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久しぶりに歴史小話など・・・。

「なんか、去年の秋くらいからなぁ・・・。ついてるっていうのか?大吉っていうのか?」

「こんど伏見稲荷へ行って、おみくじ引きましょう!あそこのはおもろいですよ!」

「おお!伏見稲荷なら大大吉、来るかもね!?!?」

「伏見稲荷って面白いんですよね!」

「おみくじ、すっごい種類ある!w」

「えーと、

京都・伏見稲荷大社のおみくじの種類
大大吉:2種類
大吉:6種類
凶後大吉:1種類
凶後吉:4種類
末大吉:3種類
末吉:3種類
向大吉:2種類
吉:2種類

らしいですね!」

「もっと、詳しくはね:

こんなページもあるね!w 伏見は、今見ると、観光地からは、ちょっと京都のハズレだけれど、信長の最晩期から秀吉期には、日本の首都だったからね!w いろいろおもろいよ!w」

「酒も伏見は銘酒がありますね!」

「酒どころではあるな!関西では、灘、伏見といえば、銘酒がある。」

「灘は、大メーカーがひしめいていますが、”灘の生一本”ってのは、

こんなページを見ると良いです!」

「伏見はどうかな???」

「↑こんな感じのページがありますよ www」

「伏見といえば、30年くらい前のバブル期に一度、日本酒ブームがあってね、その時、生酛(きもと)や吟醸酒などの言葉が流行ったんだけど、伏見は、”玉乃光”ってのが有名だったなぁw」

「”月桂冠”などは、3増酒もやってますが、京都の古い居酒屋(チェーン店ではなく、地のおじちゃんがずっとやっているようなところ!)などでは、月桂冠の”裏流れ”のお酒など、出してくれるところモアrったね!w」

「京都の街は、学生に甘いっていうか、優しいっていうか?ね??特に、京大の学生に甘い歴史があったりして、京大生で常連になると、ちょっとええの出してくれたりするおじさん(店のマスター)とかいましたね!w」

「東京ではまずありえんな!w 東大生や早稲田、慶應あたりでも、そんなことはないだろう!?!?」

「ないですね。早稲田は、町に学生の食堂みたいなのありますが、早稲田の学生だけ、特別にこっそり出してくれるとかは聞いたことないです。」

「表に出てるメーニュー自体が安くて大量なんだよね!!!」

「早稲田の”メルシー”とか、有名ですよね!」

「京都は歴史が違う感じしますよね!」

「よくも悪くもな・・・。ま、最近は、だいぶ変わったらしいけどね!w」

「そういう馴染みでも、その土地に染み込んだ歴史からくる”何か”がある街っていいですね!」

「博多なんかもそうだろう!?!?」

「博多は、歴史的には京都より古いです。奈良や飛鳥時代なんかで、すでに、韓半島や中国(殷(ほんとの国号は”商”で、殷は首都周辺の土地名)や周代)とも、行き来があったみたいだよね!」

「その時の、代表的な港の一つですよね!

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおう)

が志賀島から発見されてるが、これは、後漢を創始した光武帝が当時、その那の津と呼ばれていた博多周辺にあった奴国に贈ったものとわかっている。」

「紀元前4世紀(弥生時代)には、那の津と韓半島や中国本土と交流があったことは様々な考古学的遺物からわかっているよ。」

「博多周辺は、広く海側にひらけていて、モノナリも良く、物産も多く売買されたようです。」

「歴史的には、博くて多いから博多っていう説もあって、商都としては、”博多”が正しい地名だよね。」

「福岡ってのはなんなんですか?」

「それは、黒田官兵衛の生地のあたりを”福岡”と行ったんだけど、それは、播州、そうだな今の兵庫県西部にある。江戸期の初めに、官兵衛が、福岡あたり一帯の大大名になったので、その政治・行政の府を置いたあたりの地名を福岡と名付けたんだな!」

「なんか、土地の人からするとありがた迷惑な話かも?でしたね!」

「しかし、戦国の大名ってのは、後期の統一期には、信長、秀吉、そして、家康の気分で、そこいら中にたらい回しにされたからね!」

「家康自体が、三河、遠江、駿河を取り上げられて、関東八州の主にされるよね!」

「家康は、官兵衛の黒田家を筑前博多あたりに置いて、様々な行政、民政、などをやらせると同時に、島津家を代表とする、九州の地生えの大名たちの見張りとしたんだな」

「九州は、島津だけでなく、龍造寺、鍋島、有馬、大友など、一癖も二癖もある連中がうようよいたからですね!」

「関ヶ原の時、官兵衛が自軍だけで、九州を平らげたのは有名だよな!w」

「黒田官兵衛は、東軍の象徴でもあったんですね!」

「ま、当の官兵衛は、関ヶ原の戦況いかんでは、九州で独立する気勢を示してみたようだけどな。」

「結局、落とし所として、九州の要所をもらって、落ち着いたわけだな。」

「関ヶ原で快勝したわけで、家康も下手には出ないが、しかし、その後って見てみると、自分はもう随分高齢だし、まだ、大阪城には秀頼君がおわすという状態で、九州が黒田を立てて、独立の気勢を挙げられては、天下が落ち着かないって状況だったからね!」

「それと、軍事の専門家からみると、博多周辺てのは、守備の難しい土地らしいね。」

「というと?」

「今みたいに、航空機で空爆したり、ミサイルを打ち込むような時代ではあんまり関係ないけれど、歩兵や騎兵が主で、火縄銃くらいって段階の武器では、土地の要害性ってが重要になるんだけど、博多は古代より貿易港として栄えただけあって、平時は便利だけれど海側に広くひらけていて、守りにくい上に、東側(大分県側)から責められるときも守りにくい!」

「山の関係ですか?」

「そうそう、博多からは攻めて行くのはいいんだが、攻められると守りにくい土地の在りようだそうだよ!www」

「古代の戦乱期に、近畿・山陽・山陰あたりの連合軍が博多近辺の国々と戦乱になった頃、4世紀から5世紀あたりだな、その頃、大分県側(多分、日田あたり)に陣を敷いた(後の大和朝廷)軍は、博多から見ると実に厄介だったらしい。」

「大きな断層があって、さらに、小さな断層もいくつもあって、東から西に攻め下ろしやすい地形なんですね!」

「ブラタモリでも、やっていたような気がするな!」

「なんとなく思い出してきました!」

「日田盆地がね、狭隘な細道から博多方面に開けていて、博多から攻めるとここで両側から待ち伏せされて、いくつもに分断されて全滅する。」

「一方、日田側からは、1000m級の山々が西からの視線を遮っていて、大軍をこっそりと西へ向けて、いくつもの道から出発させやすい。」

「気がつくと3方向から囲まれていて、下手すると、海も閉鎖されているわけか・・・。」

「実際、近畿連合が勝って、大和朝廷は飛鳥、奈良とおかれて行くよな。」

「神話の”神功皇后の三韓征伐”ってのは、この北九州にあった国家連合を、近畿連合が滅ぼした戦いだったという人たちもいる。」

「ふ〜〜〜ん、当時、北九州と韓半島の西南とは一体だったかもしれないですね、確かに。」

「ま、決定的な証拠はないけどな。日本書紀が神話にしてしまった!w」

「そうか、日本書紀が書かれた時の宰相、藤原鎌足、不比等は、ほぼ百済王族だというのがガチですね!多分、北九州の王族連合とつながりがあった。。。」

「半島の東南、新羅系伽耶や新羅本体方面から渡ってきて、越、北陸、諏訪、尾張、伊勢あたりに、もともといたと思われる天皇家の祖先とその取り巻き(物部、蘇我、大伴、葛城・・・などの古豪族たち)たちが、山陽、山陰の国家群を従えて、最後に九州連合と決戦したと考えると、いろいろ辻褄が合う。」

「で、悔しいので、なんとなくそういう神話に押し込めたのかな?藤原不比等は、新羅系が百済系を攻めて滅ぼした!って書くのが悔しいから、ヤマトを当時からの独立国にして、韓半島の三國を征伐したって話にした!w すると、自分たちの出自もついでにごまかせるし・・・。一石二鳥、いや、5鳥くらいですね!」

「書かれた当時の豪族どもは、歴史を知っているので、全くなかったことにはできないからね!島を独立の国にしてしまえば、島の古豪族たちも、”まあ、そんならいいかっ”てな!」

「例えばね、天皇家に古くから従ってきたと思われる大伴氏の金村ってのが、古代、

”任那(新羅系伽耶)4県を百済に割譲した”って事件も、

こう考えると、何が問題なのか?よくわかるだろ?」

「なーるほど、天皇家はどっちかっていうと新羅系だったから、倭の国に文化的に近かった新羅系伽耶に属していた韓半島南部4県を百済に脅されて献上したんだな!」

「そうそう。こんな感じで辻褄が合うことが多い!百済が強いとこだけ、きっちり残してるし!」

「そんで、現代では、もうよくわからないってことか???」

「ま、証拠はないよ!www こんなこと、証明できない。」

「中国も、春秋戦国期を始め、戦乱期には、東の島のことなんか、ほとんど書き残してない。」

「3世紀後半から、4、5世紀あたりは、”倭国は大いに乱れていた!”くらいしか書いてないですね!確か?!?!?」

「倭国が乱れていたのは、中国や韓半島も、魏・呉・蜀の三国時代から、魏ー晋の短い統一期間をへて、より深い戦乱期:五胡十六国時代へと突入していくからで、全くわかんない!何も、書き残されていない。」

「魏が強勢だった238年、”卑弥呼が魏に使いを送った”と魏志倭人伝に書いてあるのは、まだしも、平和だったからなんですね!w」

「ま、そういうことだ!w」

「でも、韓半島と同じく、列島でも、東西の決戦があったというのはわかりやすい気がします。」

「妾もそう思う!」

「歴史も愉しいの!」

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