闇と暮らす
―中尾
京都と言えば、澁澤さんはまず何を思われますか?
―澁澤
芥川龍之介の「羅生門」っていう小説があるじゃないですか。あれが私の中に京都のイメージを刷り込んだんです。中学の頃か小学校の高学年か忘れましたけど、教科書に出てたか、夏休みの宿題かで読んだのです。
それから、高校の夏休みの古文の宿題で、「今昔物語」と「宇治拾遺物語」を読むというのも出たんです。これは都のその当時の説話集というか、こんな面白いことがあったぞという物語を集めたものなんです。
―中尾
民話みたいなものでしょうか?
―澁澤
たぶん高校の先生としては古文の仮名遣いを慣らせるために、飽きないだろう、読みやすいだろうということで、今でいうマンガみたいなものかもしれません。
―中尾
そうなんですね。もっと難しい本かと思っていました。
―澁澤
いや、とっても愉快な説話がたくさんある本なんです。
そこに出てくる京都。羅生門から御所に続く京都というのは昔の都、平安時代が中心ですけど、大通りの真ん中を夜になると鬼たちが行列を作って歩くという京都なんです。
人間のいろんな恨みだとか悲しみだとか想いの集積したものが形になり、京都の町にはたぶん延々と積っているんだろうなと。一方現代の観光地としての華やかな京都と、夜になると鬼が歩き回る京都というのが同居している京都がとても好きだったです。
―中尾
狐火とか、似合いそうですよね。
―澁澤
そうですね。もののけが感じられるとか、実際に行ってみるとそこで人が亡くなっているとか、あるいは呪った呪われた、呪いを返したとかね。昔の「穢多(えた)」「非人(ひにん)」と言われた被差別部落が京の町の真ん中にあったりして。
―中尾
そう、ものすごくにぎやかというか、華やかなところと背中合わせの場所にあったりしますね。
―澁澤
そういうものが同居している、人間の中の心の風景が同居しているような町が京都なんです。私にとっては。
―中尾
なるほどね。それは今でもその町を歩いていると感じることってありますか?
―澁澤
感じるのはとても好きですね。
―中尾
例えばどの辺の町がお好きですか?
―澁澤
逆に悲しくなったのは、いたるところにコンビニができて、夜になっても闇がないんですよ。明かりが重ならないというかな、家の玄関の上に小さい電灯はついているのですが、その電灯の明かりは玄関だけを照らすものであって、決して隣の家の軒下まで照らす光ではなかった。その闇の中には鬼が住んでいるかもしれないし、物の怪がいるかもしれない。そんな京都が好きでした。
―中尾
そうですか。私が20年くらい前にとってもお世話になった方がいるのですが、その方のお住まいは嵐山でした。その嵐山のお住まいは、お家の中に縁側があって、縁側の前に野の草花が咲いていて、庭の中に小さな山と小さな小川という自然に近いお庭がつくられていて、その木の塀があるのですが、その町の一角は一切電線が見えなくて、小倉山が見えるのです。その場所で小倉山に月が昇るのが見えて、そこでお月見をするのが、うわあ、京都だなあと感動しました。
―澁澤
そういうワンセットみたいなもの、小宇宙が出来上がる場所を昔は町屋といったらしいですね。
―中尾
そうそう、その町の人たちはみんなで、その風景を守っていましたね。
―澁澤
もう一つは心の中の風景でね。闇を残すことを嫌うようになりましたね。
すべてがわかっていないと収まりがつかないというかな。
―中尾
わかります。それ、ちょっと残念ですよね。
―澁澤
この年になるとね、よくあるんですけど階段でけつまづいたりとか、訳の分からないところで転んだりするわけです。そうするとね、認知症が始まったんじゃないかしらとか、足の筋肉が衰えてとか、ひざの関節が硬くなってとか、そういう原因を考えてしまう自分がいるんですよ。つい一昔前の自分だったら、今日はキツネに騙されたかなとか、今日はなんか縁のある何かに足を引っ張られたかなとか、そういう風に思っていたのが、いつの間にか自分の中で答えを出そうとするんですよ。
―中尾
そうですね~。足引っ張ってくれるの、楽しかったですよね。
―澁澤
河童がいたりとかね。
―中尾
確かに、そういう感覚がなくなりましたね。
―澁澤
前にもこのラジオでお話しましたけど、キツネに騙されなくなったのは1965年だと内山節さんは言ってました。確かにその辺から、なんか僕たちは全部を数字だとか科学と言っているもので解き明かそう、解き明かせることが当たり前だと思うようになってしまったのです。僕は自然科学をやってきた人間ですが、自然科学の人間からすると、解き明かせないものの方がはるかに多いのです。ですから有名な物理学者ほど霊的なものを信じていたりとか、とても宗教心を持っておられたりとか、科学者ほどそうであるのですが、一般の人間はなんかもう科学が発達すると、科学で全部解き明かせるのだろうと思い込んでいるようですね。
―中尾
そうですね。だから、解き明かさなくて良いのですよ。
わからなくてよいものを残しておかなきゃいけませんよね。
―澁澤
そう、解き明かさなくて良いのです。
今回のコロナでもアマビエなんかでてくると、ちょっと日本らしいなと思いますね。
―中尾
ほっとしますね(笑)
そんな風に感じられるともうちょっと柔らかくなれそうですね。
―澁澤
ところがね、アマビエはもともと甘えびが変化したものだとか、それに理屈をつける奴らが出てくるんですよ。
答えがある考えを求めるようになって、答えのない考えは許されないようになってしまいましたね。
―中尾
馬鹿だと思われるのが嫌なんじゃないですか?
―澁澤
中尾さんはそうでしたか?
―中尾
私はそうじゃないけど… あっ、でも、一時はそうだったかも。
馬鹿だと思われるのが嫌だから、なんか言わなきゃ…と思ったことがありましたけど、これは馬鹿じゃなくて、自分の中の・・・心がさまよう場所というのかな、それを楽しめるようになったのはずいぶん大人になってからなので、これで良かったと思うようになりましたけど、心がさまよってよいんだと思えるようになってから、理屈でものを考えなくなりましたね。
―澁澤
最近になって、科学技術というチャンネルしか僕たちは磨かなくなってしまって、他のチャンネル、何かその場で感じるだとか、ふっと六感というか毛穴が急に開くというようなチャンネルを持っていた方がとても豊かになるんですよ。それから、私のように森の中を歩く機会が多い人間は、その感覚はとても重要なんですよ。
―中尾
鬼ってね、「隠れる」の「おぬ」が語源なんですよ。それが「おに」になるんですよ。だから、隠された部分だと思うんです。必ず人の中にいるんですよね。鬼はね。
―澁澤
いるんですね。隠された部分は感じる部分で、隠された闇の中に鬼を感じるし、あるいは隠された感情の中にその人のやさしさを感じたりとか、そういうことが心の豊かさに通じるのかもしれないですね。
―中尾
鬼って死んだときの自分の形だと、中国ではそういう言い方もあるみたい。たぶん自分の中には両方いるんですよね。ヨーロッパの教会を見ても、半分天使で半分悪魔なんですけど、その悪魔に準ずるもののアジア的な考え方なんでしょうか?
―澁澤
悪魔というのは、悪いという風につながっていくので、悪いものではなくて、そちら側に真実があったりもするのです。
―中尾
なるほどね。なんであんなに怖いんでしょうね。わけのわからないものだからでしょうか?
―澁澤
わけのわからないものだから。
わけのわからないものを、そのままそういうものだと受け止めるかどうかですよ。
そういうことを受け止めてきた人たちの町が、京都という町だと僕の中のイメージなんです。
―中尾
なーるほど。そこまで聞いてはじめて分かりました。
―澁澤
京都に対する何となく情緒的な親しみみたいなものは、まさにそういうところからきているのかなと最近思います。
―中尾
それは京都独特ですか?澁澤さんの中では。
―澁澤
やはり歴史の古い、先ほど言ったように、そこに人の喜びも悲しみも恨みも妬みもプライドも、全部が積み重なってきた、その澱みたいなものの集積した側面と、一方で寺社仏閣という清々しい天界につながっているようなもの、そういうものの同居性というのは何とも魅力ですね。
―中尾
それが都なのかもしれませんね。
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