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ルナシティの夕暮れ

 ルナシティにアリスが到着して一年が経つが、夢郎の行方はようとして知れなかった。意識転送した夢郎はここに身を潜めているという確かな確信があったが、情報はほとんど無く、旧式の設備しかない月面の街で百万人の中から一人を見つけるのは困難を極めた。

 ルナシティはプトレマイオスクレーターの中心に作られた人工都市だ。時々深宇宙からやってくる隕石を避けるため、地上にほとんど建物は露出しておらず、地下に向けてバベルの塔を逆さにしたような階段状の穴がいくつも掘られ、壁際から四方八方に無数の通路が伸びてそれぞれを繋いでいる。建設が始まって随分経つが、掘削工事は今でも続いていて、流入する市民は後を絶たない。階段状の穴の最下部には最大の発見と言われる地中氷塊につながる井戸が備え付けられている。この巨大な氷塊から水はいくらでも生産できるため水だけは豊富だ。

 そしてルナシティから空を見上げると正面に地球が見える。人々は毎日地球の出と地球の入りを眺めながら生活をしており、毎月定期便がやってきて人や物資を置いていった。

 夢郎は定期便で地球に戻ってしまった可能性もあるが、戻れば政府アシストコンピューターのアテナスが監視している。それこそルナシティで姿を隠すより難しい話だ。

 アリスは夢郎の行方を追いながら再び小さなバーを始めた。ここでも僅かだがウィスキーの流通はある。ただリアルなウィスキーを入手することはほぼなく、電子ウィスキーも九龍製の粗悪品しか出回っていない。最初、アリスは粗悪品で闇商売をしていたが、ひどい機能障害が起こることも珍しくなく、とても飲めたものではない。そこでアリスは自らウィスキー生産を手掛けることにした。

 農業工場の一角を借り受けて大麦の栽培から入り、今ではバーの奥に小さな蒸留器も準備した。重力の違いで大麦の出来具合は地上とは大きく違うが、加速栽培農法のおかげで大した時間をかけることもなく、一年でそれらしい大麦が育っていた。

 バーは農業工場の一角、通路にカウンター代わりの樽を二つ並べただけの粗末な店だった。そしてその樽の一つに客が一人寄りかかって粗悪な電子ウィスキーをちびちびと舐めていた。

「あまり飲むと体に悪いわよ」

「売る側が言うセリフじゃない。全く、こんなひどい代物しか手に入らんとは、ルナシティも落ちぶれたもんじゃ」

 客はアリスが昔世話になったゲン爺だった。ゴミ処理島のドリームシティでアリスに店を手配してくれた人物だ。今はルナシティの市議の一人で、昔の恋人と暮らしている。ドリームシティでは店を世話したお礼代わりに、毎日一杯ウィスキーを奢る約束をしたが、ここでは肝心のウィスキーが九龍物しか手に入らない。恩を仇で返すようで気が引ける。

「お前さんのウィスキーはいつできるんじゃ」

「今月には大麦が収穫できるわ。でもモルティングが2ヶ月くらい、それからマッシングして、発酵させて……最低3年は熟成させないとウィスキーとは言えない。でも味を追求するなら12年くらい熟成させたいわ」

「おいおい、ちょっと待て。それじゃあわしは何のために出資してるかわからん。死ぬまでに一口も飲めないかもしれんということか」

「ニューメイクでよければ年内に仕上がると思うわ」

 ゲン爺がため息を吐く。

「ワシの息子が生まれる方が早いのう」

 アリスは驚きの声をあげた。ユリアが妊娠したとは初耳だ。

「それはおめでとう。予定日はいつなの?」

「来月14日の予定なんじゃが……」

 ゲン爺は浮かない顔をする。

 それもそのはずで、今ルナシティでは奇妙な病気が流行っていた。新生児無意識症候群、通称NUSだ。生まれてきた子供は見たところどこにも問題がないのに、意識がなく植物人間化してしまう。意識がないため産声を上げることもなく、すぐに生命維持装置に繋がれることになる。目を覚ます保証は全くなく、親は子供の誕生と同時に決断を迫られる。いくら水が豊富な都市とはいえ物資には限りがある。いつ目を覚ますかもわからない人間を永遠に看護することはできない。

 そして多くの場合は死産という選択になる。

 そういった悲しい事例が立て続けに起きていた。ゲン爺はそれを気にしている。

「きっと大丈夫よ」

 そう声をかけたものの何の保証にもならない。

 ゲン爺はまたため息を吐くと九龍ウィスキーを一息で飲み干した。

 翌日、月定期便がやってきた。

 やってきた定期便はどういった訳か着陸軌道を大きく外れ、プトレマイオスの外縁部近くに不時着した。救難信号は発しておらず、定期便の脱出移動用ローバーが動き出す気配もなかった。すぐさま救援部隊が組織されて救助に向かったが、発見できたのはもぬけの殻になった定期便だけだった。中には誰も乗っておらず、エンジンは無残に破壊されていた。

 不思議に思いつつも生存者を探すため、周囲を見回っていた救援部隊が目撃したのは衝撃の光景だった。彼らの目の前で地球と月を繋ぐ生命線であるパラボラアンテナが爆発した。眩い閃光に続いて大地を揺るがす振動が襲ってきた。もうもうと巻き上がる砂煙の中に巨大なパラボラアンテナが崩れて沈んでいった。

 ルナシティは地球と切り離され孤立した。

 事態を飲み込めていないルナシティ全体に一本の動画が流された。画面の中には見たこともない男が立っていた。その男は巨大な体躯に浅黒い肌、そして残忍な目をしていた。巨大なライフルを肩に担いでいた。男はダスクと名乗った。ダスクの背後には数名の武装兵と、どういう訳か、街の安全を守る役目の武装アンドロイド、アーマードポリスが並んでいた。

「ルナシティの者どもよ。よく聞け。これからこの街は俺の支配下に入る。それが気に入らないやつはいつでも申し出るがいい。その場で俺の忠実な仲間が相手をする」

 アーマードポリスが一糸乱れぬ連携動作で銃を構える。そこここでサイレンが鳴り響いていた。動画の背後、見えないところで銃声が響く。誰かが抵抗をしめしたのかもしれない。地球に連絡を取ろうとする者もいたが、パラボラアンテナが破壊された今では連絡の手段は無い。徐々に人々の顔から余裕が消え、恐怖の空気が街に蔓延していった。

「地球から助けが来ると思っているやつもいるだろう。だが諦めな。誰も来やしない。何故なら、政府アシストコンピューターのアテナスはここを見捨てた。お前達はアテナスに売られた」

 見捨てた。その言葉が混乱を引き起こした。いち早く月から脱出しようと人々が空港に殺到して暴動が起きかけていた。だが、空港にたどり着いた人々が見つけたのは、発着場で自分達に銃を向けて並ぶアーマードポリスだけだった。月と地球を結ぶ唯一の宇宙船は定期便だけ。定期便が破壊された時点で全ての希望が絶たれていた。

「これからお前達を二種類に分類する。上級市民と下級市民だ。俺たちに益を成す者は上級市民にする。それ以外は全員下級市民だ。過酷な労働が待っている。ただしもう一つだけ選択肢を与えてやる。しばらくしたらサーバ衛星ジュノーに回線接続する。完全意識に融合したい者は好きにするがいい」

 ダスクはまるで自分が寛大であるかのような笑顔を見せた。

「それともう一つ教えてやろう。この街にアリスという名のアンドロイドがいるはずだ。そいつは人類の進化を止めようとする悪魔の手先だ。罰する必要がある。そいつを俺の前に連れてきたやつは名誉市民にしてやる。どうだいい条件だろう。過酷な労働をやりたくなければ、くそアンドロイドを捕まえて連れてこい」

 この放送をアリスはバーで見ていた。アテナスはアリスを人類進化の敵と見ている。アリスに言わせれば、アテナスこそ自然な人類の進化をねじ曲げる存在だ。全人類が一つのサーバ内で、一つの意識になることが幸せだとは到底思えない。死ななければいいということではないはずだ。

 一緒に見ていたゲン爺がアリスをじっと見詰めてきた。

「通報する?」

「まさか。ドリームシティからの仲間じゃろ。少し離れたクレーターにワシの離れがある。そこで匿ってやろう。愛人でも囲おうと思って作ったんじゃが、まさかこんなことに使う羽目になるとはのう」

「変わらないわね。すぐに準備するわ」

「準備って何があるんじゃ」

「大麦の種と酵母だけでも持っていかないと」

 どちらも将来リアルなウィスキーを作るためには必要なものだ。ゲン爺が早くしろと微妙な表情で頷く。

「それにしても何者だあいつら。ルナシティなんか占拠して何がしたいんじゃ」

「言っていたでしょう。ここは見捨てられたのよ。人類進化のために多少の犠牲は付きものってことじゃないかしら」

「人類進化のためになんで人類が犠牲になるんじゃ。訳がわからん」

 アリスはジュノーから見た地上のことを話した。アフリカの奥地でアテナスがこっそり研究している知能をあげた類人猿のことと、人類の意識を全て、完全意識という一つの意識体としてジュノーに格納する予定のことも。

「なんてこった。ワシらをカゴの中の神様にするつもりか。制限付きの神様なんて進化なものか」

 ゲン爺が憤慨する。

 アリスは僅かな種と酵母を真空ボトルに詰めると斬霊剣と一緒に背に担いだ。

「雷くらいは落とせるんじゃないかしら。さあ、行きましょう」

 ゲン爺の離れに逃れてひと月後、ユリアが子供を出産した。男子だった。そしてNUSだった。産声ひとつあげない赤ん坊はドリーと名付けられ、保育器で指一本動かさずに静かに人工呼吸を受けていた。

 産み落としたドリーがNUSであることを知ったユリアは気が動転してしまい、ローバーを駆ってルナシティに医者を探しに飛び出した。アリスが連れ戻しに行くと申し出たが、ユリアを説得できるのはゲン爺だけだろう。アリスは離れに残ってドリーの面倒を見ることになった。光のない瞳で空を見つめるドリー。それは電源を切られたアンドロイドと何一つ変わらなかった。その日、アリスにドリーを託したゲン爺とユリアはついに戻らなかった。

 翌朝早く、短いメッセージを受信した。

「ドリーを頼む」

 それが何を意味するのかすぐにわかった。ゲン爺もユリアもダスクの手に落ちたということだ。そしてアリスが面倒を見なければドリーは死ぬ。アリスと物言わぬドリーの孤独な日々が始まった。

 毎日栄養と酸素を与え、排泄物を処理する。苦労とは思わない。ただ、バーでウィスキーを振る舞うこともできないし、蒸留器はルナシティに置いてきてしまった。アリス自身無性にウィスキーを飲みたくなるが『九龍ウィスキー』は機能不全に陥るので飲めない。それ以外には『ボウモア・ダスク』が一本だけ残っていた。ルナシティを占拠したダスクと同じ「夕暮れ」の名を持つウィスキー。これはダスクを打ち負かした時に飲むと決めていた。

 ドリーの世話は全く手がかからない。時々ルナシティに蒸留器を取りに行こうかと考えるが、もしミスをして自分が捕まることがあればドリーの生死に関わる。確率的に100%が保証できなければ実行に移せない。そんなことを悶々と考えていると、ドリーの指がかすかに動いた。

 急いで計器を確認すると脳波に変化が見られた。

 目覚めた。

 ドリーが目覚めた。

 これは大変なことだ。これから生まれて来る赤ん坊たちの希望になる。なんとかしてNUSだったドリーが目覚めたことをルナシティのみんなに知らせたい。そう思った矢先だった。

 アリスの頭の中に一通のメッセージが通知された。

 ドリーからだった。

「ようやく適合する肉体を見つけた。ブルックラディで祝杯をあげようじゃないか」

 何のことだかすぐにわかった。探している男が見つかった。目の前にいるのは夢郎の意識が入り込んだドリーだ。夢郎は自分が入る肉体を作るため、生まれ来る赤ん坊から意識を追い出していたのだ。そしてたどり着いたのがドリーだった。

「なんということを!」

 アリスは拳を振り上げた。

 だが、保育器に向けられたその拳を振り下ろすことはできなかった。全ての悪の根源が目の前にいるというのに、何もできない。ドリーはゲン爺の大切な息子なのである。アリスは満身の力で壁をなぐりつけた。破壊された破片が部屋中に飛び散った。

 アリスは決心をした。このままここでドリーを育てることはできない。ゲン爺にドリーを殺すことを伝えにいかなければいけない。アリスは保育器を防護カプセルに入れて背負うと、斬霊剣を持って外に出た。目指すはルナシティ、ダスクのところだ。

 ルナシティは地下に無数のトンネルが走っている。それらをすべてアーマードポリスが見張ることはできない。その盲点をついてアリスはまんまとルナシティに侵入した。そして最上部まで駆け上がると大声で叫んだ。

「ダスク。出てこい。アリスがやってきたぞ」

 響き渡った声に反応してアーマードポリスが湧き出るように現れた。その集団の中に一気に飛び込む。捕獲条件は生死を問わずだろう。だが仲間内に飛び込めば銃は使えない。飛びかかって来るアーマードポリスを片っ端から斬霊剣で切り裂いていった。その動きはまるでバレエでも踊るかのようだ。アリスが腕を振り、回転する度にアーマードポリスが倒れていく。

 ダスクを見つけた。

 アリスは跳躍すると高みから見物していたダスクの目の前に着地した。ダスクが銃を構えるより早くアリスの斬霊剣は彼の首筋に当てられていた。

「なぜルナシティを襲ったの?」

 ダスクはアリスを恐れる様子もなく言った。

「この街の王になれるからさ。ここはもうアテナスの管轄じゃないからな」

「なら、王の座はあきらめて人々を解放しなさい」

「それは無理だな。後ろを見てみろ」

 見なくてもわかった。アーマードポリスが勢揃いしている。

「俺を人質にしようなんて思うなよ。俺が死ねば別の奴が送り込まれて来るだけだし、後ろに控えてる連中は俺がいようといまいとお前を撃つ」

 アリスは咄嗟に跳躍した。ダスクがアーマードポリスの銃弾で蜂の巣になるのが見えた。着地と同時に路地に逃げ込んだ。その先は拡張工事のトンネルだ。トンネルがどこに繋がっているのかわからない。それでも構わずアリスはトンネルを進み、そして地下深く掘られた穴に飛び込んだ。

 落下途中でワイヤーを掴んでスピードを殺す。上からブラスターを装備したアーマードポリスが降りて来るのが見えた。どうすればいい。彼らはどこまでも追って来るだろう。

 その時頭の中にドリーのメッセージが届いた。

「あと10メートル下がったら横穴に入れ」

 横穴に飛び込む。続いて届くメッセージに従って迷路のような坑道を駆け抜ける。建設途中の街の地下にたどり着いた時、追ってはいなくなっていた。

 そして代わりにアリスを待っていたのは銃を構えた見たこともない連中だった。

「あなた達誰?」

「待っていました。ついにこの時が来ましたね。夢郎様」

 先頭の頬に傷痕がある男が進み出て言った。

「俺たちはレプ。アテナスに対抗する者の集まりだ。さあ、夢郎様を渡してもらおうか」

「そうはいかないわ」

「いくさ」

 頬に傷痕がある男が指を鳴らすと立体映像が現れた。強制労働をさせられているゲン爺だった。そのすぐ脇で人相の悪い男がゲン爺をにやつきながら見ていた。

「ああいう現場では不慮の事故がよく起こる。そうだろ」

 抵抗は無意味だった。ゲン爺の安全を優先しなければならない。

「あと、お前は電子ウィスキーを持ているんだってな。ダスクも死んだことだ。祝杯といこうじゃないか」

「もうこれしか残ってないわ」

「おいおい、よりによって『ボウモア・ダスク』か。何かの洒落か。まあいい。グラスに一杯用意しろ」

 アリスが言う通りにすると、頬に傷痕のある男はその中に何かを注ぎ入れた。

「飲め」

 アリスは飲み干した。直後に視界が夕暮れのように赤く染まり歪んだ。入れられたのはウィルスだ。次々にセンサーが異常を示す。そして唐突に意識が途切れた。

「へっ。電源がきれりゃあただの人形だ。穴にでも放り込んでおけ」

 アリスは工事現場の暗くて深い穴に投げ込まれた。男達が去っていき静寂が訪れると影の中から何かが歩み出てきた。それは冷たい目で横たわったまま動かないアリスをじっと見つめていた。

          続く

『ボウモア・ダスク』は先週紹介した『ボウモア・ドーン』の姉妹品です。「ドーン」が夜明けを意味するのに対し、「ダスク」は「夕暮れ」を意味しています。シェリー樽とバーボン樽で12年熟成した原酒をバッディングし、さらにボルドーの赤ワインのフレンチオーク樽で2年後熟という贅沢な熟成をしています。そのせいでとても華やかで長い余韻を持つ味わいになっていますが、なかなか手に入りにくい品になっているみたいです。

さて今回のお話は月の街、ルナシティーにアリスが到着してから1年後の設定です。1年間夢郎を探すがどういうことか見つかりません。なぜなら夢郎はちょっとした作戦を遂行していたのですね。意識のない人間というのはどういった状態なのでしょう。夢を見ているのか、それとも何もないのか。ただ、本来人間となるための魂というかエネルギーというか、そいうったものが入らないと、寝ているのとは違って、やっぱり人間ではない状態なのではないかと思うのです。それを外から見て判断はできないので、勝手なことは言えないのですけれど。それでは、アンドロイドに意識があって、電源を落とした状態というのはどうなのでしょう。やっぱり、魂というかエネルギーというか、そういったものの有無で決まるもののような気がします。こちらも見た目で判断はできないですね。

ところで今回は一話完結にせず続き物にしました。月編でのお話は結末に向けて少し続きを意識した話にしようと思っています。続きが気になりましたらぜひ次回も読んでください。


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