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「メイド・イン・ジャパン」読んだ感想・思ったこと

「メイド・イン・ジャパン」黒田晶 作
2001年刊行 第37回文藝賞受賞

 ドラッグ、ゴアシーン、強姦、トラウマ、同性愛などタブー(本作2001年刊行)を易々と乗り越え、加えて横文字、太文字の入り乱れ、はちゃめちゃな英語、口語、行間の使い方など、かなり実験的で「本」という概念そのものを壊す作品である。

 そもそも『「本」という概念』とは何たるものであるか?それはおよそ誰に回答させてもこの本とは真逆な要素の回答で返ってくるのではないだろうか。日本人にとして本というものに触れているからこそこの本を読んで感じる違和感というのが非常に斬新であり、文学界に一石を投じる作品であるだろう。否、文学界のパンク・ロックだ。

今までの在り方を全て無視しきったこの作品は賛否両論凄まじい事は容易に想像できるが、私は新しい「本」の在り方を見せてくれた黒田氏のその反骨精神と勇気に敬意を表したい。
「メイド・イン・ジャパン」とは主人公らの生まれ人種や物語内の事象の場所を指したものでもあり、本作を読んだ際の読了感そのものを指すダブルミーニングなような気もする。

 「何回も殺される存在」というテーマが面白かった。これは作品内登場人物らのスナッフ・ビデオの中の子供への、主人公シュウの過去の自分とその子の重ね見の独特表現であるが、この作品自体が「何回も殺される存在」という脅迫めいたメッセージとも感じられた。


ページを開けばまた何度でも蘇るし、何度でも同じ「死」という結末を迎える。それは作品の中では「事実」であるのに、私たちは「フィクション」として消費する。私たちがこうして生きている最中の多数の選択の分岐を辿れば、同じようになってしまう可能性だって微小でもあるはずなのに。いつかどこかの自分かもしれないのに。他人事に見ている。

といった訴えのようなものを小説からひしひしと伝わるのだ。というか、読者へのメッセージが主体で、物語自体に意味を考えるのはナンセンスなのではないだろうか。
作品作りにおいて大切なことは、事象、言語化、抽象化の3つであるとどこかのネット記事で見たことがある。この作品に当てはめるなら、最初に言語化し、抽象的に希釈してから事象で肉付けしたといったところか。

作品自体はフィクションらしさが非常に高く、文章のグルーヴ感と見せ方によって勢いよく読めた。小説というより、とめどなく流れる動画を見ている気分だった。
そういう節々に、過激なゴアシーンのあるスナッフ・ビデオを見るも現実離れしていてにわかに信じがたい登場人物らに我々がかぶるものもなかろうか。

 以上、本作と対話した気になったが、真意の奥深くまではわからない。小説としては人物の深掘りが不十分であると感じたし、書き分けができているとも思えない。それは意図的かそうでないかは黒田氏の他作品を読んでいないので判別し難い。ただ芸術的なセンスはかなり感じられた。ニュースを騒然とさせる「キレる若者」、どうしようもない擦れたアメリカ人、「死」というものがシニカルかつコミカルに扱われていた、そういうバブル崩壊後の世紀末・00年代の陰鬱とした雰囲気を小説から感じられる。時代が許したのか世間が許したのか、それらを考慮しても、良くも悪くも崩壊し尽くしたこんな作品が文藝賞を取れているなど奇跡に近いものなのではないか。出版しているということにも驚きであるが。こんな前衛的な作品は後にも先にもなかなか出るまい。一度試しに読んでみてはいかがだろう。



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