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かわったね

冬至を迎えたら
新しい年になった感が強くて
もう私の中では年越しをしてしまったよう

それでも街中はクリスマスの音で溢れていて
正月用のお飾りや供え餅が並んでいて
そして私自身も年内最後の買い出しに出てる

目の前に繰り広げられている現実と
自分の中に広がっている感覚に
タイムラグがあるような感じ

だけれども きっと
新しい年になった というよりも
新しいナニカに切り替わった
もしくは
新しいナニカを感じられるようになった
という感覚なんだと思う
まだはっきりはみえていないけれども


その薄らぼんやりのひとつが
「より自分の心地よい感覚に素直に」
みたいで
そうでないもの外向き感覚を選ぼうとしてる時
以前よりもぎゅぅーっと
ブレーキがかかる感じがする
と同時に ちょっと迷っても選べた時
その直後に「自分がヨロコンデいる」
感覚が来て ああこれで良かったんだと
気付きやすくなっている

何かの選択で迷っている時
「その選んでいる基準は何?」
「ご都合じゃなくて感覚で選んでる?」
とどこかで問いかけがされるようになり
少し前の”無意識に今までの惰性でそうする”
からは少し流れが変わってきていて
気づきやすく 目を向けやすくなってきている

こうやって
少しずつ日常生活の中に落とし込まれて行って
無理のない範囲で 許容できる範囲で
知らず変化が訪れていき
集合的には変わっていくのかな



それとは別に
そこに興味があるのならば

意識する というのが
keyにはなっていて

自分でそれを意識する
というある種の「行動」を
意志を持って行うならば
それなりの変化が訪れる

ここで引っかかるのが
今目の前の現実をよりよくしたい
という 外向き意識 で

その 意識するもと が
どこから来ているのか

そこをちゃんと観ないと
見かけは少しよくなったように
思える程度に変わるけれど
そこをぐるぐる回っちゃう

それはそれでよくて

ぐるぐる回って 回って
あれ?何やってんだ?と
そのうち気が付くから
いいのだけれど

ただ いま大きなものが
変わろうと流れているそのもの
からは 少しずれている

おおもとが ずれている

でも
それをやりたくて今世出てる場合も
あるだろうし
どのみち向かっているのは同じだから
ここらへんが
自我には分からない所でややこしい



こんなにスパーンと
切り替え感があるとは思わなかったから
結構うひょひょとなっているけれど

どこまでいっても

先ずは自分で
ご自愛で ご機嫌さんで
要らないもの見つけたらポイして
いまの自分で大丈夫完璧と
褒めて 称えて 敬って
やがてそれが腹落ちしていくから
そのころには
ナニカがもう切り替わっている



自分を敬う というのは

自我自分のことではなくて

その背後というかおおもとである
そうであるもの が
もともとのじぶん という
その 自我自分には贖えない
どうしようもなく尊いもの

そのじぶんのなかの気配に対して
そうだった と 敬うようなもの


誰ひとりのぞかれることなく
みんなに漂っているもの

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。