見出し画像

本来の自分幹を太くしている過程のような流れ

東京の今日の午前中はどしゃ降りで、昼頃から快晴になり、夕方には秋風が吹き抜けていた。

まったくもって目まぐるしい。
夕陽を眺めてる時には、もう午前中のどしゃ降りなんてすっかり忘れてた。雨の中歩いて、あんなに雨音楽しくて喜んでたのに。もう忘れちゃった。

そして夕方窓を開けて、秋風がひゅ~っと通り抜けていったのを感じたら、午後からの日照りをすっかり忘れてしまった。

ああ、もう秋に変わってるんだなぁとか感じながら。



それくらい、1日の中でも変化がすごい。
現象だけでなく、自分の中のupーdownも。
そしてどんどん忘れていく。

前のをいつまでも握っていたら、次のが来たとき対応しきれない。
その瞬間味わったら、パッと放してしまう。そのかわり、存分に味わって。

何か好きなものを食べたのならば、「う~ん、美味しいねぇー♪」としっかり味わう。身体がご機嫌さんになってるのを感じる。
そして食べ終わったならば「あー、美味しかった!」で、オシマイ。



日を追うごとに、自分への誤魔化しがきかなくなっているようです。
違和感が半端ない。何の違和感って、自分に対しての違和感。

他人に対して抱くものなら、その場から離れればいいし、その人からちょっと距離を置けばいい。

けれど、自分に対しての違和感は、もう逃れようがない。寝ても覚めても一緒だから。

どーにもこーにも、自分と向き合わない限りは、この違和感はなくならない。

それくらい、ド直球なものらが、ぶんぶん飛んで来ているようです。だから結構キツイ人も沢山おられるのではなかろーかと、感じます。もちろん私もその中の1人ですが(笑)。

みーんなにそんなものらが降り注いでいるようです。ぜんたいの流れ。
だから、自分だけが、と思う必要はありません。みーんな、です。形や程度の違いはあれど、みーんな。

で、特にキッツいなぁーと感じてしまうのは、いま起きてるのは根源的なものへのアプローチが含まれてるからで。

直接的でないとしても、そこへ導くためのものだったり。根源的なもの、自分のコアに近いものなので、近しい人が絡んでたり、幼い頃の記憶が絡んでたり。

そこらへんのものは様々なものが絡み合って奧深くにしまわれてたりするので、それらのほどき作業が始まったよーな、そんな感覚です。



でね、これらを「みなかったことに」することも勿論できちゃうのですが、それをやったときに感じるのが「自分への違和感」みたいなもので。

今までの身体の習慣で、自然な形で「みなかったことに」するのだけれど、いまは「観るように」する流れだから、その「みなかったことにした」ことが"違和感"として残っちゃう。
よく分からないけれど、なーんだか気持ちワルイ、とか。

それが繰り返されると、自分の真ん中奥深く辺りでは、もう何となく分かっていて。
でもそこを観るにはコワサもあるからなかなか飛びこめない、みたいな。

そんな形で、どんどん自分への誤魔化しはきかなくなっていき、その違和感に堪えられなくなっているようです。

この違和感は、当然目の前の現象から連動して湧いてくるものだから、「現実」から離れにくくもなるようです。

それを考えてる間じゅう、その違和感を抱えてる間じゅう、現実意識の方に引っ張られます。

もれなく「思考」サンも元気にフル活動されるので、思考ぐるぐるになったり。その間は過去のどこかか未来のどこかに飛んでいます。

そして いまの流れ の特徴であるサポート力の強さがあるので、思考や現実に矢印向いてるときはそちらへのサポートが強くなり、抜けにくいという感じにもなりやすいようです。



いま に戻れば
不安らは消えます

とは言え
それが戻りにくいんだよなーと
いうところかもしれません

この急速な変化を身体に馴染ませ
調整してるというのもあります

人それぞれ様々な形で現れているので
一概にどーのとは言えないのですが

おそらく共通して現れているのは

・現象から自分の真ん中へ戻ること
(外向きから内向きへ戻ること)
・自分の本心に耳を傾けること

らを促すようなことで
そして

「それが、あなたがこれから
在りたい在り方ですか?」

と問われてるようにも
感じます

自己の再確認




意識が外向きになってるほど
これからはキツクなります

外側に
答えや原因を求めたり

そういった
いままで あたりまえ とされてきた事が

そっちではなかった
と 気付くよう
いま練習が起きています

少しず少しずつ小出しで(笑)
だから
どんな小さな事も
当たり前と流さずにアンテナ張ると
気付きが隠れてたりします

そういった
小さな 点 の気付きが
ポツポツと置かれていき
やがてどこかのタイミングで繋がって

ああ!

となったりします




色々な視点立ち位置により
言い方 言葉 が変わりますが

目の前の現象は
自分というものを
観るためのものです

この視点から観るとき
誰か固有の人 はいません

自分の中にあるものを観せるために
何か現象を起こしてくれた誰か は居ます

いますが
その現象の流れの一部なので
その人が という固有的感覚は薄まります

起きた出来事に対して
現象そのものに対して
その時自分はどう感じ
どう反応したか

観るのはそこだけなので

そこだけに意識を向けると
誰が言ったとかそういったものは
背景のひとつとして捉えるような
そんな感覚になっていくようです

本来そうなのですが

そこに
家族とか近しい人とか
過去の云々とか
そんなものが現象に纏わりついていると
どうしても 現象 のほうに
意識が行ったまま戻りにくくなり

うっひゃぁーとか
きっつぅーとか
なっているのが いま です


ある意味
自分の真ん中軸を
より太くしてる練習のような
ものなのかもしれません



身体だけでも
精神だけでも だめで

物質だけでも
エネルギー(波動)だけでも
だめで

両方が合って在るので

片方だけでは
片寄ってしまい

どちらかがいいと
言うこともなく

ただ

ウチが先で
ソトは後

エネルギー(波動)が先で
現象は後

そこは
変わりません




飛ばされては戻り
出掛けては飛ばされて
また戻り

戻って
安らかさで寛いで
安心してほっこりして

そんな繰り返しの中で
小さな気付きが現れ

少しずつ 少しずつ

感覚 意識の変化が
無理なくナチュラルに
進められているようです

だから
大丈夫です


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。