凶 は 最強
午前中散歩がてらいつもの神社へ。
毎月30か31日に、行けるようならミソカモウデに立ち寄る。
今月も何事もなく過ごせたお礼参り。
何の願い事もせず、単に「ありがとうございました~」と挨拶するだけだけど。
私は基本的に神社で願い事はしない。
八百万の神(やおろずのかみ)じゃないけど、神社だけに神様がいるわけではなく、ある意味森羅万象全てがカミサマみたいなもんだと思ってる。 だから風神・雷神・水神とかオナマエついてるけど、そういった日本の感覚が好きだ。 なんたって、そこらじゅう神様いるなら面白いし楽しい。
そこらじゅうに神様いるなら、普段何気なく心で願ってしまってる事などを、それご担当の神様が「善きにはからへ」してくれてるんじゃないかと思う。
だから神社でそこの神様に願うのではなく、普段知らずに叶えてもらっているお礼を言える機会だと思ってる。
どうも~ とお礼して境内出ようとしたら
「たまには籤(みくじ)引いてけー」と声がする。 ん? すーさんだ。
この神社の御祭神には須佐之男命(スサノオノミコト)も祀られている。 総称は長いので勝手に すーさん と呼んでいる。
そういやあ参拝してる間静かだったな。
私は御神籤も気が向いた時しか引かない。 というか、いつものこの神社にはしょっちゅう来てまったりしてるので、ちゃんとした参拝も毎回やってはいない。 御社殿に向かって一礼し「どうも~ お邪魔してまーす」って感じ。 今日は参拝したいなって時は、もちろん手清めからやるけど。
すーさんから籤引けってのも珍しいな とか思いながら御神籤を久しぶりに引く。 あ。今年初かもしれない。もう半分以上過ぎてるけど。
『凶』
ほ? 久しぶりに凶引いたなー。
残念なことに「凶」引いて落ち込むことは殆どない。 だってもし今がどん底だと言うのならば、後は上がるしかないって事だし。 それに全部ひっくり返しちゃうから。
書かれていたのは
「我(われ)望み願うことはすべて叶わず」
みたいな事だった。 まあ「凶」とはいえ随分悲観的な言葉で綴られてること! ホントに悩みある人とかこれ引いたら落ち込んじゃうよなあ。 もうちょっと救いのある表現にすればいいのに。
私がこれ読んで受け取ったのは
「自分で何かやろうとしても無駄だから、ぜんぶ任せちゃいなさい」
我(自我意識)であれこれ思索しても思い通りに上手くはいかない。 あれやろうかな、これやった方が先々いいかなとか。
そうではなくて、ちゃんと理(ことわり)の変化で流れているのだから、場の動き、流れに任せ委ね、都度目の前に現れた物事に対してその時の最善を尽くしてればそれでいい。
みたいな感じ。
くぅーっ お試しだったか。 と思った瞬間「がはははは」というすーさんの笑い声。
このところ何かにつけて出て来るのが
「流れにゆだね任せきる」。
なもんで、御神籤というある意味特殊な言葉で現れてもそちらに引っ張られないか という
すーさんの遊び心だ。 じゃなきゃわざわざ「籤引け」なんて言わない。
たぶん私の中にある「これでいいのか?」という揺らぎみたいなのに答えてくれたんだろう。
ほんじゃーまた来まーす! と社殿を出る。
お~ いつでも来ーい という声が心地よい。
明日で八月も終わる。
九月からはおそらく何かと忙しい。
忙しいというか、変化のスピードが加速する。
もうこの後のことはすべて愉しむと決めている。 決めてしまえば、どんな事でも面白くなってしまう。
これは言葉では伝わらない。 自分で体感するしかない。 一度腑に落としてしまえば、物事が段々シンプルになっていく。
体感するモトは誰でも常備されている。 人の数だけ仕様が違うだけで、誰でも。
今日の凶(うほっ♪)ではないけれど、
未来なんてわからない。
こうなるんじゃないか というのは過去の記憶(経験)から推測できることだけであり
こうなりたい というのは過去の記憶(経験)を元に出てくる希望でしかない。
過去の記憶なんて当てにならない。
私なんて昨日食べた昼御飯も思い出せない時がある。 そんなあやふやな記憶から湧いて出る未来に対する心配や不安は相手する必要もない。 どうなるかなんて誰にもわからない。
わからないもんに対して湧いてくる思い(不安や心配)と対話してると、もっと分からなくなるのは当たり前だ。 要らない。そんなの。
その瞬間、どう在りたいか。
どうなりたいか ではなく。
苦しみたいか 楽しみたいか
不安でいたいか 和やかでいたいか
どう在りたいのか。
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