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2日間だけスマホ断捨離をしてみたら


23~24日のあいだ、Twitterをまったく見ない! という試みに参加してみました。ついでにスマホも一切見ないで、いわゆるスマホ断捨離(デジタル断捨離)みたいなことを少々。

SNS中毒というか、Twitter中毒なんですよね、私。そんな私が2日間、48時間もの長いあいだ、見られずに耐え抜けるのかっていうチャレンジをしてみたのです。おもったことを書いてみます。


ゼロになれる

それっぽい見出しにしてみましたが、要するに「自分本来の生の感覚にちょっと戻れた気がする」ってやつです。

スマホというものが日本に浸透して、大げさにいってしまうと、iPhoneを買った大学生のあの日から毎日、手に取らなかった日はなかったんじゃないかと思うんですよね。

それって凄いことだよなあ、と改めておもう。テクノロジーの進化が当たり前になっていて、疑問にも不思議にもおもわなくなってるなあ、と。

ひょいっと手にとって、スワイプして、たんたんたんと画面に触れれば世界と接続できて、いろんな情報が濁流のように流れていて。

情報化社会って、「なるべく多くの情報に触れないと損な気がする」って強迫観念を生み出しやすいですよね。

元々見られなかったものが見られるようになっちゃったから、どれだけ情報を摂取しているか、どれだけ知っているかで人間としての、本質が測られている気がしてしまう(私は)。

でも、知らないなら知らないで、なんとかなったりもする。

ちょっとした空き時間に遭遇したら無意識に触ってしまっていたスマホが、触れないとなったら、人はほかに時間を埋める方法を探すから。

それが、私にとっては読書でした。


時間が増えた

この2日間は、ちゃんとした休みに設定して、がっつり、ゆっくりしました。フリーランスになってから初めてだと思う。

最低限の連絡には答えていたけれど、あとはずーっと本を読んでました。こんなに24時間って濃密だったんだなあ、とおもうくらい、たくさんの本が読めました(積ん読が少し消化できてうれしい)。

いかに普段、チリツモな隙間時間をスマホに費やしてたか、ってことが体感できて、納得? 感動? 恐怖? まだ上手く言語化できない感情に襲われたりして。

スマホ断捨離、良いとおもいます。

これから週1~2くらいでこういう日を設けて、自分の本質を見直す時間を意識的にとったほうがいいな、と実感した次第。きっと、狩猟時代はこれに近い”野生”で生存していたはずだから、私たちは定期的に原点に返ったほうがいいはずなんだ。うん。


情報は、あってもなくてもいい

「たくさんのことを知ってる」とか、「あの情報とこの情報をかけ合わせて、こう考えた」とか、膨大な情報を摂取したうえでこんなことを考えたよという時間がどれだけあるかで、人の深みが決まってくる気がしている。

私は自分の頭で考えるのがどうも苦手。こうやって文章を書くのも半ば無理やりで、書かないでいるとどんどん脳みそが衰退していくような怖さに侵されるからなんだけど。

だからこそ、そんな恐怖があるからこそ、あえて「情報を一切遮断する」勇気もたまには必要だな、と。

情報がないと人は考えなくなる、わけじゃない。

その浅さ、深さ、は人によってそれぞれ違うかもしれない。でも考えてない人ってそもそもいないよね? とおもうわけです。

元になる情報がなくても、自分の人生とか生活とか、大切な人の人生とか生活とかを、どれだけより良くできるかなあって考えてるとおもうんですね。スマホを触りすぎると、その思考の流れを止めちゃうこともある。

あえて情報が入ってくる侵入経路を一部断ち切って、本来の自分ならどう考えるか? ゼロに立ったら何を思うのか? 「発信しよう」っていう気概のない状態で、なおかつ思考してしまうことって何だろう?

スマホがなくても、いろいろ考えることはあります。

情報って、あってもなくてもいいのかもしれない。



2日間、Twitterやスマホ断捨離をしてみて、おもったことはこれくらいです。2月も定期的にやろうかなー。


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