいろ学びたいなと思っていたので、ちょうどその時一緒にやらないかと声をかけていただいて、学びとお仕事が一緒にできるのであればと思って参加しました。

―中尾
石徹白が先だったのですね。
澁澤さんのその時の彼女のご印象は、いかがでしたか?

―澁澤
最初に会ったのは、街なかでお会いしたので、まちなかの意識の高い女の子という感じでした。
商店街などの活性化で、街の中で活動されていた方々の一人としてお会いしたので、その印象が強かったから、石徹白という、ある意味孤立した山の中の集落で、人間関係も深いし、自然環境も厳しいところで大丈夫かなと思いました。

―中尾
よそ者が入っていく感じですよね?

―澁澤
よほど覚悟がないと住めない場所なんですよ。

―中尾
そこは大丈夫でしたか?

―平野
一目惚れだったんです。この地域に。

―中尾
そこは一番大事ですよね。

―平野
始めてきた時から「ここだ!」と思っちゃったんです。

―中尾
石徹白に最初に来られたきっかけは?

―平野
最初にきたきっかけは、水力発電を導入する事業をやろうと、そのスタッフとしてきました。

―中尾
水力発電を作る?地域から求められて?

―平野
勝手にきました。

―中尾
勝手に?「水力発電が良いよ!」と言って?

―平野
一部の石徹白で、小学校もなくなるかもしれないという状況だったので、何か地域おこしのきっかけになればというかたちで、受け入れてくださいました。

―中尾
洋品店を作ろうと思ったきっかけは?

―平野
もともとは私がアトピーで普通の服が着られないので、服を作りたいと思いましたが、
石徹白に移住するにあたって仕事を作ろうということで周りを見回したら、雪が深いので、モノづくりをされる方が結構いらっしゃって、一緒に仕事がしたいなと思って、服を作ろうということで始めたのが最初です。

―中尾
どうですか?石徹白に入ってみた印象は。

―平野
住めば住むほど良くなります。
まず、人が良いです。ここにいる人みんな大好き。例えば、隣のおばちゃん。

*このタイミングで、本当に偶然に、隣のおばちゃんがおやつをもっていらっしゃいました。びっくり!!

―中尾
噂をすれば…。すごいですね!!
今、お店でお話していて、目の前に「聞き書き集」というのがありますが、これが豊森で聞き書きを覚えられて、まずここでやってみようということで始められたのですか?

―平野
そうですね。おばあちゃんの話とかを聞いていて、そこにすごくたくさんの知恵があって、それをただ聞くだけじゃなくて、実際の暮らしに取り入れていくことがこれからの未来にとってすごく大事じゃないかなと思って。

―中尾
そうですね。で、それを一つ一つ本にまとめられたのも平野さんですか?

―平野
そうですね。ただ、石徹白って昔から皆さん地域のことを考えてやってみえて、私が聞き書きをやりたいといったときに、石徹白の公民館長をされていた船戸(?)先生という方が、年寄りの話を聞いておくとよいといってくださって、公民館事業としてはじまって、私が担当をさせていただきました。

―中尾
そうでしたか。
そういえば、宮本常一さんがとってもお好きなんですよね。最近また読み返されたとか…

―平野
そうですね。好きでよく読んでいました。
宮本常一さんのやってこられたことが純粋に好きだったんですけど、その本を読んだときに書いてみえたのが、澁澤敬三さんから、戦後の日本をどう復興していくか、それには昔の人の日本人であるということの知恵とか誇りみたいなことがすごく大事で、それが全部なくなったから、君はそれを全部ちゃんと見て記しておくのが必要なんだといわれて、そういう気持ちで回ったと書いてあって、それを読んで私もただただ好きだから聞き書きをして保存していくのではなくて、それをどう活かしていくかということをものすごく考えるようになりました。

―澁澤
宮本常一さんに指示を出したのは澁澤敬三というその当時のパトロンなんですね。敬三は栄一の孫、本家の孫に生まれたんですが、彼は農村調査だとかそういうことをやりたいと思っていた。ところが栄一から家督を継がされたものですから、否が応でも銀行の頭取をしなければいけなくなって、その人が口癖のように、「爺さんが資本主義というとんでもないものをこの国に持ち込んでしまって、このままでいくと日本の生きてきたアイデンティティも、これから進んでいく方向も全部見失うことになる」ということを生前とても心配をしていました。実は栄一は資本主義という言葉を一度も使ったことがないのです。彼は合本主義と言っていたのです。合本主義というのはみんなで力を合わせて物を作っていこうというもの、資本主義というのは資本を持っている人がその資本を増やすために労働を作っていくという形なのです。合本主義と資本主義の違いというものを敬三はとても良く知っていて、ある意味では敬三は資本主義ではなくて、みんながもう一度力を合わせてその地域で生きていくという世界をつくらないと、日本が結局世界の資本の渦巻きの中に巻き込まれてしまう。そうならないように、自分は歩けないから、宮本常一さんに日本中を回って、本当に日本が大切にしなければいけないものを拾い集めてくれいうことを言ったということです。

―中尾
石徹白に来て、10年間お暮しになって、地元の方と深くお付き合いされてきたからこそ、今、その宮本常一さんのことが響いたかもしれませんね。
どんな10年でしたか?

―平野
ずっと子育てばっかりしていたんですけど(笑)

―中尾
4人いらっしゃるのですよね。かわいいぼくちゃんたちが。

―平野
はい。(笑)
不思議なことに、教えてもらったことを、知恵を取り入れて今の暮らしに応用できるような形を務めてやっていて、それをやろうとすると実現するというか、援助してくださる方が出てきて、形になっていくという、そういう10年でしたね。

―中尾
このお店の前を見ると、畑があって、ヤギがいて、羊がいて草取りをしてくれて… それで藍染めを染めるようになって、藍も作りましょう…と。

―平野
そうですね。それも今93歳のおばあさんに教えてもらったことだったんです。

―中尾
これが一つの理想の形ですかね?

―平野
そうですね、一つ思い描いてきたものは形になったかなと思っていて、これからの10年をどうしていくかを考えたいですね。
前、澁澤さんに言われたことがすごく頭に残っていて、日本人はすごく幸せな民族で、明日食べるものも心配しなくてよくて、且つ縄文時代からサスティナブルな暮らしをしてきているという歴史的背景もあって、そんな日本人としてこれからどういう世界を作っていくかをリードしていかなければならないと、おっしゃっていましたよね?
そこだなと思っているんですよ。そういう暮らしとか知恵とかに興味関心があって、自分もやりたいという人たちが来ることができて、体験して、自分で学びを得て戻っていくという、そういう場所にしたいなと思っています。

―中尾
すごいね~。その頃には子供たちもみんな成長していますよね。全部楽しみですね。

―平野
ほんとですね。今は必死な毎日ですけどね~。

―澁澤
彼女たちの10年を見ていると、毎年野菜は種をまいて、それを育てて、また秋になって収穫して土にそれがかえって、同じことを延々とやっているようなのですが、ありとあらゆることが循環していく、そういう時間の流れなのです。循環していく時間って、とても安心なのです。その安心の心のゆとりが未来を見るときにとても重要なのだと思うのです。
さき程、平野さんが言った言葉は僕が言ったのではなくて、僕がアメリカ人から言われた言葉なんです。たぶん敬三さんが言った資本主義という化け物をどうにかしなければいけないという概念と非常に近いですね。

―平野
私たち草木染めをするのですけど、今年の春に雪で折れた枝で、サクラで染められた。きっと来年も染められるといって、ずっとサクラを眺めているのです。いつでも。日々をいつくしむじゃないけど、頭で考えてわーって走るっていうのとは全然違う世界で、たぶん両方必要じゃないかなと思うのですけど、そうやって自然の移り変わりに感謝する。そういうのって、たぶん誰もがそういう環境をつかめると、すごく変わるんじゃないかなって、今お話を聞いていて思いました。


―中尾
なんだか、とても良い空気が流れている気がしますね。




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