45歳独身狂う説(既婚も)の賛同派より
題名の件の記事を見て、思ったことを整理しておきます。
大前提 人は狂う
いつの時代や状況でも、人が人間らしくあるための3要素が満たされないと、狂います。ここでいう狂うとは、メンタルをやるとか病院に通うといった狭義の意味合いではありません。人生の意義や目的や価値を見失い、嫌気や失望やどん詰まりの絶望感を抱えるということです。そして朽ちていきます。マイナスな方に傾いていきます。これが狂いだと思います。
人間足らしめる3要素とは下記の通り
1、不安
2、欠乏感(飢餓感)
3、期待(居場所)
衣食住や将来への本能や生命維持への不安
なぜか自分は拘ってしまう分野や領域や方法への取り組みの欠如
自分の存在を認めてほしい。自分の成果や努力による達成感満足度がほしい
もっと簡潔に言えば、
今や先への物資や資源の不安
やりたいことをやれないが続く
居場所がない
40代は一番生き辛い
独身でも既婚でも40代が一番生き辛いと思います。”狂う”と言われるような頭を抱えるに絶望感に振り回されます。
独身の場合
・行動様式がパターン化し、変わり映えしない日々に飽きてくる
・子供の入学等の生活変化がないので、昔や単一へ固執、時代遅れ。
・病気を患う、明確な体力の減衰
・以上をまとめた、下り坂への老後将来不安
既婚の場合
・家事育児仕事の3重負担
・子育て費用やローンやらの経済的負担最大
・病気を患う、明確な体力の減衰
・以上をまとめた、現状維持と遂行にかかる日々の重圧に苦しむ
独身の場合は、外からの力がかからないので、惰性や繰り返しや習慣で生活していきがちです。昔から所属しているコミュニティを継続したり、特定SNSへ依存することで、人との繋がりを求めます。しかし、特定の媒体だけだと、偏った価値観が強化されることにもつながります。世間から外れた行動にうつることも出てくるでしょう。生き辛さや後ろめたさや焦りもあることでしょう。ここに”飽き”(後述します)と”大病老化”があわさり、人生の下り坂を意識して、狂うわけですね。
既婚の場合は、独身よりも”やること”の多さですでに重圧が強めです。そこに学費などの子供の経済的負担増がのしかかってきます。仕事への展望や期待があればいいのですが、20年近くも経った慣れた仕事に、新しいドキドキや成長の手ごたえはありません。繰り返し惰性です。(大企業なら異動やら出向やらがあっていいんですけどね…)夫婦仲が悪かったり、息抜きや気晴らしの時間が持てない上に病気が重なると、この先もずっと荷物は重たくなるばかり。しんどい…と、重圧に狂うわけですね。
つまるところ、独身は、二番目の欠乏感や三番目の期待が激減するせいで、一般通念とかけ離れた狂った言動にみえる行動が目立つようになるか。あるいは、激減に驚愕し、絶望という狂いを抱えていきるかとなります。
つまるところ、既婚は、不安と欠乏感(やりたいことをやれない)に常にさらされています。ストレスフルです。残るは期待頼みです。仕事が充実しているとか(ごく少数)。父や妻としてパートナー間や、子供からの尊敬感謝により居場所がある場合や、友人関係や趣味の集いで居場所があればよいのですが、それが危険にさらされると狂うわけです。
狂わないようにするには
親の介護や病気やら子供の学費やら、将来の不安を事前にしっかり把握して、対処しておく。準備しておく。
本当に自分がしたいことを自覚して、その領域を拙速でもいいから、常に前進する。
コミュニティ(ネット上やデジタルでもよし)に参加して、人との繋がり=価値観のあう人との居場所を作っておくこと。
不安と欠乏感と期待にしっかり対処できていれば狂いません。ありきたりな結論ですが、ありきたり故に、普遍的で真実なのだと思います。つまり、やりがい(生き甲斐=欠乏感=どうしても人生で成し遂げたい何か)を自覚することと。人と繋がる事です。この2つともがないと狂います。
しかし、ここに1つの大きな勘違いというか、誤解が蔓延しています。
趣味≠欠乏感 と、飽きに関する誤解
生き甲斐ややりがいと、居場所(期待)
一番それを安直に満たすために、推し活や推し活的行動群を人はとりがちです。これが誤解であり、狂いにつながりやすい要因です。
格好いいとか、綺麗とか、楽しいとか、なにか興味関心を惹かれる対象があり、それらに自らの資源を投資する。で、それらが増えるとかそれがランクインするとか、自己ではない対象の拡大増加を、自らの期待の充足と誤認する行動群のことです。
例えば、アニメが好き。グッズ購入で、布教活動をするなんかがそうです。
あるいは、アイドルが好き。でライブに行ったり媒体を買ってチャート入りに貢献した!と騒いだりとかがそうです。
さて、具体的になにが誤解で誤りなのかと言えば、それはなにも自分自身が前進していないからです。流れてくる風を心地よく感じたり。浮き沈みの波に身を委ねているたけだからです。
海外に行ったことがある人と、ない人。なにかさがあるのてしょうか。日本一周した人と、してない人。なにかさがあるのでしょうか。上であげた行動も一緒で、体験や経験や記憶の差はあるかもしれませんが、なんら自分がそこにはありません。お客さまというか、受け身でいれば、ただの消費的行動でしかなく、快か不快かしかのこりません。
そうではなくて、生産的行動(なにかをうみだすこと)こそが、自分を知り、自分を前進させてくれます。その達成感に生き甲斐と期待(居場所作り)を感じ、狂うことなくいられます。
旅行の最中の出来事を多少盛ってもいいから、面白い話になるように話の構成を考えて記録してしまうでもいいですし。そういう癖があるなら、それを前進させればいいと思います。それは生産的行動です。アニメがすきではなくて、ついつい声優さんの声に聞き入ってしまう。声優さんにしてほしい企画や脚本を自作しちゃったでもいいと思います。それも前進です。
さて、ここで飽きについて触れたいと思います。消費的行動だけをしていれば、いずれあきます。なぜなら、それは上っ面の表層しかないからです。誰かが作った気持ちいいものというパッケージは、そこそこ綺麗で良いものです。しかし、本当に自分が満足するものではありません。自分で作ったわけではないからてす。常にもう少し足りないとも言い換えられます。(そのなにか足りなさが欠乏感であなたの進む道です)
わかりやすく飽きを例えるならば、美味しいカレーを探して店をやみくもに食べ歩くようなものです。もっとしょっばいとか、コクとか、スパイスがどうのとか。その答えを知らない考えないままに、旅をしていても、決してゴールにはつきません。むしろ前にも似たようなものがあったという経験や記憶ばかり時間と共に増えていきます。そして終わりのない旅に、いつか疲れてやめてしまう。これが飽きであり消費的行動の到達地点です。
四十頃にオタク趣味やアイドル趣味に飽きるといい出す層はここの人たちです。
おわりに
YouTubeの五分動画製作に、五時間かかっていたりするように、生産的活動は途方もなく大変で骨のおれる作業です。
それに疲れてやめてしまうのも別に悪いことではありません。それは、あなたの欠乏感とそれの満たしかた(活動)が、厳密には噛み合っていなかったというだけだからてす。
過去に、物語が好きだし、文章も好きだしということで、物語を執筆してた時期もありました。しかし、プロットやら話の骨格を考えることはできても、肉付けがまったくできませんでした。台詞や描写がまったくできないんですよね。
で、あぁ、自分は人が感動するとはなにかとか。物語とはなにかとか。人の関係性の可能性を探るとか。そういう道を進むことが好きなだけで、物語を作るではないんだな…と知りました。
とはいえ、肉付けは得意だけど、骨格は苦手という人がいれば、いつかタッグを組むことができるかもしれません。
生産的行動は大変ですが、こうして前進して、いつかそれが実を結ぶかもしれませんし。なにも実らなくても、その前進の過程は確かに自分を誇り、自分が満足する人生を歩ませてくれるものたと思います。