見出し画像

生命人間の根源は不安と欠乏にある

最近見た動画で、題名の件をふと思いついたので整理しておく。







人間の根源は不安と欠乏にある

人間というか生命の根源はなんだろうか。欲求?尊厳?母なる海?適応?進化?色々とイメージされるものはあるかもしれない。しかし、その結論は見出しの通りだと思う。

というのもシンプルに生存に一番必要な要素はなにかと言えば、知性でもなければ、それは力強さでも、足の早さでもなく、恐れや危機感だからだ。一時の油断でどんな強者も隙を突かれてやっつけられてしまう。なので、皆生き残るために細心の注意を払う。そのセンサーは人間にも当然内蔵されていて、不安や欠乏感という生存に向けた本能として、我々の行動の根幹にあると思う。全ての始まりにして根幹はここなのだ。





直感のずれ、事実とのずれ

不安 = 直感的な危機感、恐れ、判断
欠乏感 = ないと満足安心できない何か、欲求

この2つのセンサーは自然界を生きる、自然状態を生き抜くには非常に有功だったと思う。直感的で素早い回避行動は多少外れることはあっても、生存に有利に働く。また、Xがこの世界や自分の満足には足りないと思えば、その足りなさXを埋めるべく皆が何かを産み出して、人類の可能性を拡大していくのだから(欠乏が欲求へと転じる)。枝分かれしていく多様性の確保に繋り、自分だけのニッチな居場所の獲得や、また長期的なだれかが生き残れば良いの種としての生存戦略にも繋がる。

しかし、直感には誤りを多く含む。トリックアートみたいな視覚の例もそうだし。数学的な問題における直感と事実のズレもある。例を挙げればきりがない。そして、それはこと社会が複雑化しすぎた現代ならばなおのこと、もはや直感的な判断は外れることも多い。

また、欠乏感も厄介な要素をはらむ。それがサバイバル自然状態であるならば、何かを埋めよう、足りない何かを生み出そうは無から有の創造として、価値しかもたらさない。しかし、こと現代社会においては、ものもなにもかもが既に満たされている。そこでの欠乏感はおかしな形で表出する。無いものを生み出すではなく、欠乏感(アイデンティティー)を埋めるためだけに何かをするという本末転倒に陥っている。

無駄なことを尊ぶ。手間暇を尊ぶ。逆張り。相手とは違う。他人とは違う。誰かを必要以上に従える。お金資産を多く持つ。仕事をしないで自分らしく。肉欲の類いをことさら満たそうとする。といった、生存戦略としての多様性と言えばそれは一応そうかもしれないが、なんともおかしな枝分かれしただけの意味をなさない価値に拘ることに繋がったりする。簡潔に言えば、価値を求めて結果として枝分かれしたはずが、枝分かれすること自体が価値であるかのように錯覚し、主従が逆転しているのだ。

形ばかりの実、実態のない多様性を突き進んでいるともいえる。そして、辿り着く先は、多様性とは名ばかりの、人間の人間足る社会化自己家畜化によって、必然的に生み出される資本主義、市場原理、階層社会に有利な、資本をより蓄えたがる欠乏感を持ち合わせた人だけが生き残り繁栄していく。このある特定ルールに縛られながら、皆が自分だけ良ければいいと、おこぼれにあずかれればいいと邁進していく。違和感しかない。
※自己家畜化や資本主義と市場原理の詳細は下記記事を。⬇️





不安と欠乏感が生む悲劇

不安や欠乏感は人間の誤った欲求や行動に繋がりやすい。遥か先を見通せば、人間の作ったすべては、自然なそのセンサーに従っていれば、全て自重で自壊する。

不安の反転として、安全安心神話に走りすぎ、無駄に高い鉄壁の壁(とにかく貯金だけするとか)を作ることになる。(もの作りにおいては、それが、技術力として一役買う場合もあるかもしれない)。しかし、それだけ流れが滞り停滞していく。無駄な管理や行き過ぎた制約だらけになる。

あるいは、個々の不安をなくすために責任転嫁や責任逃れの道筋を作るべくどんどん例外や追加処理が増えて、複雑怪奇なルールや構造物となる。誰しもが守りやすいシンプルさや実態実利からはなれて、処理ばかり煩雑になる。無駄だ。のろまな恐竜は、素早い恐竜に勝てない。どんどん自分で鈍重になっていくことにうすうす気づきながらも自然な力学が働き続ければ、その重さはどんどん増していき、いつか自走できなくなってしまい自壊する。適した速度、適したサイズや適したラインを無視して、不安のいいなりになるからだ。大企業病とでも言った方がわかりやすいかもしれない。

欠乏感も厄介だ。それは反転して、執着に繋がる。より欲しがる群がることに繋がる。一度てにしたものを失うなことができなくなる。一度あげた生活の質が落とせなくなるようなものだ。生活の質よりも、権力や影響力に執着するとなお始末に負えない。どんどん上へ上るしかなく、上ることが目的化してしまう。

本質を言えば、欠乏感を満たす何か、埋める何かを産み出す。その目標のためにその人に必要な分丁度の資源や影響力が集まれば良いだけなのに、手にした資源や影響力に酔い欠乏感にとらわれ、当初の本当の純然たる欠乏感を見失う。




不安と欠乏感への対処 個人編

もしベーシックインカムが導入されて、生き残るのに不安がなくなれば、私たちは救われるのだろうか。そうはならないとおもう。夏休みの小学生が勉強をしないように、社会人になって本を読む人が減るように。不安は生存のためのセンサーであり、生存が担保されれば、不安は感じなくなるだけだ。不安がなくなる事=幸せや何かに繋がるわけではない。マイナスが0になるだけでしかない。

もし不安がなくなれば、残るは欠乏感だ。各自がたりない何かを求めて好きなようにするフェイズだ。といっても多くは、ネットフリックスでも見続けるんじゃないだろうか。周りに生産的な欠乏感のうめかたをしている人がそんなに多いか??という話だ。小手先の目先の欲求に欠乏感を埋めるか。ただ人と違うことだけに欠乏感を見いだすか。





人間らしさ。個人らしさ

不安と欠乏感は、喜怒哀楽でいうところの哀の感情だろう。それらがバランスよく噛み合えば、不安エネルギーを、足りなさをうめる創造力に効率よく変換できる。

しかしこれまでのべた通り誤った脊髄反射に浸ると、簡単に自重で崩壊への道を辿ることになる。では、人間は何を指針や道しるべにするのか。人間らしさとはなんなのか。

これも上でのべた通り、不安と欠乏感を本来の使い方、新しい価値の創造に向かうよう極力振り分けるしかない。難しいことではなくそれは当たり前の言葉でよく使われている。知的好奇心と集中(フロー状態)だ。自分の心の興味関心に素直になりその道を進む。そして、集中状態に入れるのならば、その道はあなたにとって間違っていないし、適度な刺激と成功体験をもらえている適切な場所だといえる。

動物や生命の根源である不安と欠乏感に振り回され囚われないこと。遺伝子の囁きに唆されないこと。そして、新しい価値の創造に務めること。これこそが知性(将来を見通す予測する力)をもちえた人間の人間らしさであると思う。





おわりに

色々と紐解けた気がします。広告や宣伝や本でもなんでもお笑いでも。欲求を刺激するとか購買意欲を促すとか、まぁなんでもそれっぽいことをいいますが、やっている本質は、不安(このままじゃヤバイ)をあおり、欠乏感(あなたはこれないよね?)を煽る。文芸大衆紙なんてまさにこの極地ですね。裏を返せば大衆を操りたいのなら、不安と欠乏感を徹底的に意識して戦略を練れば良いわけです。見出しでも内容でも全部不安欠乏感テイストでいきましょう。

本の物語性も、結局はハラハラする状況、先が読めないという不安な訳です。ホラー漫画もそう。ミステリは死体を並べて人が死ぬ次も誰か死ぬという不安をならべたてる。

さて、人間の人間らしさを真の自由を取り戻すために、資本主義が社会体制あぁだこうだ書いたこともありましたが、社会的な不安のコントロールと欠乏感のコントロールを前提に組み立てれば、人間は次のステージに行ける気がします。とはいえ、変革者は外から来るで書いた通り、既存の体制、既得権益側はこんなことをしてくれないので、どういう展開になるのでしょうか。また、何か思いついたら続き?を書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?