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鎮まりから

買い出しついでに近所の神社へ。ずっと30℃越え続きだったのでお散歩も控えていて、ものすごく久しぶりかも。今日も越えてるけど曇りだからそう暑くもなく、ちょっと寄らせて貰おうかなという気になり。

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蝉の声が鳴り響くのと対照的に、樹木たちはとても静かで落ち着いていた。
ゆっくりと、全体の空気を感じながら歩く。
鳩が一斉に舞い降りてきて空気が動く。辺り一面思い思いに動き回り、少しするとまた一斉に飛び立ち、何事もなかったかのようにもとの空気感に戻る。

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雨が落ちてきそうで落ちてこない。雨の匂いはしないから安心してゆっくり歩く。

人はいるし空気は軽いのだけど、神社全体がずぅーんと静まってる感じがする。なんだろね。いつもの定位置に座り、しばらくぼーっと辺りを眺める。何だかよくわからない不思議感。

社殿真正面に立つ。なんか知らないけどその時の人の往来により立ちたくなる場所が3箇所あって、今日は一番遠くから順番に。この位置から社殿までは2つの門があり、その2つの門を介して観れる。

ん?あれ?閉じてる?
いや、門は開いてるけど。閉じてる感がするなあ。私が閉じてるのか?ほぇ?

あまりに久方ぶりで私が閉じちゃったのかしらんとか思いながら門をくぐり2つ目のポイントへ。

あー、閉じちゃいないけどやたら細いんだ。なんじゃろか。でも跳ね返されるような感じもしないしなぁ。うーん?

社殿前門の手前一番近くのポイントへ。しょっちゅう寄らせて貰っているので、ミソカモウデ以外では殆んど社殿なかへは入らない。地元の人達は結構このパターンやってる人が多く、中まで入らず門手前から一礼をして通り過ぎていく。
さて。やっぱり閉じてはないけど中心に向かってつぼんでいるような感じがするんだなあ。そう、花が閉じかけてるような感じ。

閉じちゃうんですか?と聞いてみる。
閉じるのではなく鎮まってるのだよと何処からか飛んでくる。
鎮まっている・・?ああそう言えば樹木たちもそんな感じだ。”静か”ともちょっと違うなーと感じたのはそれか。

夏の躍動期がだんだんおさまり、秋へと移り変わる間の「鎮まり」の時期らしい。華から実のりへエネルギーが変わっていく。
あれ?でも樹木や植物はわかるけど、神社さんのこの変化ってなんで?とか思っていたら。

神社はまあ建物としてあって神様を祀ってあるみたいなのがあるけど、人それぞれ自分の中にある神聖なる場所というか真のスペースというか、そんなものにあたる所でもあり、神社参拝は己の真に触れるトキでもあるらしい。神社という場に身体はお参りしてるしそう思っているけど、ジブンという宇宙のなかの真なる部分にチューニングを合わせてる瞬間とでもいうか。そこで対峙してるのは結局自分の中の本来のジブンであり。言葉にするとややこしいな。

人間も自然の一部だから当然季節的なエネルギーの移行があり、今は例えていえばちょうど夏の盛りを終えて秋へと移っているとき。ぶわぁーっと開き躍動していたエネルギーが少しずつ落ち着いている時であり、神社はある観方をすれば自らの内側でありそれの現象でもあるから、「つぼんでいるような感覚」というのはそういうことらしい。

そっか、私の中のエネルギーが夏から秋へ移り変わるように鎮まりの変化をしてるのを感じたのか。で、それは閉じられるのではなくぎゅーっと花びらがつぼんで中身が濃くなる感じ。実へ詰まっていくような。そんなのが四季の移り変わりのようにヒトにも現れてるのね。そして個々と共に全体も。逆か。全体のその流れを個々としても感じてる。

言葉にするといかようにでもストーリーが出来上がっちゃうからなんとも、だけれど。


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そして
真実を観なさいよ、と。
己のなかの真実をちゃんと観なさいと。
眼をそらさずに。
季節の移り変わりという大きな動きだから感じやすいけれども、それだけではなく一瞬一瞬移り変わっているのだからね、とも。

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もわんとした中でも、時折吹き抜ける風はもう秋風だね。


夏の足音が遠のいて
秋という名のステキな巡りが訪れる

移り変わりの鎮まりのトキ

瞬間瞬間ではあるけれども
それを流れと捉えると
なんとも言えない味わいがあり
そう捉えられるこの色(シキ)のセカイは
やっぱり美しいなあと思えてしまう

そして
森羅万象の一部であり
自然の一部であり
自分 という肩書きを取っ払って
その中に在れるとき
そのうねりのような躍動のような
言葉にはならないそれの
ほのかなかおりを愉しむ

すてきなトキを
いつもありがとう


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。