最果ての隣人
三日三晩続いた吹雪はついに四日目の夜に突入しようとしていた。こんな吹雪の日に出歩けるのは友人のユキくらいなものだ。なぜならばユキは人間ではない。
ユキは義理堅いところがあるらしく、シベリアの山荘を無償で貸してくれただけでなく、お詫びだとウィスキーをケースで置いていった。今時本物のウィスキーは手に入りにくいのでどうしたのか尋ねると、恋人の浮気相手から慰謝料としてたんまり巻き上げたのだそうだ。カウンターにはユキがくれた『ハイランドパーク12年ヴァイキングオナー』が並んでいた。
『ハイランドパーク12年ヴァイキングオナー』は、スコットランドのハイランドパーク蒸溜所で生産されるウィスキーで、華やかな甘さを持つバランスのよいシングルモルトウィスキーだ。このウィスキーはボトルデザインも特徴的だ。北欧美術に見られる蔦が巻くような模様が瓶にあしらわれている。これは善と悪の戦いを表したものとも、世界を作る聖なる木の根とも言われている。
なんでもユキはこのウィスキーが世界最北端の蒸溜所で生産されることから、このウィスキーを選んだそうだ。北国が好きなユキらしい。
そのユキは自分の愚痴を喋りたいだけ喋ると気が済んだのか、吹雪の風に溶け込むようにして帰っていった。
いつしか青を吸収した山々は夜に溶け込んでいた。
ここはシベリア奥地にある雪深い山の中腹。アンドロイドのアリスが営む小さな山小屋バー。こんな雪に閉ざされた僻地を訪れる客はほとんどいない。暖炉では薪がひっそりと赤い炎を揺らし、床にはグレイハウンドが眠っていた。
そんなバーの扉を叩く者があった。
叩くというより、揺さぶるといった方が正しいかもしれない。
アリスは珍しくやってきた客を黙って待った。だが、その客は一向に入って来る気配がなかった。開け方がわからないような扉でもない。さすがにこの寒さである。外で凍死でもされると厄介なので様子を見にいくと、開いた扉の向こうには誰の姿もなかった。ただ、入り口の前にはとても人のそれとは思えない大きさの、裸足の足跡だけが残されていた。足跡は入口から山の斜面へと続き、そのまま闇の中へと消えていた。
翌日は晴れたが、夕刻から風が出て夜中にはまた吹雪になった。吹雪は何もかもを真っ白に染め上げ、氷つかせた。そんな中、また入口の扉を叩く者があった。扉を開けると昨日と同じように足跡だけが残されていた。
そんなことが何回か続いた。
そしてある晩、扉を開けると扉の前には魚が一匹置かれていた。サクラマスで体長は60センチほどあった。腹に爪で引っ掻いたような切り傷が付いていた。サクラマスは捕獲されてすぐに寒さで凍ってしまったらしく新鮮そのものだった。新しいメニューを考える必要がある。
どういった理由でサクラマスを置いていったのか分からない。ただ、もらったままでは悪い。アリスは、お礼代わりにユキにもらったウィスキーのボトルを、一本入口傍の雪にさしておいた。翌朝見るとボトルは無くなっていた。
しばらくして、再び吹雪の夜に扉が叩かれ、入口の前にサクラマスが置かれていた。サクラマスは二匹になっていた。サクラマスとウィスキー一本では割りにあわないが、どうせ客も来ない。アリスはその晩もボトルを一本置いた。
次の時はサクラマスは三匹になっていた。そしてその次は再び二匹だった。取れた数だけ持って来るのだろう。だが、流石に毎回ウィスキーを渡していてはバーが成り立たなくなる。その晩は暖かい紅茶を入れたポットを置いてみた。翌朝ポットは残されていた。蓋が開けた形跡はあったが中身は残っていた。それきりサクラマスの配達人はやって来なくなった。
ある時、珍しく客がやってきた。ハンターだった。
ハンターはサクラマスのムニエルと暖かいコンソメスープを注文すると本題を切り出した。逃走したヒグマを追っているのだそうだ。なんでも、街で飼われていたヒグマで、人工知能で高知性化改造をしてあるため、その知恵を使って電子ロックを解除して檻から逃げ出した。高知性化してあれば人を襲うことはないはずだが、飼い主は裏切りにひどく憤慨して殺処分を求めた。身勝手な話だ。
「ヒグマは体長3メートルあり運動能力も上げてある。地下バトルに出すつもりだったらしい。ヒグマにしてみりゃあ望んでもいないバトルだ。そりゃ逃げ出したくもなるだろう」
「殺さずにはすまないの?」
「懸賞金がかかっている。俺がやらなくても誰かがやる。俺なら苦しませずに殺れる」
ハンターはウィスキーの乾瓶を取り出してカウンターに置いた。瓶は『ハイランドパーク12年ヴァイキングオナー』だった。
「ところで、この瓶に見覚えはないか? ヒグマの寝ぐらと思われる場所で見つけた。数本転がっていた。こんな冬山でこいつが仕入れられる場所といえばここしかない」
アリスはサクラマスの配達人が何者だったのかを知った。どうして扉を開けなかったのかも。そしてその運命を変えてやれないのだと気づいた。
「ボトルはあなたが今食べ終えたばかりのサクラマスと交換したものよ。こういう時に残念と表現するのね」
ハンターは全てを理解し、僅かに眉を持ち上げた。
「ああ、俺も残念だよ。料理、うまかったよ」
ハンターは代金と空瓶をカウンターに残して出ていった。
窓からは節煙を巻き上げながら急斜面をエアライダーで下るハンターの姿が見えた。ハンターは渓谷を上流に向けて遡って行った。きっともう行き先の目星はついているのだろう。
しばらく晴れの日が続いた。軒から下がる氷柱が溶け雫を落とし、乱反射した光が床に光の模様を作っていた。
そして再び吹雪の日々がやってきた。外は暗く夜がひっそりと裾を広げているかのようだ。風とは明らかに違う音が扉を揺らした。規則正しくノックとも取れる音。だが、扉は開かず来客は入って来る気配がない。
もしやと思ったアリスは行って扉を開け放った。細かな雪が滑るように吹き込んでくる。入口の前には数匹のサクラマスが置かれていた。一瞬ハンターがヒグマを仕留め損ねたのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。鰓から紐が通されて全てが繋げられていた。ヒグマの手でできることではない。もっと繊細な指を持つ者の仕業に違いない。それが何者なのかアリスには分からない。だがしぶとくこの辛い冬を生き延びていることだけは確かだ。そしておそらく、この知恵のある何者かはもうやって来ることはないだろう。きっとハンターの姿を見ただろうから。
それでもアリスは入口の傍にウィスキーボトルを一本置いた。もしここを去るのなら手土産にと思ったのである。だがしかし翌日になってもウィスキーボトルは残されたままだった。アリスはウィスキーボトルを回収すると酒棚の一番端に置き予約札をかけた。札には『イエティ』と記名した。
終
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