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男女比率を考慮した議席数とかクォーター制度?とかについての反論

なぜ、この手の話を推進したがる人がいるのか謎です。どう見ても泥沼なのに賛成したがる人かいるのは謎です。以下、つらつら書いておきます。






そもそも政治とは

政治とは?なにかと言えば、それは社会で集めた富の再分配や使い方を、より社会をよくするために決めることです。そして、経済とはその富の流れや動きの法則のことです。

小難しく考える必要はなく、家族旅行と変わりありません。お金や時間が無限に有れば全員が納得する旅行プランを実現できます。しかし、そうではないので、全予算は十万円で、みんなが一番楽しめる旅行プランはどうかを考えることと一緒です。お父さんはのんびりしたいとか、お酒が美味しく飲める工場見学に行きたいかもしれません。お母さんは、普段の疲れを癒したいからゆっくりしたい、ご飯の準備やら家事はしたくない。お土産やらも必要あらば家に送り返して軽装で行きたい疲れたくない。長男はゲームセンターや遊園地にいきたがったり。長女は、都会のお店が立ち並ぶなかでファッションやらのショッピングに行きたがるかもしれません。





良い政治と悪い政治

誰彼の多種多様な考えや意見があるなかで、それを中立で公正に接し、高次で複合的で一番成果や価値の高い解決案プランを練り上げられることが良い政治です。

荷物は軽く済ませたいなら送るより、車にしよう。レンタカーにしよう安くすむとか。ゲームセンターは近場でも行けるから却下、そこにしかないものがあるなら再提案を!とか。遊園地は保留。長女には、いっそ別行動してもらうとか。あるいは、欲しい服や見たい服を事前に絞りこんでおき、時間節約してもらう等々。やり方は様々あります。

悪い政治は、良い政治の反対で、中立でも公正でもなく、なにかに偏った解決案プランを提示することです。それが皆の利益になるならば、まだましですが、実際は、それが決定者の利益(政治家の自分の仲間団体への利益誘導)になっていることがおおく、あるいは利用されることが多く。国民の不満は募るものの、覆す力はなく、歯ぎしりするのみです。




悪い政治の詳細

悪い政治の根源、”偏り”には三種類が考えられます。

1、プランが高次で複雑すぎて、中立公正が理解されない。利益が理解されない。将来のため等の時間軸がずれすぎて理解されない等々。皆を納得理解させられないケースです。(偏っているという誤解、説明不足。)

2、多種多様な意見が入り込まない。多種多様な意見にひらかれていない。届かない。無知。(前年踏襲ばかり、世間知らず、問題発見能力の欠如、インプットの段階から偏り)

3、多種多様な意見があっても、結局は決定の段階で偏りが生まれ是正されない。(汚職や腐敗、アウトプットの段階で偏り)

要因経過は様々あれど、良い政治に至るための、中立公立で皆にとって望ましい解決案プランを構築することができていない偏っている状態が悪い政治です。








本題 比率で数を決めてしまう!への反論

悪い政治にありがちな、多種多様な意見が採用されない、偏っている!(例えば、長男の意見ばかり採用されている!)という状態を打破するために、ある人は、長男と長女にそれぞれ明確に1票すつ投票権(権限)を与えよう。とでもいうような議席数の比率での中立公正(男女1対1の議席数等)を達成しようとします。確かにそれは、長男に偏っている状態よりかは長女側が重くなり、一見、中立公正に近づきます。しかし果たしてそれが本当に正解でしょうか。

問題点はいくつかあります。




1、対立構図の解決にはならずに、むしろ対立構図をより強調させること

例題のまま考えるならば、長女にも投票権が明確に生まれれば長男に偏ることは減るでしょう。中立に近づいたように見えます。しかしそれは、長女と長男が表だっていがみ合うようになるだけで、それでより高次で複合的な中立公正な解決案の構築につながるのてしょうか。繋がりません。

中立公正とは、利害関係を主張し対立しあう中で生まれるものではなく、それらを把握して俯瞰や一歩引いて、より高次に見れる者が、利害関係を調整し相互へ説明し納得させ、解決策プランを裁定するものです。片方に偏っているなら、もう片方に力を与えようという話ではないのです。

極端な例を考えればわかりやすいです。長女と長男の枠ではなく、各1000人の中から選ばれた男女5人同士の代表による会議の場合ならどうでしょう。長男と長女の1対1のシンプルな例ならば、持ちつ持たれつの着地点は形成できたかもしれません。しかし、1000人の中での女性(ショッピング)代表、男性(遊園地)代表となれば、当然、選んでくれた人の期待に応えるべく、その視点や属性やらの利や意志に固執することになります。それを求められているからです。ここでどうして相手に歩み寄ろうや、高次の何かを生み出そうという視点が生まれるのでしょうか。(高次の何かや妥協すること自体が、当初の遊園地の利からほんの少しでも遠ざかることと同義です。損をする選択肢を考える動機づけがありません。仮に妥協してでも勝ち取ろうとする動機づけで、歩み寄りは起きるかもしれませんが、妥協という下心によるプランは、改悪案かもしれません。相互に胸を張れる成果になっているのでしょうか。)

言い換えるならば、女性議席の確保とは、つまり女性代表として、中正公立ではなく女性の地位向上の意見や主張をくりかえすことが存在意義になります。それは男性側も同様です。もし仮に、男性代表(女性代表)の癖に女性(男性)案に一票入れて可決されようものなら、その男性(女性)やその男性(女性)を選んだ人は、裏切者として見なされるでしょう。そこにあるのは中正公立はなく、自分の利を声高に言うことでしかなく、それこそ対立構造を激化させ相互理解を阻むものになります。





2、属性や視点反映の限界。構造反映の限界

多種多様な意見からの偏りとは、男性と女性の対立に限ったことではありません。若者と老人。保守と革新。大企業と中小企業。地方と都会。なんにでも対立しがちな構図は溢れています。なぜ男性と女性だけに絞り、そこの偏り是正にだけ力を入れるのか謎です。それこそ中立公正ではありません。

そうすると、男女の議席数比率の達成だけではなく、その国の状況に合わせた議席数にする。その国の多種多様なパラメーターを全て反映した議席数比率にするみたいなことを言いだす人もいるかもしれません。単純に考えて不可能です。女性であり地方に住み、大企業寄りの見方等。人に寄りパラメーターは複数所持しているわけで、縮図を議会に作ろう!という発想は不可能です。つまり、多種多様な偏りを、そのまま議会に持ち込むという発想自体が不可能でおかしな道です。

そして仮に持ち込んだとしても、1の問題点がつきまといます。




3、結果としての平等、の思想哲学的誤り

これは、議席数の比率数に限った話ではありませんが、結果の平等の思想を含んだプランは腐敗や破綻を生じやすいものです。

女性の議席の数を最後に帳尻で合わせる。保育園の運動会で全員手を繋いで同着でゴールする。各自考えやすい例で結構です。そうしたゴールで最終調整する結果としての平等は、最後に合わせるんだから、一見平等(偏りの減少)になります。でも、並ばされ無理に下に帳尻あわされた側は、不満がつのるでしょう。そして、背景や過程がどうあっても、結果が同じという無意味さは、人間のやる気や意欲を削ぎます。不毛です。横に並ばせることは、本当の平等(偏りの減少)ではありません。ただその時、下にいるものを優遇しただけです。

本当の平等とは、スタートラインにたっているときの各自の背景という数値があり、それをある完全な計算演算式にいれる。誰もが理解し納得する同じ処理と結果になることです。一発テストの結果だけで判断することではなく、各テストの結果数値”だけ”で判断することでもなく、その人の基本情報、テスト迄にその人がしてきたその人だからできた努力等々込でその結果が判断されること。加えて、その判断は、同じインプットならば誰しも同じ処理(アウトプット)になることが本当の平等です。






おわりに

まとめるならば、比率云々の方法で、偏りを失くそう!という目的は正しいと思います。しかし、そこで比率云々を手段とすることに誤りがあります。多種多様な視点を入れるために多種多様な何かを反映させたり、権限を与えよう!という手段が誤りなのです。これは上で述べた通りです。

じゃあどうすればいいのかと言えば、偏りを失くすにはどうすればいいのかといえば簡単です。選ばれる人が、選ばれた代表者が、中立公正であればいいだけです。あるいは、選ばれるという発想を失くし、すべての人が分け隔てなく政治に参加でき関わりを持てるのならば、中立公正は達成できるでしょう。前者は、政治家の質の向上であり、後者は直接民主制を基軸にした政策決定方式や体制への移行でしょう。

もうすこし具体案に落とし込むとすれば、政治家(権限者、役員)になるテストでも設けて、政治家条件に中立公正であることを組み込めばいいと思います。あるテーマの論文や口頭審問をすれば、すぐに化けの皮がはがれることでしょう。AI分析にでもかけて客観的に指標化可視化することも可能でしょう。あるいは、各年度の誰彼の動向や実際にそれで動いたプランや予算やらの流れを全て把握するようなAI処理ができれば、利益誘導や意見誘導による腐敗や偏りや偏向思想を発見できることでしょう。

後者のデジタル直接民主制は、拙記事で何度か上げている話なので選挙の無駄とかの記事を読んでもらえれば、伝わるのかなと。

最後になりますが、ロベスピエールは、童貞で子供がいないものだけが政治家になるべきといったとかいわないとか(うろ覚え)。中立公正や平等を突き詰めてそこまでの人でないとなるべきではない!とは思わないのですが、中立公正とは、その人だから持ち得る一つの資質や能力や気質性質の話だと思います。

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