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ロック、ダブルで。

 犬がバーの入り口に向かって唸り声を上げた。

 アリスはふと思った。

 人間はなぜ犬に名前をつけるのだろうか?

 それが友情のしるしなのかもしれないが、アンドロイドからすれば不要なタグの一つにすぎない。

 この犬はふとしたきっかけからここに住み着いてしまった。追い出す理由も見つからず、困りもしないのでそのままにしている。困ることが無い代わりに良いことも特に無い。強いて言えば、犬がいいると滅多に来ない客の表情が和らぐという程度か。

 その犬が唸っている。

 数秒後に一人の男が入り口に転送されてきた。

 男は身体が大きくきちんとした身なりにカシミアの黒いコートを羽織っていた。後になでつけた黒髪に少しばかり時代を感じさせるつば付き帽を載せていた。年齢は五十歳前後で奥深い黒い瞳と濃い口ひげが印象的だ。わずかに疲れを含んだ表情はどこかの企業の役員だといわれればうなずけるような風貌である。

 男はカシミアのコートと帽子をフックに掛けると、自信に満ちた足取りでカウンターまでやって来た。そして静かに、優雅にスツールに腰掛けた。それが計算された動きなのか、生活から身についたものなのかはわからなかった。

「ウィスキー。ロック、ダブルでくれ」

 低くよく通る声がそう伝えた。

「どちら。本物でいいのかしら?」

 男はわずかに口角を上げると黙って頷いた。

 ロックグラスに氷を入れると子気味のいい音が響いた。そこに棚の裏手から取り出した本物のGlenfiddichをダブルで注いで男の前に置いた。

 男が手を伸ばす前にアリスは訊いた。

「支払いは? ここは個人株式の信用取引もポイントもやってない。現金オンリー」

 いくらいい身なりをしていようと、こんな深海のカプセルバーにやって来る客を信用はできない。

 すると男はポケットから一枚の金属板を取り出してアリスに放った。

 四角いそれはコンピューターチップかと思えば、古い時代の硬貨であった。表面に「一分銀」と刻まれている。

「珍しい物を持っているわね」

「長生きなものでね。足りるかね?」

 アリスは黙ってひと瓶そのままを男の前に置いた。

 二杯目のウィスキーを飲み終わった頃を見計らって、アリスは男に尋ねた。男の持つ雰囲気が、決して酒を飲むためにここにやって来たのではないと言っていた。そもそも、酒を飲むためだけにここに来る客はほとんどいない。

「本当の用事は何?」

 男は演技じみた仕草で眉を持ち上げて見せてた。相手が人間だったなら「どういうことかな?」とでもいうのだろうが、アンドロイド相手に芝居をしても意味がないと気がついたのかすぐに真顔に戻った。

「しがらみを断ち切ってほしい」

 言ってから男は電子証明書を目の前にかざしてみせた。電子証明書には聞いたこともない建設会社の名前と並んで、

  美濃部善三

と名前が表示されていた。

「どういう事? わたしにもできる事とできない事がある」

「できるさ。私には見える。あなたがそういった能力を持っていることがね」

 美濃部は人指し指をアリスに右目に向けた。

「その目が見ているものと同じものが見える」

 つまり美濃部が言いたいことは、アリスのこの右目でしか見えないもの。普通の光学レンズでは決してみることができない類のものを断ち切れと言っているのだ。総じてそれは呪いとか恨みとか言った類のものになる。美濃部は小綺麗な身なりの裏で、口に出すのも憚られるような事をしているという訳である。どうりで歴史的な価値のある時代物の硬貨を投げてよこす訳だ。

「できるかできないかは診断してから答えるわ」

 アリスはそう断ってから得意の右目にリソースを集中し、美濃部のフィールドを解析し始めた。

 アリスの右目には重力場センサーが仕込んであった。エネルギー場に影響した重力場の僅かな変化を捉えることで、その人物の持つフィールドを読み取ることができた。そのフィールドとは他人から仕向けられた負のエネルギーに大きく影響する。その人物が持つフィールドの形状によって、引き込みやすいエネルギーのタイプが違う。時に負のエネルギーばかりを引き込んでしまう人物がいる。そしてそういった人物のフィールドは独特の形状をしていた。

 アリスは美濃部のフィールドを見て唖然とした。美濃部のフィールド形状は負のエネルギーを取り込みやすいどころか、負のエネルギー場そのものであった。こんなフィールド形状を持つ人間がいるとは思えない。いわば美濃部自身が世界中を相手に呪いを放っているようなものである。負のエネルギーは負のエネルギーを呼び込む。これでは美濃部の言うしがらみだけを断ち切ることはできない。美濃部自身を切るしかない。

「解析結果が出た。無理よ」

「ほう」

 美濃部は三杯目のグラスを運ぶ手を止めた。

「それは何故かね。がっかりする理由を言わないでくれよ。私は気が短い」

「あんたの性格にケチをつけるつもりはない。ただ、無理なものは無理というだけ。あんたの持つしがらみはあんた自身が引き寄せているもの。あんたが変わらなければいくらしがらみを断ち切ったところで、すぐに次のしがらみができるだけで意味がないわ」

 美濃部は不敵に笑った。

「がっかりする理由を言わないでくれと今言ったばかりなのだがね。エンジニアは憑き物落としができると聞いて、わざわざこんな辺境までやってきたのに、答えはできないの一言かね」

 カウンターの傍らで警戒していた犬が頭をむくりと持ち上げて低い唸り声を上げ始めた。

「だったらなんだというの。さっきの一分銀なら返すわ。そのウィスキーを飲んだら代金だけ置いて帰ってくれる?」

 美濃部はゆっくり、味わいながらグラスを飲み干した。そしてあくまでも優雅にグラスをカウンターに戻した。

 次の瞬間美濃部の右手はアリスの首を鷲掴みしていた。目にも留まらぬ速さであった。元戦闘アンドロイドのアリスですら反応できない速度。遺伝子工学やバイオテクで改造して得られる速さではない。とはいえアンドロイドでもサイボーグでもない。

 アリスははたと気がついた。今の今まで美濃部を人間だと考えていた。もし美濃部が人間ではないとしたら、あの不自然なフィールド形状も説明がつく。それなら対応方法も当然違ってくる。

 アリスは美濃部の右手首を握りしめた。

「あんた何者なの?」

 そして美濃部の手首を握る力を強くしていった。普通の人間であればもうすでに悲鳴を上げている強さだ。

「そうだな。お前の友人に変わった男がいるだろう」

「わたしに友人はいない。変わった男といえば子供並みのチビでハゲが一人いる。そいつのことなら、一番友人とは遠い存在よ」

 アリスが力を強める。骨がきしむのが感触で分かった。だが美濃部の握力は緩まない。

「そいつと同じ世界にいると言えばわかるか?」

 ついに手首の骨が耳障りな音と同時に砕けた。

 だが美濃部は表情一つ変えなかった。それどころか、これからいたずらを仕掛ける子供がするようないやらしい笑みを見せると、大きな左手をアリスの顔にかぶせて立ち上がった。

「ようこそ。私の世界に」

 男の左手が真っ白に変化した。同時にその手を中心に一気に温度が下がり始めた。

「お前も私のしがらみにしてやろう」

「どうかしら。わたしは機械だから、そう簡単にはいかないと思うけど」 

 右手首から手を離すと瞬時に骨が再生した。アリスは手首がだめならと今度は拳を作って胸に叩きつけた。屈強な体躯に見えた美濃部の胸に、拳は雪像を崩すようなやわな感触と共にめりこんだ。

「気が済んだかね。さて、これからが本番だ」

 美濃部が勢いよく息を吐き出すと、口からは雪礫が猛吹雪のごとく吹き出した。バーの内部はたちまちにして真っ白になり一気に気温が下がった。しばらく犬が美濃部に向かって吠えていたが、急激な気温の低下に怯えて温かい機械室に逃げ込んでいった。渦巻く雪は店内を荒れ狂い棚もカウンターもテーブルも白い雪を載せて凍りついていった。鏡には霜が張り付き深海を見渡す窓は外との温度差で曇ったまま白く凍りついた。全てが白一色に塗り尽くされていった。

 アリスは美濃部の左右の腕を蹴り上げた。強烈な右足は左右の腕両方を上腕部から切断した。アリスにまとわり付いていた腕は白い雪の塊となり崩れ落ちた。

 美濃部の切断された上腕部からは、次々に雪が張り付いて新しい腕ができつつあった。

 アリスは今度は頭部めがけて左回し蹴りを放った。だが腕の時と同じく、アリスの左足は不確かな感触を残して頭部を崩しはしたが、美濃部を倒すことはできなかった。

「一発でだめなら百発打ち込むだけ」

 アリスはその機械的スピードを生かして美濃部に飛びかかりつつ一秒間に二十発ものパンチを繰り出し身体を粉々に砕いた。数秒後美濃部が立っていたところには人と呼べる形のものは残っていなかった。

 ところが店内の吹雪は止むことはなかった。どこからともなく美濃部の声が響いてきた。

「どうした。そろそろ動くのが辛くなってきたのではないか?」

 気温はすでにマイナス四十度にも達していた。カプセルの周りの海水が凍り始めていた。そしてアリスの身体に変化が起き始めた。関節部の動きが鈍くなっていた。ラバーパーツが硬化し始め、ありとあらゆる液体が凍りついているためであった。

「まだまだという顔をしているな。だがマイナス百度はどうだ。マイナス百五十度では?」

「くっ!」

 ラバーパーツが硬化すると先程のような高速動作はできなくなる。だが動けないことはない。マイナス百五十度でも問題はないだろう。だがもし美濃部が絶対零度まで温度を下げることができたとしたらどうなるのか。アリスのコアプロセッサの中で超伝導が起こってしまったらどうなるのだろうか。それ以前にアリスが耐えたとしても、このカプセルバーと犬はそんな超低温には耐えられないし、見えない相手とは戦えない。

「くそう。どこだ」

 右目にリソースを集中する。店内全体が美濃部のエネルギー場で満たされていた。これでは実体がどこにいるのかわからず手の打ちようがない。

 ならばどうすればよいのか。形だけでも美濃部に取り付く呪いを削ぎ落としてやればいいのか?

 アリスが口を開きかけた時だった。

「ウィスキー。ロック。ダブルで」

 カウンターから声がした。

 いつの間に来店したのか、カウンターの一番端のスツールに男が一人座っていた。子供並みに小柄で頭頂部が禿げ上がり、瓶底のような丸メガネを掛けている。アリスが最も会いたくない相手。アリスの地下バトルロイヤル時代のプロモーターであって、今でも時々復帰の説得に来る面倒な男。井之方であった。

 井之方はアリスが軍をクビになった後、拾い上げて地下バトルロイヤルの選手として育ててくれた。だが非合法な地下バトルロイヤルはアリスにとって「死」という概念を理解しただけの恐怖の日々であった。そんな恐怖の日々に戻す説得をするために、井之方は本来入れるはずがないような場所にこつ然と現れるのであった。

 そもそも、このような状況でわざわざ来店しようという輩はいない。こうして自ら災難に首を突っ込みたがる。井之方とはそういう男であった。

「取り込み中かいない。しゃあない。勝手にやらせてもらうで」

 井之方はカウンターを回り込んで勝手にウィスキーを漁り始めた。そして適当な瓶を掴むと勝手に栓を開けた。

 すると極限まで冷やされた瓶に栓が張り付き、無理にひねった拍子に瓶が割れてしまった。

「ありゃりゃ。割れてもうた。中身も凍っとる。これじゃあ飲まれへん」

 井之方はさもがっかりとした表情をした。

「こっちはどうや」

 二瓶目も同じく割れた。

 井之方は口をへの字に曲げて割れた瓶をゴミ箱に放り込んだ。

「面白うないのう。それもこれもあいつのせいやな」

 井之方はカウンターから一番アルコール度数が高い酒を一本選び握りしめた。

「ちょっと。もう止めてよ」

 井之方はそれを持って何故かフロアに戻って来た。

「うう。寒いのう。ええと、この辺りかいな」

 そして瓶の口を叩き割ると、その瓶を何もない空間に突き出した。

 ところが瓶を持った井之方の手はまるでカーテンで隠されたように手首から先が見えなくなってしまった。

「ビンゴや」

 井之方は見えない奥へと手を押し込んだ。すると腕は何者かに飲み込まれるように肩口まで消えてしまった。

「せや。いい子や。これ飲んでおとなしくしとけ。悪い夢は飲んで忘れるこっちゃ」

 しばらくそんな事をつぶやいていたかと思うと一気に腕を引き抜いた。その手にもう瓶は握られていなかった。

 そして気がつけばあれほど荒れ狂っていた吹雪はチラチラと舞い散る程度にまで収まり、やがてその静かな雪すらも上がってしまった。

 店内の気温がゆっくりとだが確実に上がっていき、そこここに降り積もった雪は急速に溶けて、そもそもはじめから存在しなかったがごとく消えていった。

 気温が上がったのを感じ取ったのか、犬が店内の様子を機械室から首だけ突き出して窺っていた。 

「あいつは何者なの?」

「知らん。知らんが、たちの悪い酔っぱらいのガキは酔いつぶれさすに限る。そんな事はどのセカイでも一緒の事や」

「助かったわ。割ったウィスキーの事は大目に見てあげる」

「一番友人と遠いのにか?」

 井之方がにんまりと笑った。いつもの話を始めようとしている。

 アリスはしまったと思った。だが今日ばかりはこの男の話に付き合ってやらねばならないだろう。

「聞くだけだからね」

「分かっとるがな」

 アリスは凍ってないウィスキーを見つけるとグラスにダブルで注いだ。

 美濃部の置いていったコートと帽子を井之方が身に付けている。まるで小学生の演劇衣装のようだ。

「ロックは?」

「いや、今日は寒いし、ストレートにしよか」

 井之方が一口、まるで熱燗でもすするように唇を突き出してウィスキーを飲んだ。犬が寄り添うように傍らで寝転がっている。

 さあ、面倒な話が始まる。

終わり


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