先生の話、ぜんぜん聞けてなかった、あの頃
お腹がいたかった。中学生とか高校生とかの私は、とくに授業中、けっこうな確率でずっと、お腹がいたかった。
休み時間は大丈夫。でも、授業が始まるチャイムが鳴って、席についた瞬間に「気配」がくる。お腹の、ながいながい腸が詰まってそうな下腹部のあたりから、不穏な「気配」がぐるぐるぐるぐるしてくる。いたい。いま、思い出しながら書いているだけでもいたくなってきた。
きっと過敏性なんたら腸かんたらみたいな症状だったんだと思う。けど、当時の私はただストレスが胃腸にきてるだけだと思って、よっぽど酷いときは市販の薬を飲むくらいで、わざわざ病院に行こうとまでは思ってなかった。
授業中は、ずっと、お腹がいたい。だから、先生の話、ぜんぜん聞けてなかった、あの頃。
ーー
なんであんなにお腹が痛かったんだろう。きっとあの頃の私は、ほかの人の目を気にしすぎていたんだ。
友達は私のことをどう思ってるんだろう。あの男子は私をどんなふうに見てるんだろう。先生は私のことを、勉強ができて言うこともちゃんと聞く優等生だと、思ってくれているだろうか。それから、それから……。
自分がどう在りたいとか、何がしたいとか、そんなことよりも「周りからどんな自分に見えているか」それが最優先事項の人生だった。理想の自分をせっせと脳内で作り上げて、少しでもその像から崩れそうな出来事が起こったら、チューニングを合わせるのに必死だった。
おとなしい自分。勉強ができる自分。聞き上手な自分。一緒にいて「おもしろい」「楽しい」と思ってもらえるような、自分。
人の目を気にしすぎたストレスが、そのまま胃腸にダイレクトにアタックをかまし続けていたのが、私の中高生の思い出。
ーー
そんな私が、いまは何も気にならなくなっている。人の目なんて、意識するほうがめずらしくなっている。
それはもちろん、ある程度の年齢になって、10代特有の自意識みたいなものが抜け落ちたからだろう。それでも「いまこのタイミングでこれを言ったらどうなるだろう」とか「ここでこんなことをしたら変な目で見られるかな」とか、人の目を気にして自分の言動をコントロールすることは皆無に近くなった。
たとえば、私は電車のなかで、ブックカバーをつけないまま本を読む。
実用書でも小説でも詩集でも、そのとき読みたいものを鞄から取り出して読む。そうすると、9割の人がスマホを覗いているか寝ているかの車内で、めちゃくちゃ目立つ。あからさまに表紙を見てくる人もいる(全部、バレている)。
電車で本を読む人くらいは探せばいるだろうけど、表紙丸見えで読んでいる人はそうそういない。試しに今度、電車に乗ったら探してみてほしい。本を読んでいる人さえ見つけられないかもしれない。
あと、私は映画を見ながら暗闇のなかでメモをとる。
暗闇なので、手元はまったく見えない。見えないまま、このあたりだろうな〜〜と検討をつけて文字を書きつけている。どうせ見えないので、顔はスクリーンに向いたまま。たまに、隣り合った人に不思議そうな目で見られる。それも、気にしない。
私はライターとして、文章を書いてお金をもらって生活している。自分の頭から出てきた文章でご飯を食べるようになって、少しずつ、気づいたことがある。それは、大多数の人と同じような生活をしていたら、大多数の人が「おもしろい!」と思う文章を書けなくなってくるだろう、ということ。
電車のなかでは、みんながスマホを見ている。だからといって、同じようにスマホを見ていてはつまらない。映画館では、みんなただスクリーンを見つめている。同じようにしていては、頭ひとつ抜けられない。
マジョリティから一歩でもはみ出そうとすること。少しだけ、人とは違うことをすること。一味ちがう文章って、きっとそういうところからタネみたいなものを拾って、水をやらないと育たないんじゃないだろうか。
これからも文章で食べていきたい。そのために、おもしろい文章を書けるようになりたい。
そう思うようになってから、人の目なんか気にならなくなった。人の目なんて、気にしなくなってからが本番だぜ。私がこれまで見てきた物語に出てきた、破天荒な登場人物たちが、声を揃えて言っている。外れてからが、本物だって。
もうお腹は、いたくない。
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