ずっと敗者でいたかった


今から、よくある話をします。

幼稚園のころ、ずっと一緒に遊んでいた仲良しの子がいました。
小学校に上がってもクラスが一緒で、休み時間も行き帰りもずっと一緒。

当然、親同士も認知していて、
「一緒の習い事にでも通わせようか?」という話になったみたい。

わたし自身は、とくにこれを習いたい! という希望はなくって、
あれがいい、これはいやと自分の気持ちをまっすぐに言える仲良しの子を
横でどこか羨ましげに見ていただけだった。

習い事は、そろばん塾に決まった。

そろばん自体が好きなわけではなかったけれど、手元で細かい作業をすることがそこまで苦でなかったわたしは、割と早めに場に馴染めました。

先生にも可愛がってもらって、どんどん級も上がっていった。

反面、仲良しの子は、あまり上手くはならなかったんです。

その子はどこかわたしのことを、自分より上みたいな、お姉ちゃん、先生、目上の人に対するような、崇拝する目で見てくるようになり、

「ゆうちゃんはすごいね」
「もうそこまで級が上がったの?」
「わたしはぜんぜんだめ」

こういう言葉がよく口から出てくるようになった。

友達はどこまでも対等であるべきで、当然わたしはこの対等で水平な関係がこの先ずっとつづくものと思っていたので、

どんどん崇め奉られるように、まるで付き従われるようになっている現状にそっとそっと違和感をたくわえていった。

「ゆうちゃんみたいになりたいのに、なれない」
「ゆうちゃんがいないと何もできない」

そう言って泣かれたときに、きっと、離れるべきときが近いとなんとなく思ったのだといま省みています。

ただの友人関係に”上下”が一度できてしまうと、戻すのは不可能に近い。

わたしは、そろばん塾に通いたかったわけではなくて、
あなたと一緒に習い事を楽しみたかっただけなのに、
勝手に神格化して遠い存在にしないでほしいと、
あのときわたしのボキャブラリーでは伝えられなかった。

結局、中学生になると同時に距離をおいてそれっきりで、ここまできた。

わたしはずっと、敗者でいたかった。
わたしがずっと、敗者でよかった。

いま、彼女が立派な大人になって、結婚をして子どもも二人いるという事実がわたしをどこまでも救っている。

もうわたしがいないと何もできないと泣いたあの子はどこにもいない。




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