愛しのダンナサマー【前編】
創作 『愛しのダンナサマー』
▼ 爆弾使いの姪っこちゃん悪魔が、おじさま(=ダンナ様)のもとに押しかけ女房しちゃうぞ!
▼ ジャンル:爆風ロマンス
▼ いっしょに夏へと出かけませんか? 連れて行って、おまえだけ置いていきます。
▼ この作品には、夏100個ぶんのサマーが含まれています。
▼ この小説を読んでフフッと笑えるひとは、とてもやさしくて、頭がちょっとヘンです。
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愛しのダンナサマー
[プロローグとオープニング・クイズ]
「貴方たちはつまらないです。死になさい」
という金属の擦れ合うような厭な声がまだ脳内にこだましていた。
「死になさい」
天界より派遣された眼光冷たき天使兵器によって破壊し尽くされた街を、小さな悪魔がふらふらの足で歩いていた。
薄桃色の髪の毛を持ち、飛べない翼と、鉤付きの尻尾を有していた。見た目はまだ少女だった。
すでにして膨れ上がった惨死図の上を歩き続けた。火の上を裸足で歩いたし、水の中を全身で歩いた。
「悪魔さま。永いことお疲れさまでした」
天使兵器は二枚の白い翼を持っていた。頭上で長短不揃いの対物レンズを三本取り付けた眩い光輪がゆるやかに回転していた。任務の最中も絶えず顔に浮かべていた柔和な笑みのなかに残忍な性格を隠していた。
「さようならでございます」
少女は傷ついた男を肩に支えて歩いていた。
俺を棄てていけと訴える男を担いで、引きずりながら歩き続けた。
そこかしこに倒れた者がいた。震える指で天を指して呪う者。血に塗れた白い歯を食いしばっている者。ほかにも天使兵器の手より放たれたレーザーに突き刺された惨たらしい胴を見た。光線がなかなか消えずに残っている。突き刺さった光線は垂直に空へ伸びている。
刺さっている。いつか復活しても逆らえないようにするために。恐怖を永遠に植えつけるために。命より大事な自尊心を傷つけるために。
惨状が転がっていた。惨状を見て歩いた。惨状を見ずに歩いた。惨状を見ながら歩いた。歩いて、歩いた。歩いて、逃げなかった。それは彼女の直感だった。彼女は彼女の直感を信じた。直感は彼女をあるところへ連れて行った。
立ち上がって歩く者をほかに見なかった。最後の一人なのかもしれなかった。ついには風のなかでたたずむ天使兵器の傍まで来ていた。
天使兵器は立っていた。少し疲れていたようすだった。驚くふうでもなかった。ずっと待っていたのかもしれない。一万光年みはるかす千里眼の能力の持ち主だから、ひとりの悪魔がやって来ることくらいお見通しだったかもしれない。ずっと前から見えていたのかもしれない。もうずっと前から。
「なぞかけ、なぞかけは好きですか。意外な趣味に思われるでしょうが、それが好きなのです。なぞかけに答えることができたら、貴方だけは見逃してあげてもいいかもしれません」
と、天使兵器は気まぐれにいった。金属性の摩擦音にも似た声だった。それは頭痛を激しくさせた。
なんでもいい。なんでもいいやがれ。なぞかけでも辞世の句でもなんでもいえばいい。たわむれるならたわむれろ。なんでもいえばいいんだ。なんでも……。
だが彼女は聞き逃すまいと必死で耳を傾けた。必死で耳を傾けた。一言半句も漏らすまいと。
それは次のようななぞかけだった。
「祝福のために、なんどでも生まれ変わって咲く花はなあに?」
答えをどうぞおいいなさい、と声がする。ビビさん、あなたの答えを、と。
1 大陸鉄道
夏休みになると、ビビは朝一番の列車に飛び乗って、ダンナ様の住む港町をめざした。
ひざに乗せた大きなカバンの中には、彼女お手製の爆弾が火薬とともにぎっしりと詰まっていた。それらは声々に騒ぎ立て、こすれ合い、暗闇から解き放たれる時を待ち続けていた。
車窓はだれもいない丘陵地を映し、雲の浮かんだ空の下には何千本のひまわりが揺れていた。
ビビは重いまぶたをなんどもこじ開けて、寝ない、寝ないぞ、ここで眠るわけには……だけど限界が来た。ゆうべ一睡もできなかった帳尻合わせに深い眠りの空へと墜ちていった。
はっとして目を覚ますと、列車は止まっていた。
目的地の駅だ。
彼女がカバンを掴んでホームへ飛び出すのと同時に扉が閉まった。
ふうっと長い息を吐いたが、ピンクのリボンを巻いた麦わら帽子を座席の上に忘れてしまったことに気づいて肩を落とした。
似合っていて、お気に入りだったのに。
列車はすでに大陸のかなたに向けて去ってしまった後だった。
悔しさが湧いてきた。地団駄を踏み踏み、気がすむまでキーキー唸り、ホームの端から端まで転げて暴れまわっていたが、止めるものはいなかった。
「まっ、行きましょうか。待っててくださいね、ダンナ様! えーと……あ、あれ?」
地図がない。
「……は?」
目的地への唯一の手掛かりも置いてきてしまったのだ。
「……はああああああああああああっ!?」
腹立ちまぎれに爆弾をひとつ取り出した。少しためらいがちに腕を振り上げると、レモン色の球形は重力に逆らって天高く飛んでいく。上昇をやめずに最高地点で白日と重なると、真下にはもう彼女はいなかった。
異郷の熱い空気や、埃や、鉄片を含んだ爆風に押し出されて街へ飛び出した。めくるめく光の乱反射が彼女を襲う。奥歯をうずかせる轟音に快い表情を浮かべている。吹き飛ばされながら薄目を開けると、目に飛び込んできたのは野放図なメビウスの輪にも似た雑踏だ。彼女はそのなかにゆくえをくらませた。
ダンナ様に、会えるかな。
2 蒼い蛇
おんぼろビルが建っている。ビルは港湾から続く長い坂の上にある地区の通りにあった。
一階には真っ暗なタトゥーサロンが店をかまえている。街路に面した階段を上った先の二階が探偵事務所で、そこがビビの目的地だった。
地図を列車に忘れてきたとはいえ、前夜ひっきりなしに眺めていたおかげだろう。ダンナ様が住み、また仕事をしているという事務所への道筋は正確に頭に入っていたのだ。
もう会える。いま会える。ドアの向こうに最愛のひとがいる。
しぜんと目をうるませたが、勇気をふるって涙をぬぐった。
呼び鈴を鳴らしても返事はなかった。予期せぬ静寂にとまどってしまう。
じらされているのだと感じた。ああ、いじわるなダンナ様。本当はそこにいるのでしょう?
がまんしただけ再会の悦びも大きくなる。そういい聞かせたが事態は進展しない。
住んでいないのだろうか。引っ越したのかな。会えなかったらどうしよう。しかし帰るわけにはいかない。
帰ったところで、赤茶けた岩と砂埃に覆われた地平線の風景が待つばかり。いつでも眠たげな眼をしたやつらと無刺激・無香料100パーセントの夏を過ごすくらいなら死んでしまいたい。
この夏は絶対にダンナ様とドキドキでラブラブな季節にするのだ。
だけど、留守なのかな……。
鉤の付いた尻尾を宙にぶらぶらさせていたら、後方で女性の声を聞いた。
「ふっふっふ……お困りねガール!」
振り返ると階段の下にブロンドの若い女が立っていた。
「どちらサマー!?」
黒いタンクトップを着ていて、ハンサム見えするワイドパンツをはいている。肩まで伸びた金髪は光の加減で不思議と銀色にも見える。
驚嘆すべきは右腕の手首から肩にかけて、双頭の蛇のタトゥーが彫られていることだ。異様に巨大な蛇。おそろしく本物めいている。見つかったことで歴史を修正せざるを得なくなってしまった古代文明の壁画のようだ。
蛇の手は、反対の手で持っていた巾着袋にすべり込み、金平糖の白いのや黄色いのを取り出した。
一度に何粒も口にほうり込んで噛み砕いている。
「カバンでかすぎ。家出でもしてきた?」
「私、ダンナ様に会いにきたんです!」
「へえ。アイツにこんな小さなフィアンセがいたとはねえ。お姉さん感心する」
「そうよ。ダンナ様はどこにいますの?」
「アグロ君なら海じゃないかな……今朝、サーフィンボードを持って意気揚々と出かけていくのを見たよ。ウミガメビーチだと思う。ろくに泳げないくせにね。感心せん」
ビビはウミガメビーチへ行こうと決心した。
「ねえ、蛇のお姉さん。どうやって行ったらいいか教えてくださらない?」
「いいよ。じゃあ、ちょっとウチにおいで。下りてきて」
「道を聞くだけですもの。知らない人にはついていきませんの」
「ん、でもね、ここ」
と女は一階の建物を指さす。
「ここ、ウチの店。タトゥーを彫る仕事をしてるの。今日は休業日。だれもいないよ。入っていきな。ジュースくらいは出すって。ドーナツもあったかな……」
といって、この港町特有の陽ざしにも似たうらおもてのない笑顔を向けた。
ビビは階段を下りながら、気を許しそうになったが母のいいつけを思い出した。
都会はタチの悪い悪党が多いから気ぃつけな、と。
「……はっ。そうやって私みたいなちっちゃい女の子を捕まえて、クスリで眠らせ、全身にごっつい聖人とか天使とかを彫りつけるんでしょう。その手には乗りませんわ!」
手をカバンの中に突っ込んで爆弾に触れる。
いつでも取り出せるようにしておきたい。
「まさか。おしゃべりしたいだけだよ。だいたい今日からクソ暑くなるはずだし、今日は40度だったかな……歩き回らんほうがいいよ。冷房の効いた部屋にいなって。じきにアグロ君も帰ってくるし、帰ってきたらすぐわかるよ。なんてったって、真上なんだし」
「初対面のひととどんなことを話せっていうの」
女の腕の双頭の蛇がいちだんと艶めいた。蛇の胴体は蒼かった。
「……家出の事情とか、聞いてあげたいじゃん。ほら、あたしもかつては、そうだったから」
近くにいるのに目を細めたりしてビビを見つめている。
ビビは階段の残りの三段を大きく跳躍した。まっすぐ駆け出す。女にぶつかったがそのまま横切る。驚いた女が金平糖をいくつも石畳にぶちまけてしまったのにも目もくれず、去った。
カバンの重みになんども右へ引っ張られる。
「あのひと、絶対、勘違いしてますわ!」
家出少女と誤解されたままだと警察に突き出されていたかもしれない。
女は追いかけてこなかった。
ウミガメビーチ行きと思われるバスに飛び乗った。
タイヤの真上にある席は床が盛り上がっていて、カバンを置くと足の置き場がなくなった。ぶらぶらと通路側に両足を投げ出す格好になった。
ああ、ダンナ様に早く会いたいな。
なのに思い浮かぶのはダンナ様の顔ではなかった。
さっきのタトゥー女の蒼い蛇。生物の色としてはめずらしい。この世界の生き物とは思えない。だけど妙に生々しいのはなぜだろう。きっと女が冷たくなって土の中に埋められるとき、それは這い出し、本当に命を宿しはじめるのかもしれない。
そんなことを考えていたら、停留所で大勢の乗客が乗ってきた。もう入らないのに詰めること詰めること。乗客がナナメになり押し寄せてくる。阿鼻叫喚の地獄絵図。罵詈雑言の大洪水。押し潰される。一気に全身の汗が噴き出して、からだじゅうの皮膚がぬめり始める。暑いし痛いし臭い。
「うごっ……!?」
おまけに他人のリュックサックと窓ガラスに挟まれサンドイッチ状態。足ももげそうだ。
た、たすけ……!
息ができない。
窒息寸前だ。
「そうだ、こんなときは爆弾に相談ですわ!」
3 出会いの奇跡
満身創痍だった。
「クールな洗礼をありがとう」
爆弾との相談の結果、バスは熟練の木こりが割った薪のように真っ二つに割れて吹っ飛んだ。横倒しになったバスから黒煙が噴き上がる。逃げるように歩いて海岸沿いへ。
ひとけなく、死んだように静かなエリアだった。だが絶え間なく波頭の砕ける海にちらほらとサーファーのすがたが見える。
ダンナ様がいるかもしれない。
浜まで下りる階段を探して歩道を行くあいだ、波は荒々しい音を立てて耳まで届く。
通りすがりの猫耳少年をつかまえて聞いた。
「ここって、もしかして、ウミガメビーチじゃありませんこと? きっとそうでしょう?」
少年は猫耳をピンと跳ねさせ、澄んだ瞳でビビの目を見て話した。
「いえ、ここはウマズメビーチですよ」
見た目のわりに老成したトーンだが、はきはきと話す少年だ。
「ウマズメ、ってなんですの」
「ここはね、妊娠できない女が崖から身を投げた悲しい伝説のある海、だから、石女(うまずめ)のビーチ、っていうんだ」
「……は? そんな女知りませんわ。ダンナ様は!?」
すると少年は頭上の猫耳を後ろに反らし気味にして答えた。
「ダンナ様なんて、ぼく知らないよ」
「これだからネチコヤンは使い物になりませんわ」
「そんないい方やめてよ」
「……ひ、ひひっ、きょ、去勢してやりますわー!」
「うわあ、なにするんだよ急に! もうしてるから!」
試しに少年の股間をぱんぱん叩く。
「みゅ……みゅうん!?」
少年はひるんだ。目を白黒させている。
「まだわかりませんわね。ちょっと失礼しますわ!」
ビビは尋常じゃない気合いを込めて、彼の半ズボンを引きずり下ろした。
「よいしょ、うぇーいですわ!」
「……みゃあっ!?」
少年のパンツが出現した。風通しの良さそうなトランクスだった。青色系のチェック柄。縦横に走る白のラインが清新な印象を与えている。前開きに牛乳色のボタンがふたつ並んでいる。その内側へとオレンジ色の横ラインが潜り込み、その暖色がアクセントになって効いている。すがすがしくも、おだやかな印象を与えるパンツだった。若干のよれた質感が目立つのはきっとはきなれたものだからだろう。
彼が世界にパンツすがたをさらけ出していたのは、ほんの一瞬のことだった。
顔を紅潮させた猫耳の少年は四つ足になって空中に飛び上がり、興奮しながら逃げていった。
それからビビは、崖伝いの急階段を発見し、風に叩きつけられるなかを下りて行った。
海の上に、なさけなくあっぷあっぷして溺れかけている男が見えた。
直感で分かった。
「ああ、あれは!」
あれはきっと、ダンナ様に違いない。なぜなら溺れているすがたがカッコいいからだ。
蜃気楼じゃありませんように。
他のサーファーに助けられ、砂浜に運ばれてきた。
砂に足を取られながら、駆け寄る。
砂の上に寝かされた男は、青年ととらえるには年を取っているが、中年と見なすにはまだ余裕のないモラトリアムのさなかにあるような頼りなさがあった。
ビビと同族の証しとして鉤付きの尻尾を有しているが、藻のようなものが絡まっていた。
見知らぬ男たちの介抱に加わる。
「……だからさ、初心者にはまだ早いっていったんだぜ、この海。だけどどうしても、今日はここで波に乗りたい気分だ、って聞かなかったんだ。ウミガメビーチしか知らないビギナーらしいし、無茶をしたよな」
ビビはダンナ様との運命を感じた。まさに運命だ。
ダンナ様がいつものようにウミガメビーチに行っていたら、会えなかった。
自分がバスに我慢して乗っていても、ダンナ様に会えなかった。
ふたり互いに間違った道を進んだおかげで、会えたのだ。
海水を飲んでふくらんだ男のお腹が押されると、ぴゅーっと噴水のように水を噴き出した。口から黄色いウミウシが飛び出して噴水の上で踊った。噴水の周りには虹がかかり水は砂浜へ落ちる前に霧となった。
でも、意識は戻らない。
まさか永遠に目覚めないのだろうか。
「そんな……せっかくここまでたどり着いたのに! 死んじゃいやですわ! 起きてください……!」
彼女の呼びかけが通じたのかもしれない。
アグロが目を覚ます。
まず目に飛び込んできたのは涙ぐんでいる女の子の顔だった。
「あれ……ビビ?」
「お体は大丈夫ですか、おじさま。いや、ダンナ様!」
「は? え、ど、どうしてビビがここに?」
「お会いしたかったですわ、ダンナ様。今日からよろしくお願いします!」
「へ……なにが?」
腰は細く引き締まり、岩のようにがっしりとした体格にもかかわらず、どこか空洞みたいな頼りない身体の男は、呆気に取られて目をしばたたかせている。
アポなしの訪問だったのだ。
4 宙に浮かぶリンゴ
幸福な日々が始まった。
ブラインドを引き上げて日差しを取り込むと、事務所の中央にある三人掛けソファの表面にも朝が訪れた。
おはよう、朝と夕に港からかすかに潮風が吹いてくる街。おはよう、書類の積まれたデスクの要塞。おはよう、水彩で夏の波止場を描いたシルクスクリーン。おはよう、絨毯に付いたハート形の染み。
おはよう、おはよう、おはよう、おはよう。
隣室からボサボサ頭のダンナ様がやって来た。
ビビはソファに座って、早朝のファーマーズマーケットで買ってきた小ぶりのリンゴを掌に乗せて見つめていた。ふいに宙に放り投げると、リンゴは空中で静止した。時間がそのように見えるのだ。
まだ眠たそうなアグロは掌に乗せたキャベツの球を朝露もろともかじりながら、黒電話で彼の姉と電話している。
なにか重いものでも引きずるように弱々しい声だ。
電話口からは通話相手の弾けるような笑いが漏れてくる。ぎゃはぎゃはぎゃはと笑い声を響かせ、さながら蓋を閉め忘れた鉱石粉砕機のようだ。
アグロは深い溜め息をつきながら、目をつぶり、重い頭を横に傾げて受話器を置いたとき、背後からぎゅっと抱きしめられた。
「お母様と電話?」
「そうだよ」
「私……帰りませんわ」
「夏のあいだ、俺が面倒みるっていったんだよ」
「ダンナ様! 夏休みとはいわず一生一緒ですわ~!」
さらに強く抱きしめる。
「あはは……」
アグロは驚いた。よれよれだった襟付きのシャツが新品同様、朝日に照らされた新雪の野原のように輝いている。
「アイロン台があったことさえも忘れていたな。ありがとう、恩に着るぜ!」
「ここだけの話」とビビは部屋に二人しかいないにもかかわらず、わざわざ小声でいった。「ダンナ様は、ずっと、アイロン台でサーフィンをしていたのですわ」
「そんなことある!?」
「はい」
「アイロン台でここまで波に乗れるなら俺も大したもんだよな」
謎のポジティブ精神を発揮させて、アグロは犬みたいに息を吐き、いそいそと背広に着替える。鏡をのぞいて、ご満悦。ニッと笑うとサメのようなギザギザの歯が見えた。
手際よくネクタイを結んで、事務所を出ようとする。
「調査があるから。ついてきちゃだめだぞ」
「ええっ、もう行っちゃうんですか。一緒にいたいけど……邪魔しちゃいけませんものね」
散歩でもしてくるといい、アグロはそういおうとしたのだが。
「キスしてください」
「なっ」
全身が強張ったアグロは図体に似合わず顔を赤くしてうろたえた。
「……なんでだ?」
「だめ?」
上目づかいで見つめられると顔を直視できないのか、そっぽを向いている。
「だめだよ」
「なぜなの、ダンナ様。私のダンナ様なのに! もしかして、本当のダンナ様じゃないから? でもダンナ様は本当のダンナ様でしょう?」
「支離滅裂なことをいってるぞ。お前はまだ……」
「本気よ。キスしてほしいの!」
「……わかったよ。ほっぺにチューならいいぜ」
「届きませんわ。しゃがんでちょうだい」
「やだね。跳んでみろよ」
翼をパタパタさせて重々しくぴょんぴょこ跳ぶのだが、大柄な彼の背丈にはまったく届かない。
「もう、ダンナ様のいじわる~」
「がっはっは。そろそろ行こうかなー」
「ええ、なんで~」
「おっと、タバコを忘れた」
アグロが腰を曲げ、机に置いたタバコの箱へ手を伸ばしたときだった。音もなく、やわらかな感触が彼の頬に触れた。
「あ、こら」
ビビの身体をやわらかく押してソファにむりやり寝かせ、頬に顔を近づける。
「きゃっ」
「……ったく。こうすればいいんだろ!」
急に日差しが強くなった。夏の部屋に影と影が重なる。それらはかすかに桜やブルーやオレンジの色を帯びていた。
アグロが出かけていき、ビビ一人になった事務所に、怪しい影が近づきつつあった。そいつは、彼女の幸せな日々にいかんともしがたい罅を入れにやって来た。だが彼女は、もちろんそんなことは知る由もなかったのである。
5 白衣の訪問者
素敵な夏にしよう。
三人掛けソファにうつぶせに寝そべって、飾りのような翼をはためかせていた。
ふたりの生活を夢想していると、呼び鈴が鳴った。
なにも考えずに扉を開けた。外の異常な熱気が室内に入ってくる。
「やっほー、来ちゃった」
あたまのうえに花束を乗せられた。
「って、おや? ずいぶんちっちゃくなったじゃないか、アグロ? 黒ずくめのマフィアに変な薬でも飲まされたのかい?」
ビビは花束を手でよけて落とす。5本の薔薇だった。
「なにか御用ですか?」
男がいた。
芝居の中から抜け出したような品と香気。
大柄なアグロと肩を並べるほどの背丈を誇り、しかしすらりとしていて、おまけに白衣を着ていた。
脱色されたような白い前髪が目の高さまで伸びている。
目が隠れているので得体が知れないが、大きな口元はやさしげに微笑んでいた。
「やあ、小鳥ちゃん、ボクのハニーを知ってるかい?」
「……は?」
「アグロのことさ」
警戒心が強くなる。
「依頼の方ですか? いま、ダンナ様は……」
「いや、違うんだ。ちょっと寄っただけさ。彼に会ったら、今晩のデートを忘れるなと伝えておいてくれるかな。その花束も渡しておいてほしい。メッセージカードも入っているから」
ビビの視線は花束と不審者のあいだで揺れ動き、焦点が合わない。
なんだろう、この男は。
外からやって来たというのに汗の一つも流していない。
「ねっ、部下さん? 上司によろしく」
「私はスタッフではありませんので」
「じゃあ、依頼者?」
「私はダンナ様の、フィアンセですのよ」
「へえ、いつから?」
「……き、昨日から」
「アッハッハッハ」
白衣の不審者は腹から笑っていたが、上品に手で口を押さえている。
「新婚さんだね」
「そうよ!」
「まあ、そんな怖い顔しないでほしい。ボクはサリム。アグロの友達さ。気の遠くなるほど大昔からの仲なんだ。記憶も定かでない大昔からのね」
友達だと聞いても、ビビは安心できなかった。
「不思議だよね。ここではない世界にボクらはいたんだ。傷つけあったり憎しみあったりもしたが、時空を越えて今、ここでこうして同じ地平に立っている。これって、奇跡だよね? 彼とはそんな腐れ縁なのさ……あれ、聞いてる?」
「聞いてます聞いてます」
「つまり、ある意味では、きみみたいな伴侶よりも深い仲なんだよ。わかるかなー」
一方的にまくし立てられたのでは、まるで呑み込めない。それでも理解しようと努めた。
「男の友情ってやつですわね」
「……そうそう! そんなところだよ。でも、それ以上でもあるのさ」
「聞き捨てならないですね」
「そろそろお暇しよう。夜のデート、忘れないでって伝えておいてね! あでゅ~」
「きっと忘れるわ」
男が路上に出たのを見計らって、窓から怒りの蕾を投げつけた。花、それは祝福と死が表裏一体となった致死性の贈り物。
いじめられたときの猫みたいな悲鳴があがり、男を中心に赫々と耀く紅い花が咲いた。コンクリートの上に咲く花。43度に達した暑苦しい世界に咲く花。
「……始末完了!」
窓を閉め、白い包装でつつまれた花束をひろってゴミ箱にすてた。花束にはゴミ箱がよく似合う。
ひとしきり眺めてから、クッキーの空き箱を潰して上からかぶせて見えなくした。
「なんだったのかしら、あの変態怪電波」
男友達とはいえ、本当にデートをする仲だったらどうしよう。
いざとなったら、壁にかかってある、夏の波止場を描いたシルクスクリーンを外してダンナ様の頭めがけて昏睡するまでぶつけまくってしまうかもしれない。荒い手段はなんとしても避けたい。
不安で仕方がなかった。
日が暮れても、アグロはなかなか帰ってこなかった。
今ごろ、街のはずれであの白衣の男とばったり出会って遊び歩いたりシュビドゥバーしたりしているかもしれない。私というひとがいながら、男同士でラブラブしていたら許さないんだから……!
不安は募る。
隣室に移動してテレビをつけると漫才をやっていた。センターマイクの前で男たちが「なんでやねん」だの「ずっとなにいってんねん」だのと叫んでウケをとっている。真剣に視聴していたが馬鹿らしくなってきた。
「こっちは真剣なんですよ!」
ビビが叫ぶと、テレビから爆笑が起こった。
「……は?」
拍手笑いが長く続く。
「テレビに馬鹿にされましたわ! なんたる屈辱!」
あるいは彼女の不安を払拭させてあげようとしたのかもしれない。
ビビはダンナ様の帰りを待ち続けた。なんども時計を見るが、一時間経ったように思えて実は一分しか過ぎていなかった。
6 夜のデート
「遅くなったぜー」
汗びっしょりのアグロが猛暑の夜のトビラを破る。
全速力で飛んでいって抱きついた。
「ぐえっ!」
ほぼタックル。
「私のこと、好き?」
「え……好きだが?」
「今晩どこか行く予定ある?」
「……ないはず、だが」
「じゃあ私と一緒よね。ずっと。今日から!」
「まあな」
アグロはゴミ箱から捨てられた花束を発見する。片手で花束をわしっとつかみあげて眺める。
「ああ、来てたのかサリムのやつ」
「知ってるの? あの変態ホワイト」
「うん。あいつ、なにかいってた?」
「なにも!」
「そうか? デートとかほざいてなかった?」
愕然としつつ、コクコクうなずいた。
「大丈夫だっつの。ただの友達だから。忙しい日々に隙を見つけて、俺と遊びたがるんだよなあ。近頃になってデートとかいい始めたけど、飲み歩いたりするだけだぞ。別に行ってもいいし、行ってやらなくてもいいんだが……」
目を閉じて、なにかを考えている。いろんな記憶を辿るように、また、あいつが漂わせていった残り香でも嗅ぐように。
周知の仲なのはともかくも、彼がちょっと上機嫌なのがビビの気に食わなかった。
「ビビ、やっぱりこれから、デートに行ってもいい?」
「だめ!」
ダンナ様に飛びかかった。尋常じゃない速さだった。瞬時にスーツのズボンをずり下ろした。ベルトなんて無いみたいだった。
ビビの顔の前にアグロのパンツが出現した。
つややかな漆黒のボクサーパンツ。立体成型で股間にフィットしている。筋肉質でふとましい太ももに張りついた裾が広げられている。丈は短すぎず長すぎずの中庸。通気性に優れた化学繊維の素材でできている。漆黒といっても、あちこちにグリーン色の小さなヤシの木の柄がちりばめられている。それらはヤシの木というよりも、互いに距離感を保って瞬くギザギザの星にも見える。実にお気楽なデザインだ。遠目にはクールだが、間近で見るとやや幼稚な印象を受けるかもしれない。
とはいえビビは、彼のパンツなど見てはいなかった。
「デートに行かないで!」
大きな声が出たことに、彼女自身が驚いた。
アグロはずり下ろされたものを即座にはき直しながら、
「いいや、おまえとだよ。ビビ、おまえとデート。コンビニ寄って花火買って、真っ暗な公園でブランコ乗ろうぜ」
と白く鋭い歯をちらっと見せ、子どもっぽく笑った。
「ほんと!?」
ステップを小さく踏んで、一回転。
ソファにちょこんと座った。
目を細めていじわるに睨みつける。
「この世は頭のおかしい男でいっぱいね」
「おかしくなければ男じゃないぜ」
アグロが隣に座る。
ビビは頭をなでられる。
「…………」
頭をなでられること自体は好きでも嫌いでもなかった。
ただ近くで、大きな身体が揺れるたびにタバコの匂いが漂って、それを嗅ぐと精神が天上へと昇る心地で落ち着く。好きな匂いだ。
幼い頃を思い出す。
顔も名前も憶えていない近縁者同士による諍いのなかで、母は激しく怒っていた。見境もなく当たり散らしていた。大好きだった母なのに、争いの渦中にいては近寄りがたかった。
だからアグロだけが唯一の心を許せる存在だった。彼は渦中の外で胡坐をかいていた。そのときはまだ近くにいて、よくかまってくれた。幼いビビにとっては巨大な闇の中に見えたひと筋の光。すがっていたくなる。
「コンビニで好きなものなんでも買ってやる。チョコがいい、それともグミか?」
「子どもだと思ってません?」
「子どもだろ?」
「ちがうー」
「こんなに可愛い姪っ子といっしょだなんて、楽しい夏になるなあ、アッハッハ、楽しくなってきたぜ」
彼はどこか遠くを見据えてしゃべるのだった。
「なんとまあ、本音も棒読みみたいにいうのですね、おとこって」
7 地上を駆ける太陽
息をひそめて頬を寄せ合うと、虫の鳴く声がふいに大きくなる。
タバコの火を、そっと、手持ち花火の先端に分けてもらう。
「これで点くのかよ?」
「動かさないで!」
アグロの指がぷるぷるしてきた。
「なあ、やっぱり無理なんじゃ……」
そういいかけた時、マゼンタと金色の縞模様からなる花火に火が点いた。スパーク。白い火花が飛沫をあげる。
ビビはよろこんで、ふたりのほかにはだれもいない夜の小さな公園を走り回る。
「やっぱり子どもじゃないか」
「見て見て!」
花火をぐるぐる回している。それから花火を手にしたままバック宙。光る残像が円を描いた。
「っぶね!」
「今最強!」
やがて火花がビビの身体に移って引火する。火は燃え広がり、ビビは火だるまになる。
というのも、ダンナ様が好きで好きで、もともと胸を焦がしていたからだ。燃え広がるのも時間の問題だったというわけ。
「熱い! 助けて!! 恋してる!!!」
炎上しながら真っ暗な公園を駆けまわる。
「水をかけるぞ。動くなよ」
炎をまといながらビビは立ち止まった。興奮気味に身体を揺らしているが、息苦しそうではない。服も焦げることなく、平然としている。まっすぐ愛する者を見つめている。
ばしゃーっ。
バケツの中身をぜんぶ浴びても、炎は消えなかった。
「ねえ、消さないで、恋の炎を消さないで……!」
炎はどんどん大きくなり、彼女を完全に包む。
ついにビビは強烈な光を放つ火球になった。
夜が昼のように明るくなる。
鳥たちは一斉に羽ばたき、猫が道路を横切っていく。
家々のカーテンが開き、窓が開け放たれる。呆けた顔で偽の昼間の青空を眺める者ども。その顔はどんどん増えていく。昼なんてどうせ数時間後にはやって来るのに、長く待ち望んでいた顔をして。
「夜を終わらせちゃいましたわ!」
「ビビ、どこにいるんだ、ビビ」
「ここですよ~」
「眩しくて見えねえんだよ、ここってどこだよ、座標軸示せよ」
アグロは光に向かって走り出すが追いつかない。いまや彼女は地上を駆ける太陽だ。順行、留、逆行を不規則に繰り返すので、太陽どころか恒星ですらないのかもしれない。
小さな太陽が街じゅうを訪れる。するとうつむく人は顔を上げ、図書館の書物は焚書され、水辺のガチョウはフェニックスになった。
「私、またなんかやっちゃいました?」
気がつくと、ふたりは夜の公園にいた。
家々はカーテンを閉ざし、あたりは静かだった。
どこかで虫の鳴くころころという声を聞きながら、ふたりは残りの花火に火をつけて粛々と遊んだ。
ビビはもう引火することはなかった。なぜなら彼女の火は頑丈な隔壁に覆われた心の奥底の炉に宿っていたからだ。それは夏の夢にささげられていた。
そのようにして数日間、幸せな日々を過ごした。
このときはまだ、ビビはダンナ様が好きだった。
8 鳥
この日は事務所にめずらしく依頼者が来ていた。アグロと依頼者が向かい合ってソファに座っている。
「こないだはレオノーラを探してくれてありがとうございます! 今ではすっかり回復して毎日ネズミを骨ごとむさぼっています! ネズミっておいしいんですかね?」
依頼者は若い女学生だった。夏休み中のはずが、中学校の制服を着ている。
「だけど、一週間前から、ホセがいなくなってしまって」
「ホセは……何だ?」
「ホセはワニです」
依頼者はゆめかわいいシールでデコりまくった携帯機器を取り出した。アグロの名刺の大きさほどもない小さな画面に、10秒ほどの動画が再生された。彼女の家の広々としたリビングが映る。
「これがホセです」
ワニのホセは後足で立ち上がり、クマの大きなぬいぐるみと前足を掴み合ってふらふらしている。股は大きく開いていた。尻尾にはピアスのようなものが光っている。依頼者の「なにしてんの」という笑い声も聞こえる。
「ね、なにしてるんでしょうね。夜になるといつもこうだったんですよ。最初はクマと喧嘩してるのかと思いました。でも、クマと抱き合ってるようにも見えますよね。この動画のおかげでクマが好きなんだと考えて、動物園に行ってみたんですが、ホセはいませんでした。もちろんテディベア専門店にも」
「ふーん、よく二足歩行をするのか?」
「はい。それどころか前後に行ったり来たりしたりするんです。まるで踊ってるみたいですよね」
「じっさい踊ってるんじゃないか」
「えぇ、でも、これが……?」
「ワニにはこれが精一杯なのだ」
もう一度、動画を再生してもらった。
「やっぱりそうだ。クニータと呼ばれる前後運動のステップ、そして前、横、後、横にと4歩で一巡するヒーロ、これらはタンゴの基本的なステップだ。不器用な踊りゆえに確信は持てないが、とりあえずサンバではない」
「物知りなんですね!」
「いや、タンゴとは確定できないが、タンゴっぽいなと」
「あっ、はい……」
「へへっ。でも、あとは俺に任せな。ぜったい、見つけてやるぜ」
女学生は驚いた顔をして、そして顔を赤らめた。
「あ、頼もしいです……お願いします……ところで、アグロさんって、その……」
「ん? なんだ?」
女学生は下を向いて照れている。
すると。
突然、依頼者の背後にビビが現れた。
「こんにちは。お茶ですわ?????????????????」
アイスティーの盆を手に乗せたビビが、恐ろしい形相で立っていた。
「ひぃぃぃっ!?」
「ビビ、客をおどかすなよ」
「この女、ダンナ様に惚れた顔してた……越えちゃいけないライン考えろですわ……」
女学生はきょとんとして「既婚者だったんですか」と聞いた。
アグロはやんわり否定した。
ビビが口を挟む。
「そのうち既婚者になりますわ!!!!!!!」
ゼロ距離でメンチを切っている。顔は笑っていない。
「ひぃぃぃぃっ!?」
女学生が去っていくと、ふたりはまだ夕方とは思えないほど明るい、熱気の渦巻く街へと繰り出した。
だれもみな木陰に入りたがっていた。広場には銀の蕾のモニュメントがあり、一時間に一度のしかけでその花びらを悠々と開き、風もないのにゆっくりと回転していた。根元の部分に《只今の気温45℃》と表示されていた。
「体調はどうだ?」
「45度なんて向こうと比べたら大した数値じゃありませんわ」
「しかしだな、こっちは建物が多いから気密性が高く、熱がこもりやすいのだ」
「聞いた途端、暑くなってきましたわ……」
二人は冷たいレモネードを片手に、炭火で焼いたチョリソーを挟んだ白パンにかじりついている。チョリサンド。この街でよく見かけるファストフードだ。スパイシーでフルーツの甘味が凝縮されたバーベキューソースに舌鼓をうつ。ソースは各店こだわりの見せどころなのだ。
「ほっぺにソースがついていますわ。しゃがんでちょうだい」
「なんでだ」
「ソースを指でぬぐって、ぺろりとやりますわ!」
「きたねー」
彼はハンカチで頬を拭いた。その光景をビビは呆然と見ている。
「……は?」
「は、ってなんだよ、こえーよ」
「んもう! わからずやですわ」
「これはデートじゃないぞ。仕事中なんだ」
「あい……」
買い食いするのはいいのか、と思いつつ、ビビはダンナ様についていく。
「でも、ホセさんはどこですの?」
「ワニは水っぽいところがきっと好きだろう。水っぽいしけた場所でタンゴが観られる場所はこの辺に一か所しかないな」
推理とよぶには精度の低い、彼なりの推理を働かせてたどり着いたのは、とある地下のバーだった。
暗いフロアは黴臭く、空気までが水没したみたいに湿っぽい。
地下のドアをあけ放つと見事にホセはいた。ホセは悪魔たちに交じってバンドネオンの生演奏を聴きながら夕方一番のタンゴショーを観ていたらしい。
が、遅かった。アグロたちが来たときには、ホセは三人のごろつき悪魔に包囲され、ロープで縛り上げられ囚われの身となっていた。抵抗は諦めたのか、おとなしくしていた。
アグロはビビに外で待っていろと命じた後、ワニとコンタクトを試みる。
「お前、ホセか?」
ワニは一声あげた。尻尾にピアスがある。動画で見たのと同じ位置に。
「やあ、きみたち。そのワニを返してくれないか」
三人の悪魔はみな嘲りながら笑った。
「だめだね。金を一切払わず毎日タンゴを見続けたんだ。コイツは今日、俺たちの焼き肉になるんだ。当たり前だよなあ?」
「ヒヒッ、ずっと狙っていたんだあ。ウヒヒッ、ワニ肉って、どんなソースが合うのかなあ? じゅるりるり~」
「この珍獣は今宵、解体され珍味佳肴となり慢性的飢餓に煩悶せし常連客の胃の腑に収容される運命也」
暗闇に潜んでいた数人の客たちが手を叩き、声をそろえてワニ肉コールを叫んだ。
わっにっにくっ。わっにっにくっ。わっにっにくっ。わっにっにくっ。
アグロは飛びかかる。アグロは拳を放つ。ごろつきの悪魔を一人昏倒させる。無念、と呟いて一人は伏した。なにもさせなかった。スピードこそ命。
「そいつを生きて返さねばならない。依頼者のためにも」
あっという間に店内から客のすがたが消えていた。テーブルに置いてあったグラスの氷がカランと音を立てた。
「……ウヒヒッ、やるじゃん。探偵さん? 見覚えある顔だねえ。きみのスキャンダルなら、いくつも知ってるよお?」
ヒヒヒッと悪魔の一人が青く輝くボウガンを取り出して、深い青色をした矢を発射する。矢はアグロの喉仏めがけて飛んだ。
「ヒヒッ?」
アグロはサメのような歯を見せていた。矢を噛んで止めていた。矢をへし折り、投げ捨てた。瞬く間に、みぞおちに一発喰らわせて黙らせている。
「ああああ、もうやだあああああ」
戦意喪失した最後の一人が逃げ出した。階段を上って外に飛び出した。アグロは追った。待て、と叫んだ。入り口付近に潜んでいたビビは、彼の声質でなにもかも了解した。ポシェットから翼ある凶器を取り出して逃亡者の背中へと大きく投げつけた。爆弾だ。太陽の漲る力に引き寄せられ、鳥の飛翔のように滑らかなカーブを描く。一回きりの飛翔。逃亡した悪魔は前のめりに転倒して、火薬の匂いを嗅いだ。驚いて顔を上げた。彼は両手をあげながら、燃える炎のなかで鳥になった。
アグロがホセを縛るロープを引きちぎって解放してやった。それから依頼者の女学生が住んでいる家へ訪問した。女学生はペットが今日のうちに見つかったことに飛び跳ねて喜んだ。
「ホセはタンゴが踊りたかったのね! ずっとわからなくてごめんね!」
ランランランと口ずさみ、二足歩行するホセの前足を手に取って踊る。
「よかったな」
「ありがとうございます、探偵さん!」
女学生は両手でアグロの大きな手を挟んだ。
「……がるるるるるるるるるっっ!」
アグロの背後でビビは獣のようにうめいている。
「それから、お嫁さん? もありがとうね!」
と女学生が感謝を伝えると、ビビはすました顔でそっぽを向いた。
「ふん……これからは大事なペットを迷子にさせないようにしてほしいですわ!」
日が沈み、ふたりは事務所へ帰る。
帰宅途中、壁にスプレーで落書きされた薄暗い路地を通る。
目玉の飛び出したコミカルな犬だとか、天使の墜落した絵だとか、そんな絵に囲まれながら、ふたりは両手を取り合って踊る。
事務所のビルが近くまで来たとき、フィズィにばったり出会った。
アグロが働いている事務所の下にタトゥーサロンを構え、自身も腕に巨大な双頭の蛇のタトゥーを入れた、金髪のお姉さん。
フィズィに会った途端、アグロは露骨に面白くなさそうな顔をした。
9 遠い銭湯
「あら、二階さん?」
幼稚な落書きだらけの壁の前で、フィズィはおどけてみせた。今日もタンクトップといういでたちだが、下は丈の短いハーフパンツをはいている。
「二階さんってなんだよ。馬鹿にしてるのか一階さんよお」
「ずいぶんごきげんじゃん、アグロ君。クソ暑いのに下手くそな踊りを踊っちゃってさ。テントウムシかと思ったわ。お姉さん感心せん」
「たまには感心してみろよ、フィズィ」
「アンタに感心したこと一度もないわ。まったくホントに感心せん」
フィズィはビビに微笑みかけた。
「久しぶり。元気? ビビさんっていうんでしょ。あれから何回か見てるけど、話したことはなかったね。いつでも一階に遊びに来てね。営業中は怖いお兄さんとかいるけど、仕事終わりなら下に来てもいいよ。一緒にお話ししようよ!」
ビビは困惑気味に引いていた。
「えーと……家出少女じゃないですわよ?」
「わかってるって」
艶めかしくも健康的なフィズィは簡素なバッグを携えていた。そして、ひとを困らせるような意地悪な目つきを大男に向けた。
「今から銭湯に行くの。一緒に行かん?」
「どういうつもりだ」
「別にいいじゃん。上と下のお付き合いは続いているんだし」
「上と下のお付き合い……か」
「そそ。たまには上になりたいわ。替わってくれんかな」
「俺はいいけどよ。デスクも本棚も家具もぜんぶ一人で運んでくれるんならな」
「上のほうがいいよ、絶対。でもアグロ君を相手にすると、いつも下になっちゃうんだなこれが」
なんのことだよ、とアグロはいった。
「なんのことだよ」
「いいから行こうよ、銭湯」
「てか、なんでお前が入れるんだよ。腕見てみろよ腕、出禁だろ出禁」
「ふっ」
「ふっ、じゃあねえよ」
「入れるんだなあ、それが。この街の銭湯は懐が広い……わかってることっしょ?」
「うむ。そうか。そうだな、ビビ、銭湯に行こう。今日の汗を流してこようぜ」
ビビは機械的に頷いた。
ダンナ様と銭湯に行くのはいいとして、女湯と男湯で離れ離れになる。代わりにほとんど話したことのないこの陽気な蛇女と一緒にくつろぎ空間を共にすることを考えると、少し気が重いビビなのだった。
歩みが遅くなったビビの眼前に、大人二人の背中が見える。
二人は小声でこそこそ話し合っている。楽しそうなおしゃべりではない。ビビはなんだか割って入る元気もなく、ぼんやり見つめていた。
女は、男にゆらりとわざとぶつかりながら、小声で、
「いっぱい泣いたんだからね」
といい放つと、男は完全に黙ってしまった。
それから女はちらりと顔だけ振り向いた。
「あの子、泣かしたら、絶対許さないから」
ビビとアグロは事務所に戻り、身支度を済ませ、外で待ってくれていたフィズィといっしょに銭湯をめざした。その間、だれもしゃべらなかった。銭湯は遠かった。
どのような道を通って、どれだけ歩いて銭湯にたどり着いたのか、あとになって考えてもビビはまったく思い出せなかった。
その晩遅く、アグロは調査があるといって出かけて行ったが、明け方になって帰ってきた。
10 それは私だ
夏のあいだ、ビビは何度か桃のジャムづくりに挑戦したが、いつも大抵失敗に終わった。
今日は焦がさない。
今日こそ桃のジャムを焦がさないぞ。
その一心で、桃の詰まった紙袋をだいじに抱えて帰路を歩いた。炎天下、あごに集まる汗のしずくにも厭わずに事務所へ帰ってくると、白衣の男が転がり込んでいた。
サリムだ。
そいつはアグロと打ち解けたようすで同じソファに座り、涼しい空間の中、二人でタバコをふかしていた。
「あ……あのときの変態怪電波!」
変態呼ばわりされた男の前髪の奥から、鋭い目つきがビビをとらえていた。
アグロがこっちへ来いと手招きする。
「紹介するぜ。こいつはサリム。天才外科医として名を轟かせているらしい。あれ、前に会ったんだっけ」
「サリムです。この前ぶりだね、小鳥ちゃん。アグロとの大昔からの仲良しです。ふふふ……大昔からのね」
「いやあ、ここにも白衣で来るとはなー」
「プライベート用の白衣さ。仕事が好きでこの衣装だと落ち着くんだ」
「……つか本当に外科医なのか? なんだかんだでお前の病院に行ったことがない。本当にそこで働いているのか? 疑わしいな」
「……きみも本当に探偵? 探偵らしい仕事をしているところを見たことがないよ」
「たまにしか依頼がないもんでなあ。下の蛇女に『自分のことを私立探偵だと思い込んでいる私立ニート』と疑われる始末だ。私立ニートという言葉がどういう意味なのか余は知らんが、俺はあくまで探偵なんだ」
「私立ニートなんでしょ?」
「わはははははははははははは」
そんな風に笑うダンナ様をビビは初めて見た。
すでに場ができあがっていて入りづらい。ソファには座らず、立ったままようすをうかがっていた。
サリムは秀でた容貌、穏やかな物腰、存在感のあるオーラを漂わせている。が、ビビにはちっとも好きになれなかった。なんだかやけになれなれしい。
二人の会話にはぜんぜん溶け込めなかった。
それどころか、ビビはサリムから好意など寄せられていないことが次第に分かってきた。
というより敵意を向けられていた。
無理もない。爆弾を投げつけた相手なのだ。
「アグロは姪っ子さんに好かれてうれしいようだね。いったいいつからダンナ様になったんだい? なんでもこの子、最近住み着いたらしいじゃないか。隣の部屋で一緒におねんねしているのかな。一つ率直に聞くけど、本当に籍を入れたわけじゃないよね?」
「それは、まあ」
「じゃあ、ごっこを演じているにすぎないんだね! 夏のあいだ?」
嘲るような眼つきが前髪から透けて見える。
「そ、そんな……ダンナ様……まさか遊びだったのですか……?」
「まあ、ビビ、落ち着けって」
「遊びだったんですね……?」
「まあ……そのうち式でも挙げられるといいな?」
「挙げるわけないさ」とサリムが横やりを入れる。「ずっと付き合っていたわけじゃあるまいし、ねえ?」
ビビはショックを隠し切れなかった。口を結んで悔しさをこらえる。二人の生活はただのお遊びだった。あくまで仲良しごっこを演じていただけにすぎなかったのだ。
それなら最初からそうといってくれればよかったのに。
「ダンナ様の、うそつきーー!!!!」
桃を次から次へと投げつけてやった。ぶに、ごっ、げぶ、と彼の頬に直撃する。投擲なら得意なもので、桃は全弾うまい具合に顔にぶち当たった。
「ぐえっ。お、おい、やめろっ!」
「アハハ、妬いてるんだね。ボクらの仲に?」
ぴと。
「!!!」
白衣の男はわざとらしくアグロのたくましい二の腕を両手で掴んで身体を寄せた。
「アグロとボクは運命の仲、だよーん。そう、運命のね……」
「ただの友達だろうが!」
「ただの、とまでは、もういえないんじゃな~い?」
「なんだそれ……」
サリムが立ちあがった。ビビに近寄り、彼女のあごを指でくいっと上げてもてあそぶ。
「アグロはボクのものさ」
まさかのライバル宣言。
受けて立とうと思えたのは後になってからで、そのときは臓腑も縮む思いで立ちすくんでいた。
威嚇されたからではなかった。サリムの前髪の奥に見え隠れする眼が、異様な険相の輝きに燃えていたからだ。
ビビは引きつった顔で顔面蒼白になりながら、事務所を飛び出した。
「ダンナ様は私のダンナ様なんだから~~~~!!!」
部屋には桃まみれの男と、真っ白い男が残された。
酷暑の空間に飛び出したビビは毅然と振り向いて、重みのある丸いものを二階の窓ガラスめがけて投げつけた。それは爆弾のかたちをした彼女自身にほかならない。これは私だ。
言葉にならない言葉を爆風に託す。
二人の男の悲鳴があがった。
しかし外に飛び出したところで、どうするというのだろう。ここは故郷ではない。通りには圧倒的に他者ばかりだ。坂道だらけの街をビビはしばらく上へ下へと走っていた。涙を含んだ髪を背後になびかせながら、やがて悲しみさえ眩暈に変わりなにも考えられなくなるまで。
「……恋のライバルが男でいいはずがありませんわ!?」
11 友達
彼女は孤独だった。
爆弾を生み出し続けることが、寂しさをやり過ごす唯一の方法だった。
赤い岩に覆われた、見渡すばかりの荒漠とした土地に生まれ育った。
学校にはたまに行った。友達はいなかった。声をかけてくれたところで、どう返していいのか分からなかったので、すべて無視した。
「いたんだ」
廊下ですれ違いざま嘲笑する小悪魔がいた。ビビよりもずっとおしゃれな小娘。いやらしく笑みを浮かべている。
「永遠に死んだんかと思った」
相手にしないで去った。
と見せかけて振り返り、ビビは存在の証しとして爆弾を投げつけた。ポケットサイズだが威力は十分、小悪魔は廊下の果てまで吹っ飛んで逆さまの体勢で壁にめり込んだ。
「うう、ごめんね、ビビさん、本当はあなたと友達になりたかったの」
ウーニャ、それが彼女の名前だ。
彼女はビビが学校でできた初めての友達だった。
学校では彼女のほうから積極的に会いに来てくれた。ふたりはぎこちなくも、たわいない会話を繰り広げた。
ある日、放課後の教室でウーニャは美容アイテムをずらりと並べて、ビビにネイルケアの方法を教えてあげた。
初めて見る道具ばかり。ビビは目をぱちくりさせていた。暗殺道具だと勘違いしたくらいだ。
「女は爪よ。爪。ネイルケアなんてカンタンなんだから。行くわよ? いい? まず、この板状のやすりを爪先45度にあてて一定の方向に削って形を整え、次にコットンを巻いたこのウッドスティックで甘皮を押し上げ、甘皮の残りをこのニッパーでカットして、ささくれもあったらもちろん切って、今度はさっきとは別のやすりを使うんだけど、荒いほうの面があるからこれで爪の表面を磨いて、そして美容液を塗って栄養成分をしっかり染みわたらせ、甘皮まわりにはこのネイルオイルをなじませ、ツヤ出しのためにさっきのやすりの磨き用の面でまた爪を磨いて、ツヤ増しのためにこのベースコートを塗って、完成。ね、簡単でしょ? でもこれだけじゃだめなの。綺麗な爪にするには指先もだいじ。このハンドクリームを、こうやって指の付け根から指先へ螺旋を描くようにくるくるとマッサージするの。簡単でしょ。ね、ねえ……聞いてる? ビビさん?」
ビビはおし黙って自身の爪を眺めていた。線の入った、栄養不足の白っぽい爪を。
彼女は暗い部屋で夜を過ごした。天井から電球が一個ぶらさがっただけの部屋で夜通し爆弾を作り続けた。
いつかビッグバンに繋がる一瞬を求めて。
彼女の球体黙示世界は彼女だけのものだった。
浅い眠りは毎晩のことだった。質の悪い睡眠のために夢と現の境目があいまいになることがあった。学校で友達ができたのは本当のことだったかな。
ある日、放課後の廊下を歩いていると、教室から、
「嘘つき!」
というだれかの大声とともに、机が床に叩きつけられる剣呑な音がした。
教室から三人組がぞろぞろと出てきて愚痴を交わしながら去っていく。覗いてみると、ウーニャがうつむいたまま立っていた。肩をふるわせていた。逆光で顔は暗く、よく見えなかったが、ひと筋の冷たい光を流しているのがわかった。
事情はわからない。わからないことだらけだ。だがあいにくビビは常に自身の事情を優先させたかった。
廊下に出るとまだ三人組が背中を見せている。
足の小指で地面を踏み、体をひねる。爆弾は標的めがけて虹の弧を描いた。
耳を聾せんばかりの音がこだまする。廊下のすべての窓ガラスが砕けた。悲鳴の合唱が起こる。
次々と投げる。投げる。投げる。なにかが引き裂かれる音がする。なにかが弾ける音がする。
チューブからひねり出した絵の具そのままの雷が生まれ、原色の暴風が巻き起こった。
アクション・ペインティングの大伽藍が築き上げられ、崩壊する。
校舎が垂直に引き延ばされ、横に潰れていく。
悪魔たちの学校の一部を形成していたものが明るみになり、黒くて巨大な胞子か、いや落書きの蜘蛛の群れか、無数の脚を生やした闇の塊がもの凄い速さで八方に散っていった。
零れ落ちたインク壺から飛び立った千の蝙蝠が虚空で円陣を組む。空は暗黒で埋め尽くされた。
どこからか、もうやめて、というかぼそい声がした。
破壊行為ではなかった。不確かな世界を確かなものにする彼女なりの行為だった。本当に求めていた、新しい世界が目の前にひろがるまで。
ビビは瓦礫に埋もれていた。なにかが頭の中で混線している。この頬に流れる熱い液体はなんだろう。そのうち考えることをやめた。ただ一瞬、なんだか自分が死んじゃって、冷たい土の中に埋葬されたみたいだと感じた。
(後編へ続く)
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