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休め、わたしたち。

近所のスーパーへ行く途中の道ばたで、ド真ん中で堂々と、「休め!」の体制で休んでいるおじいちゃんを見た。教科書の見本に載せてもだいじょうぶそうな、仁王立ちだった。

両足を左右にひらいて、両腕を背中のうしろにまわして腰のあたりで組んで、ちょっと上体を逸らして、休んでいた。それはもう、見事な休みっぷりだった。

小学生とか中学生のころに、あれやったな。軍隊を統率する練習台みたいに、わたしたちはただひたすら「回れ右!」「左向け、左!」「休め!」と号令に合わせてパタパタ動いていた。よくよく冷静に考えたらアレはなんだったんだ。都合よく動くお人形さんだった。意志があるのに。

そのおじいちゃんは、正直にいうと少しだけジャマだった。だって歩道の真ん中だもん。人とか自転車とかいっぱい通るもん。休むにしても、もうちょっと端のほうで休んでくれや、と思ってしまう。

それと同時に思い出した。新卒で働いていた会社では、休むのにもいろいろな「ステップ」が必要だった。

数週間前、下手したら数ヶ月前から上司に打診をして、休暇届を準備して、休んでいるあいだに周りに迷惑をかけないように引き継ぎをして、関係各所に「◯日から◯日はいません」と案内して、必死で仕事を終わらせて調整して、完璧に近い形で整えても、当日休めないことさえあった。

無事に休めたとしても、最大限、申し訳なさそうな顔をして。自分の都合で休むのに、何か抗えない大きな理不尽な力によって、休まざるを得ないんだみたいなオーラを出して、すみませんすみませんと繰り返しながら、休み明けにはお土産とか手土産とか持ってくる。

「休んでしまってすみません」

「ご迷惑おかけしてすみません」

休むことは、謝らなきゃいけないこと。休むことは、周りに迷惑をかけること。なるべくなら、避けなきゃいけないこと。

ずっとずっと、そう思ってきた。

なのに、どうだ、あのおじいちゃんの、周りのことなんて気にしない、あの休みっぷりは。

自分のせいで他の人が通りにくくなっている、とか、そんなことは関係ないのだ、あのおじいちゃんにとって。自分が休みたいときに休む、堂々と、それが他者の都合と迷惑によって、左右されてたまるか! そんな圧力を感じる。当たり前のことを当たり前にしているだけの、平然さ。謙虚や慎ましさとは無縁のところにいる、清々しさ。吹いてくる風は、すずしい。

もっと、休め、わたしたち。

おじいちゃんにならって「休め!」をする勇気はなかった。なかったけれど、わたしたちはもっと、休んでいい。

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