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恋するカンガルー


動物園でカンガルーと目が合った。同じ動物園で瑠璃コンゴウインコには完全に無視されてしまったのだが(前号)、このカンガルーは柵を隔てて数メートルの距離から私を見て後ろ足でぴたっと立ち止まった。

太陽崇拝のカンガルー仲間達がみんな日の差す方に顔を向けて礼拝中だというのに、このカンガルーは勇敢にもひとりだけ、間延びした顔を私に向けてきたのである。

目と目がまともに合ってしまった。ついさきほど、あのきらびやかな衣装を身にまとったラテン系の瑠璃コンゴウインコに無視されてアニマル不信に陥りかけていた私は、ちょっとどぎまぎしながらもこの思いがけない出遭いに心を奪われたのだった。

カンガルーは私をじっと見つめている。この縄文日本男子の、五頭身か六頭身ぐらいのぱっとしない見た目の私をひたすらじいっと見つめている。太陽崇拝の仲間をうっちゃっておいて、私に心を移してしまっている。

私がこのカンガルーの太陽なのだ。たぶん。

カンガルーは私に向かって礼拝しているのである。体をねじって夢みるような目つきでじいっと私を見つめているのである。念のために周囲を見回したが、このカンガルーの視野に入る範囲に私以外の人間はいない。猿だっていない。あきらかに私を、この私だけを特定して見つめているのだ。やっぱり太陽なのだ、私は。

ちゅうことは、崇拝されているのだ。

そう思ったら急にモワモワしてきた。するとこれはナニか、アレなのか、求愛なのか。ちゅうことはメスなのか、と案ずるまでもなくメスに違いない。しかも若いメス。

五頭身六頭身といえど、まがりなりにも私は人間界のオスなのだから、もしもこの恋するカンガルーがメスでなくてオスだったりしたらえらいことになってしまう。ましてやオジイサンだったりしたら、もっとえらいことになる。そうなったらLGBTどころの話ではない。乱交状態、ちゅうか、性の多様性というものが拡がりすぎて収拾がつかなくなる。

したがって、これはどうあっても〝若いメス〟でなければ困る。

「同性婚を認めないのは違憲だ」という画期的な判決が先日、札幌地裁で出たばかりではあるが、今の私の目の前の情熱的な現実はそれをはるかに超えてしまっている。

五秒ぐらいでそんなことをパパッと考えてから、思いついて私は昔のイングランドあたりのMr.Postmanみたいに首から提げて前掛けにしていた使い古しの革製バッグに手を突っ込むと、十五年ぐらい前の旧式のPanasonicのデジカメを取り出して、祈るような気持ちでファインダーをのぞいてからシャッターを切った(=掲載写真 カメラがあまりに旧式なので鮮明ではないが、これは私の腕前とはまったく別の問題である)。

それでもこのカンガルーはじっとして動かない。私にすっかり心を許している。ほかのカンガルー仲間は日の差す方に顔を向けてまだ礼拝中だというのに、このカンガルーだけがいつまでもじっとして夢みるように私を見つめている(異論はあるかと思う)。

で、それからまた五秒ぐらいじいっと見つめ合っているうちに私の歓喜というか思い込みは三段跳びにジャンプして、

「カンガルーは人に飼われたことがなくても人の気持ちが読める」

という話を思い出してしまったのである。オーストラリアかどこだったかの公的な研究機関がフィールドワークをして結論づけた学説だったと記憶しているが、それをここで都合よく思い出してしまったのである。

そうするとこのカンガルーは、瑠璃コンゴウインコ事件で傷ついた私の気持ちをもう出会い頭に読みとっていたのかもしれない。

読み取ったので、同情するあまり彼女は自分でもそれと気づかないまま私に恋してしまったのではないだろうか。「同情から恋が芽生えるのは恋愛小説の基本である」といったようなことから考えてみても、やっぱり彼女は私に求愛しているとしか思えないではないか。

おお、神さま。

人間界でこういったピュアな喜びを経験したことのなかった私は、これでもうすっかり自分を見失ってしまった。こういうピュアな体験のためだったら、相手がカンガルーだってタツノオトシゴだってかまやしないのだ。

人の気持ちが読めるぐらいだったら一目惚れだってするだろう。しかしながら、よく考えてみたら私は人間界においてこれまでそれほど立派なオスではなかったのだし、ましてや種の違いを超えて愛されるほどスタイリッシュかというと、けっしてそんなことはない。そのことは自分でよくわかっている。間違っても、街を歩いていたら見知らぬ若い女性達にちやほやされて困っちゃった、というタイプのオスではないのだ。

そうするとカンガルーは、このうだつの上がらない、ぶさいくといってもいいようなおじさん系の私のいったいどこに恋したのであるか。

人相風体ではない、スタイルでもない、ん、スタイル? そういえばカンガルーは有袋類で・・・あれれ、有袋類のメスというのはオナカのところに子供を育てる袋というかバッグがある。ということは、私がだらしなく首からエプロンみたいに前掛けしているこの革製のバッグも有袋類?

いやいや、私は有袋類ではないのだが、つまりこのバッグが有袋類であるカンガルーをして自分の同類ではないのかと勘違いさせたのかもしれず、うむむむ、しかし、そうなると今度は私はメスで、メスどうしの出会いということになってしまうのだが、いったい・・・。

それからまた若いメスのカンガルーとお見合いを続けながら、五秒ぐらいは優柔不断に考えてみたのだったが、結論が出ないうちに彼女は愛想をつかして太陽崇拝中の仲間のところにピョンピョンして立ち去ってしまった。


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