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自分 としてるもの

”自分というものを証明しなくていい”
なんて気が楽になる言葉だろう

自分というのは
ひとつじゃないから

「親の顔」という自分
「子供の顔」という自分

「男である」という自分
「女である」という自分

「姉である」という自分
「妹である」という自分

「社会人である」という自分
「学生である」という自分

もう何通りもの「自分」を持っていて

それは いま だけでなくて
過去と呼ばれるものにもくっついてるから
数えきれないほどになる

その全ての自分を 証明しなくてもいいんだよ と
言われたなら どれだけ気が楽になり肩の荷がおりるんだろう

「親である自分」を証明しなくていい
親でなくなる訳ではない 
親である自分とはこういう者だ という括りを
外していいということ
無意識レベルにある「親とはこういうもの」
から
逃れられるということ

「子である自分」を証明しなくていい
子だから親の面倒をみなければいけない
子だから〇〇の時にはこうしなければいけない
「子だからこうでなければならない」から
逃れられるということ

親だから 子だから 
その 肩書 に
自分でつけた意味づけに
知らないうちに無意識に
目いっぱい縛り付けられていたと
気付けるということ

そして
日常のほとんどは
この 無意識に自分で作ってる意味づけ に
埋もれて生活しているということ

いま は
そんなものらにひとつひとつ気が付いて
「これもかっ!」となるかもしれません



「自分のことを証明しなくていいですよ」
と言われたら
ホッとするだろうか 
焦る感覚が出るだろうか

何者でもない という自由さ

何者かにならなければならない という
追われたり縛られたりする感じからの解放

何者にもならなくていい ということは
何者にでもなれる ということ
何者であってもいい ということ



自分 というものは
過去のデータ から出来ていて
自分とはこういうもの という記憶 が
自分で自分を「こういう人」として
つくっています

いま
この底知れぬ何かを感じているのだとしたら
それはこの
「自分とはこういう人」という過去記憶データが
ほんとうなのか?と突きつけられる気配を
感じているのかもしれません

それは
「自分が」と頑張る自我意識には
とてつもなくコワイ事なのでゾワゾワします
今まで築き上げてきた「自分」が正しいと
主張します

でも
よーくよーく観ると 単なる記憶なんです

自分 はいまここに存在しますよ
でも
こういうのが自分 としているものは
記憶です

だから

そうでなくたって
いいんです

記憶ですもん

そうであっても
いいんです
どっちでも どんなんでも

何なら
決める必要なんて
ないんです

だとしたら

自分 という定義なんて

あってもなくても
どっていでもいーんじゃないかと

決めなくたって
「自分」という感覚はあるんだし
なくならんですから



自分というものを証明しなくていい
何でもない自分 であるならば

いま その目の前の出来事は

何者かである自分 の時と
違って視えているかもしれません


何者かに
ならんでもいいんです



何者でもない自分 から
湧き上がってくるものを

どうぞ
味わってみてください



それが

あなた です


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。