そこかしこから与えられている
毎日ほんとうに様々な答えが
訪れてくれている
何ともなしに観た動画から
フと目を向けた景色から
たまたま開いた本から
形態やタイミングも様々で
ありとあらゆるもの
そのキッカケは
とてもとても些細な事で
何となく ん? と思って
興味を持った物事からやらで
なーんも気にせず過ごしていれば
ただの日常のひとコマとして
そのまま流してしまうようなこと
きっと今までも
沢山の訪れてくれていた答えを
そうとは気が付かずに
スルーして来たんだろう
それが今は
ここだよ これだよ
と敢えて見つかるように
ピカピカと光るかのように
その在処を示してくれていて
日常 という当たり前さに
埋没さえしなければ
きっと幾らでも見つけることが出来る
まるで
ボーナスタイムかのように
そこらじゅうに答えが現れる
これはきっと私だけのことではなく
全体 として起こっていること
今まで蓄えて来たパーツを繋げるように
その紡がれる糸が投げかけらている
それを受け取るかどうかは
それぞれ次第だけど
今はそんなステージな気がする
そんな流れでひとつのkeyになるのが
自我エゴ自分を
いつまで確固たる「自分」として
掴んでいるのか
この肉体を唯一の拠り所として
物質自分として
限りある制限世界を基盤とした
デフォルトの考え方を
絶対とし続けるか
そこには
精神世界やスピリチャルといったものを
不確かなものとかお花畑だとか
そういったどこかでの概念が
見えないもの に対しての
嫌悪感などに繋がっているかもしれないけど
でも
それすら 偏り の考え方であって
観なきゃいけないのは
それに反応している自分の嫌悪感やらが
自分の何に反応して出ているのか
なのだけど
そこをエゴが上手くすり替えて
怪しいもの と声高に叫ぶから
また 自分を観れる機会を
通り過ぎてしまう
外側に要因を示すのが
エゴ自我の得意技
そしてここで
じゃあ内側に要因ある自分が
よくないのね とかなると
これもまた違っていて
その声もエゴ自我であって
要因=ワルイモノ と
既に決めつけてるところから
始まっちゃっていて
ただ単に
キッカケになっているものはなに?
という 動き のご縁を指してるだけで
あらゆるすべては
このご縁繋がりで動いてるだけだから
イイもワルイもありゃーせん
ただそのキッカケになっているものが
自分というこの媒体通路に
必要以上に絡まっているのなら
外して軽やかになりましょーねってだけで
エゴ自我の主張から
ちょーっと離れて観てみれば
難しく考えなくても
スルリとわかること
ほんとうに
もんのすごい勢いで
明らかさ が
やって来ている