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自分をコントロールしようとする思い piece_vol.58

先日とある出来事でまた大きくビューンと自分の中心から飛ばされてアタタとなった。
その過程の中で、ある人の目を真正面から見据えた時感じ取ったものが何だか分からないでいたのだけど、今朝おきたらああそうか、となった。

何かを「征服する事」に喜びを感じるエネルギーだったらしい。
今までの私の人生でそれをあらわにしているケースに出会う事がなかったから分からなかった。普通は奥のほうにしまいこんでいて、表面に出ているのは何か別の形で現れてる事が多いから。

私が飛ばされたのはそれとは違うものに反応したからなので単に「みせられた」だけかと思っていたのだけど、違うのかもしれないと感じるようになった。
「征服する」というとパワーで押さえ込む、抑圧するみたいなイメージが私のなかにはあった。特に誰か特定の人に対してとか。
今の自分の中にそういう対象者は思い当たらないし、だから関係ないかと思ったのだけど、ちょっと見方を変えた時に。

「自分で成しえている」「自分でコントロール出来る」という"思い"も、角度変えればこれと同じかと。
これは外側の誰かに向けてるものではなく、自分の中で自分が自分にしていること。
「これさえクリア出来ればもっと自分はよくなるはず」「こう(いう環境・状況に)なれば何かが動くはず」みたいな自分をより良くするためにしたことでそうなった(と感じた)時に得られる達成感みたいなもの。
それって"出来てない自分"を"出来てる自分"に変えられたという喜びのようなものを得ていたんじゃないかと。で、その喜び達成感を感じたいからまた次の"出来てない"を探す。ずーっと繰り返し。「出来てないこと」なんて沢山あるもの。そうやって「自分は出来る」を集めて「自分という存在」を強固にしていく。

ああ、あるよなー。やってるよなーと感じる。あの時その人の目から感じたものとは別物だけど、違うカタチで自分に対してやってる。ある意味自分の中で自分を征服しようとしてたところある。で、それに「正しさ」をくっ付けてたとこある。自分の中で自分に対する正しさ。自分で自分を納得させるための正しさ。

はぁ。外側の何かに向けてるものでないから気づきにくいやね。自分に対して無意識でやってる事って、ホント分かりにくい。
でもここにきて色々要らんものの投げ出しやらホコリ払いやらやって、もっと下の層にいるものが浮かんできてくれてるんだろうなあ。

上の層の「自分で成しえている」「自分でコントロール出来る」と理解していたものが分解されたけど「いや、これもそーでっせ」と違うパッケージのものを持ってきてくれたようなそんな感じ。いやはや。なるほどねー。

ここにきて「誤魔化しがきかない」「真実・本当のことが出やすくなっている」のはヒシヒシと感じている。外側の何かに対してそれを観るのは勿論だし色々起きてはいるけれど、当然個々の中でもものすごく強まってるわけで、以前だったらまあヨシナニで済ませてたものが、そうできなくなったりしてる。

今回私が吹っ飛ばされたのもそれで、反応したときにどうにも押さえきれなくなりその場で爆発した。とうの昔にクリア出来ていたと思っていたもの。あっはっはー。やっちまった。
自分でそれを「征服」出来たと思っていたんだろうね。言葉悪いけど。自分の中でそれを征服出来てたと思ってた。だからその人の目にそれを観た。

外側の事を自分で何とかしようとコントロールしようとする動き、と、もう一方で自分の中でも「自分 を 何とかコントロールしようとする動き」があるのね。なるほどね。それを体感させてもらったんだなあ。

こうやって「"その時"の自分の中の本当」も出やすく観えやすくなって、「本当」ていうと何かどえらいもののようにも感じるけど、言葉変えれば「その瞬間に出てくる、その場に対するまんまのもの」みたいなもの。
ゆるやかーな時には出てこないけど、何か特定の状況環境とか感情とかに触れたとき、バーンと飛び出してくる"その時"の自分の持っている"ほんとう"もそれに含まれてる。
今まで滅多にお目見えしなかった代物だから、お出ましになった時に自分で自分に驚いたりするけど、それってワルいことじゃない。ビックリはするけど気づくことは出来る。

今は内側のお掃除が先だからマイナスっぽくとれることに目が向きがちだけど、本当のことが観えやすくなるってことは、自分の中の知らなかったステキな部分も観えやすくなるっていうこと。
誤魔化しかきかなくなるっていうのは、自分の中の本当に「好きだーっ」てことや「やりたーい」と感じる本心を押さえつけて見ないふりが出来なくなってくるということ。

それってすごくヨロコビに繋がること。

現実面でどひゃーっ!となってものすごく飛ばされてアタタとなるけど、それが"気づき"に変わったとき、今度はその反対側にビューンと飛んで。そしてまた真ん中・中庸に戻っていく。その繰り返し。
その時ダイジなのが、やっぱり「自分の真ん中」で。そこがあるから戻っていける。

「自分の真ん中」は
ジブンの本当 であって
安心出来るところ。


誰でもある
「自分の真ん中」

そして
みなが繋がってるところ

そこから観て感じるものは
否定 反発 攻撃ではなくて
共感 共鳴 共振 になる

自分とは違う
ベツモノと観えてるモノゴトに
「視点の違い」という緩やかさが生まれ
共感はしなくても
「そうなのね」という受け入れはできて
そこから
また何か別の共振が起きたりもする


わちゃわちゃとても騒がしいし
振り回されるし
時には疲れちゃうし
だけどなのだけど

振り回されて
気づき が起きて
真ん中戻って
安心 がひろがって

そうやって繰り返される中で
ナニカが変わってきているという
この感覚

そして
意味のない安心感

振り回されるたびに感じる
「何も知らないし分かってないんだな」
という空っぽさ

空っぽ がひろがるほど
安心 もひろがっていく

この
不可思議さ
面白さ


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