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何もないという安心

先回のミャンマーのお話の続きです。パゴダに金箔を貼る行為がありました。
小乗仏教では、現世で托鉢のお坊さんたちにお供物を差し上げたり、お寺に自分の持っているものを寄進すると、次に生まれた來世が、徳が積まれて、それによって幸せな人生が送れると信じられています。まさに、自分の持ち物をなくしていくという行為なのかもしれません。
祈りという意味でいうと、先回お話したウオンさんに、「これからの人生の最終盤に、人生のそれこそ最良の日はどういう一日を過ごしますか?」と聞くと、即座に「瞑想三昧」と返ってきました。「一日座禅を組んで瞑想してみたい。それが自分の人生で最も望むことだ」と。
日本人の「祈り」というと、願い事をしたり、自分の思いをどこかに集中させることなんですが、瞑想ってその逆で、全部解き放す… 宇宙の時間・空間の中に、自分の肉体も、自分の思いも全部解き放していく行為。そこで得る心の安泰が、ウオンさんには一番の幸せなのです。それを聞いて、自分はどういう幸せを求めてこれから生きていくのだろうかということを、初めて考えました。
ミャンマーにものすごく教えられたと、澁澤さんはおっしゃいました。

私にとっての幸せは、誰か、あるいは何かの役に立つことだと思っています。「中尾がいてよかった…」と思ってもらえたら、幸せです。
澁澤さんは出会った頃からよく「祈り」という言葉をよく使っていらっしゃいましたが、私にはよくわかりませんでした。
30年前にパリに行ったとき、たまたまクリスマスで、お昼間のノートルダム寺院は観光客でごった返していました。その人ごみの中で、一人の老婆が、大理石の床にひざまづいて、大きなマリア像の足の指にキスをして祈る姿がありました。「敬虔な祈り」というのは、まさにこのことだと思いました。その時、私にはなぜこういった宗教心がないのだろうかと考えました。それから、宗教って何? 必要なの? と日本の文化への疑問がわいてきました。
神社に初詣に行ったり、お祭りに参加するのは生活文化であって、宗教行事として参加しているわけではない気がしました。周囲を見ても、私の年代では信仰心は薄く、宗教というものに怪しさを感じ、距離を置く人が多かったように思います。
そんなわけで、仏舎利塔に金箔を貼る行為はわかりませんが、風の盆の時に教えていただいた、お米が実る時期に、「大風が吹きませんように」という、対象や目的がはっきりしている祈りの行為はよくわかりました。「瞑想ははがしていくこと」というのもわかりやすいです。
「祈ることによって心の安寧ができて、ココロに余裕が生まれると、固執しなくてよいのかもしれません。今、よく断捨離というけど本当の心のゆとりができた、これだけ刺激が多い中で、全く違う安寧を得られ、なおかつ、それが地球環境にもとても良いことだと人々が気付き始めた。それは不思議だなと私は思います。」と澁澤さん。

実は、私は宗教学者の先生から紹介されて吉野の山で断食をしたことがあります。
お寺さんの断食ですので、目的はダイエットではなく、3日間食べなくても生きていけるという自信を持つための断食です。事故とか災害とか、何かが起こった時に一番パニックになるのは食べられないことだそうです。3日間食べないという経験を持つことによって、そういう状況になった時でも、いったん距離を置いて、様子を見てどう動くかを考えられる人になりましょうというための断食です。
その3日間の断食で初めての体験をたくさんしましたので、ご紹介します。
木曜日の夜から始まるのですが、その日はまだ東京にいて、夜9時以降、水以外何も食べてはいけません。金曜日の夜7時に吉野の山に集合しますので、丸一日、何も食べられないまま都会で過ごさねばなりません。食べることだけが唯一の楽しみである私にとって、何も食べられないのは、やはりとてもつらいので、ここにいてはだめだと思い、朝一で吉野に向かいました。家を出て、東京駅に向かい、新幹線で京都まで行って、近鉄に乗り換えて吉野まで約5時間。いつもなら新幹線でお弁当を食べて、京都ではコーヒーとおやつを買って近鉄特急に乗るところですが、コーヒーもお茶も買えず、周りで乗客がお弁当やおやつを広げるのを横目で見つつ、おなかと背中がくっつきそうになりながら、なんとか吉野にたどり着きました。
お世話になるお寺につくと、お水と温かい柿の葉茶が用意されていて、好きなだけ飲んでよいとのこと。といわれても、そんなに飲めるものでもなく、お部屋へ。夫と参加しても女性と男性に分かれます。
断食中は吉野の山上ということもあり、自分ではわからないうちに体力が落ちているので、山でケガをしないよう、散歩は禁止。お風呂もふらふらして倒れてはいけないので、3日間入れません。
夜7時に、約20名の参加者が全員そろったら、3日間のスケジュールが説明されて、早速1回目の瞑想の時間が始まります。警策(きょうさく)という棒でお坊さんが坐禅を組んでいる人の肩や背中を打つ姿を見たことがあると思いますが、ここでは、私たちが「棒で打ってほしい」と望まない限り、たたかれることはありません。ちなみに、私は一度体験してから、警策で打っていただくことがとても気持ちよくて、一度の瞑想で一回はお願いしていました。
初めての30分間の瞑想は、とても上品で強い香りのするお香の中で、背筋を伸ばして坐禅を組み、半目を閉じ、警策で打たれることも体験し、あっという間でした。けれど、いろんなことが気になって目はウロウロして、なかなか瞑想したといえる状況ではありませんでした。3日間何も食べないということは、買い物も行かないし、準備もないし、片付けもないし、作務衣を着続けるので、服を選ぶこともないので、本でも読もうと何冊か持っていきましたが、何もすることがないにも関わらず、結局一冊も読めずじまいでした。
翌朝は5時に起床。歩いて5分くらいのところにある今では世界遺産になっている「金峯山寺」で、「般若心経」を読みます。そのころはまだ元気です。朝ご飯の時間だなーと思うとつらくなります。この時はとてもおなかがすいていたので、声を出して大丈夫かと心配になりましたが、お経を読むと、これがとても気持ちが良いのです。おなかが空っぽになった時に、声を出すことがこんなに気持ち良いということを初めて体験しました。空っぽのおなかに、からだに声が響くのです。それがなんとも気持ち良いことに驚きました。
宿舎に戻りますと、瞑想の時間です。30分瞑想して30分休憩して…を一日中繰り返しますので、一日に17-8回瞑想します。30分の休憩の間に、どんどん眠くなる。30分寝て、30分起きて瞑想して、また30分寝て、30分瞑想してを繰り返しているうちに、だんだん自分の中の余計なものがなくなっていくような感じ。まだいろいろ見えてはいるのですが、だんだん周りのことが気にならなくなってくるのです。自分の中のものが落ちていく感じ。湧いてくるものがだんだん少なくなっていく。眠るのと、ずっと山の上のお寺にいることもあって、現実が薄れていって、幻想的な風景になっていく気がします。
二日が過ぎ、三日目の朝、また金峯山寺でお経を読みます。いつもより声が出て、このエネルギーはどこから来るのだろうかと、びっくりします。そして、もうこの時は、お腹はすいてないのです。体力があるかどうかはわからないけど、お腹はすかない、頭はすっきりしていて、声を出すと気持ちが良い、お経を読むのが楽しくて、もう少し頑張れるかなと思えるほど元気でした。
それからまたお寺に戻って、瞑想の一日を過ごします。
そして最後の朝、食べるものが山ほどあります。まず、大根をただ水で茹でて、その煮汁をどんぶりに2杯飲みます。水で茹でただけなのに、ものすごく甘く感じます。1杯目はそのまま、2杯目は梅干を入れて飲みます。それから煮た大根(一人で一本の半分)。これでもう十分お腹はいっぱいなのですが、その次に、ニンジンを生で1/2本。きゅうりもありましたが、私は食べられないので、パス。それからプロセスチーズ1個、羊羹、バナナ、飲み物は温かいチャイ。全部食べ切らないうちにお腹がグルグルいって、途中でトイレに駆け込みます。参加者の人数は、その施設のトイレの数。一人一つマイトイレが必要なのです。繊維を採って、今まだ体の中に残っているものも、全て出して空っぽになって帰りましょうという断食なのです。ちなみに、羊羹はう〇ちを固形にする役割があるのだとか…(^^;
自分の体の中にあるものを捨て、頭の中に湧いてくる想念もすべて捨てて、からになって…というのは、ウオンさんの瞑想三昧に通じるものがあります。それをずっとしていたいというところまでは達しないけれど、ウオンさんの気持ちは少しわかります。
そして、そのあとなんですが、都会に戻ってみると、世の中にこんなにも匂いがあるのかと思うほど敏感になる。そして、もうコンビニによらなくても全く不安にもならないし、『足るを知る』というか、「これで十分」というおなかになるのです。
逆に、ものを持つことによって不安は多くなり、いらないものが見えてくる。全部捨てることによって心が安寧になる。ウオンさんのおっしゃった言葉はこの経験だったなあと思いました。

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