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それじゃない

それじゃないよ、というのを確認する体験をしてきた。

自分の真ん中は「それじゃないよ」と言うとるのに、自我さんの声が静まらない。
うーむ、となり。時たま自我さんモードになり。メンドクサクなったり。いや、本来のコエだろとなったり。

えーい!と、もう取り敢えず動いてみる。
本質からズレてるのならば、どこかでストップかかるだろ。このまま頭とやり取りしてても仕方ない。

"それである/YES" 前提で動いてみる。
途中までスルスルと動く。けどやっぱり自分のどこかで引っ掛かりがあるのが否めない。

そうこうしてるうちに、根本的に合ってないらしいと言うことが明確になる。
表向きは見えてなかったけれど、裏側では元から合っていなかったというのが浮かび上がり、そこで終了~。

あーなるほどね、だから「それじゃないよ」だったのか。でも表向きはとっても "それらしき" として出てた。あまりにも  "それらしき" なんで、自我さん食いつく食いつく。

動いてみてよかった。
「それじゃない」というのが分かったから。
「それじゃないよ」のコエを信じていいんだと、またひとつ信用する経験が出来たから。

こーゆうのを無駄だとは全く思わない。
むしろ良かったなーと思っちゃう。あのまま頭だけでぐるぐるしてたら、もっと引きずっていたんだろ。それが小一時間でスッキリしちゃった。

それじゃない が分かったなら、とっとと次に行けばいいだけ。
でもどっちか分からずでいると、「もしかしたら」がやって来て、ずーっと沼に入ってしまう。

それじゃなかった というのが分かる経験をさせて貰った。

どんな経験も
あらゆる経験も
無駄も得も
なーんも ない

ただ
自分の真ん中が
澄んでいくだけ

どの経験も
どんな経験も
自分の真ん中が
より澄んでいく



わたしにとって
それじゃない ものは

わたしの担当ではない
というだけであって

それがイイとかワルイとか
そんなのでもなく

他の誰かや何かが
その個性特質から
ベストな担当であり

その人や その何か でなければ
現せられないものであり

それだけのこと
なのだけど


自分が出来ないことは
出来る誰かがいるわけで

誰かが出来ないことが
自分にはいとも簡単に
出来ちゃったりするから

それが
それぞれの個性特質で

それだから
巡ってる



それじゃないよ、という体験をしたというのは、"外側世界の中の自分"という視点だけれども、これを内側向きと言うか自分の世界という視点にすると。

わたしがわたしを知るために
その出来事が起こり

わたしの世界でもう合わなくなってる
思いや考えのエネルギーが
認識できたので
また軽くなった

その出来事にまつわる
人も物も場所も
あらゆるものは
それを気付かせるための
役割を担当して現れただけであり

それそのものに
意図も意味も何もない


みたいな感じになる



「自分が」いるテイでの表現は
やっぱりエゴが喜ぶ

自分が 何かをし
自分が 何かを分かり
自分が 何かを経験してる
そして
自分が 向上し
自分が 成長する

見事な
すべてが
ストーリー



そして

いちばん
安らかさが現れるのは

自分が

不在の

いま


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