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はつねつ

諍ひの夢に目覚めて鵙のこゑ

世阿弥忌の服脱ぐやうな愛を得て

ラグタイム秋雨の庇は続く

蚊帳の果お菓子のやうに媾ひぬ

あさがほの実を摘み取つてタオルの忌

老兵に秋薔薇はかなしきしぐさ

渦を飼ふための白露の注射針

はつねつの莢うつすらと葡萄摘まむ

抱いた児の眠りて波の秋生まる

まだぬくき箒さらさら星月夜

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自由律俳句を作っていると、定型の力に気付かされる。
換言すると、定型を離れた自分が実に無力であることに直面化させられ、急に心許なくなるのだ。
いかにこれまで自らの句が、定型に守られ、依存していたことか。
自由に感性を遊ばせて句を作ることが喜びだと思っていたのに、結局お釈迦さまの掌中を抜け出せなかったわけだ。

自由とは、とても恐ろしい。
自由律俳句ですら、先人達の築いてきたエートスと言うか、ある種のテーマ的な型があって、作り手としてどうしても類想を意識せざるを得ない。
韻律からも、過去の文脈からも自由に…。短い詩として自由を突き詰めると、どこに行き着くのか。
ゴールはわからないが、プロセスとしてはこれまでの感覚をバラバラに解体して再構築するような、空恐ろしい営みが想像される。

いつか、玉葱を剝き続けていたら何もなくなっていた、みたいなことになるかもしれないけれど。

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