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ありがとう、どうか末永く

私には、シェアハウスでしか見せない顔がある。

「こうあるべき」「こうでなきゃいけない」「立派なことを言わなきゃならない」という縛りや殻がポロポロとそげ落ちた、生身の感情としての自分がつねにそこにいる。

朝、早く起きられなくてもいい。料理や掃除や洗濯ができなくてもいい。お酒を飲みすぎてしまってもいい。もちろん失敗したっていいし、それを開けっぴろげに話して笑いのネタにしてしまったっていい。

ぜんぶ、これまでの私だったら、できなかったことだ。

格好つけて、理想の自分を練り上げて、「こうあるべき」という完成像に自分で勝手に縛られて、しんどくなって辛くなって自滅して。

なのに、いま住んでいるシェアハウスでは、気張りすぎなくてもいい。頑張らなくてもいいんだと思える自分がいることが、奇跡に近いことのように思える。力を抜いていていい。頑張りたい時に頑張って、休みたい時は休んで、野生動物の本能に近い生き方をして、ありのままで存在していたとしても、まるっと許されるあたたかい受容がここにある。

それでいて、この環境は私をダメにしてしまったりしない。

甘やかされるのとは違うのだ。

許してくれるし受け入れてくれるし「そのままでいいよ」と言ってくれるけれど、だからこそ、この人たちのために可能なかぎり頑張ろうと思える。どこか一部分だけに負担が偏ったりもしない。お互いに見返りを求めない形が保たれ、より自然に「ありがとう」が飛び交う空間、これ以上に健全な暮らしを私は知らないかもしれない。

絶対的な信頼がある。どんな地震が来たって揺らがない土台に支えられている感覚。

どんな表情を見せてもいいしどんな感情を吐露してもいい。家族とも違うし友人とも違うけれど、私たちは、一緒に「暮らし」をしているから。

しあわせのなかにいると、「このしあわせが取り上げられたらどうしよう」と想像する癖が私にはある。

この環境がなくなったらどうしよう。離れなければならなくなったらどうしよう。ここにいられなくなったとしたら、元いた場所に帰らなければならなくなったとしたら?

考えても意味のない、最悪の事態を想定し、つねに心の片隅に隠し持っておいて、いずれ訪れるかもしれない「その時」に備えて防波堤を築いておく。

なくなってもいいように。ひとりになってもいいように。

ああ、それでも、ちょっと想像しただけで泣いてしまいそうだ。それくらいには大切なものになってしまっている。

ライトノベルの台詞によくありそうな「泣くくらいなら大切なものなんてつくらなければよかった」なんていう心境にド真面目に嵌りこんでしまいそうだ。大切だ、大切だ、私にとって大切な人と場所だ、まさかこうなるとは思わなかった。

こんなに大切なものになるなんて思わなかった。

願わくば、ありがとう、どうか末永く一緒にいてください。どうか末永く共に在ってください。明日どうなるかさえわからないこの環境が尊くてたまらない、私は、この場所とあなたたちが大好きでたまりません。


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