壊れたバルブ

 アリスは扉を潜りカウンターに近づく男をもう一度見直した。

 男が怪訝な表情を作る。

「俺の顔に何かついているか?」

「別に何も。いらっしゃい。何を召し上がる?」

「バーボン」

「偽物? 本物?」

 男は少しだけ悩んで偽物を注文した。なにしろ本物は値が張る。

 アリスは男が陣取ったカウンターの上にロックグラスになみなみと満たされたバーボンをバーチャル表示させた。バーチャルといえども脳内にパルスを送り込むので、味だってするし同じように酔うことができる。ただ、それが本物ではない事をみんな知っている。

 男はチャイニーズ・ダウンヒルレーサーで一番人気と噂のホルムスだ。天を衝くような長身は動物の遺伝子を組み込んで作り上げてある。だが、遺伝子操作をする連中が行き着くような、もはや人間とは言えない肉体改造を施すようなことはしないが、カラフルな体毛で胸にトレードマークを描く洒落心くらいは持っていた。

 チャイニーズ・ダウンヒルは、その昔中国人がルール無用の山下りレースを始めたことから名付けられたが、今では上空一万メートルからエアコンプレッサーだけでエアライダーという一人乗りの機体を操作して、地上ぎりぎりのゴールリングを潜る危険この上ないレースに様変わりしていた。

 レーサーたちは時速五百キロを超える猛スピードで、地上間近の数メートルしかないリングに飛び込む。途中のぶつかり合いなど日常茶飯事で、中には相手のエアライダーを平気で破壊するレーサーもいる。

 だから死人が出ることも珍しくないのだが、そんな中ホルムスはその鋭い直観と、繊細なマシン操作技術でいくつもの栄冠を手にしていた。

 そんな栄光の頂点にいるような男が、なぜ何もない海底しか見えないような場末のカプセル酒場にやってくるのかと言えば、それには訳があった。ホルムスの目当てはもちろんアリスである。

 ホルムスは何杯かのバーボンを空けると唐突に聞いた。

「なあ、お前。見えるってのは本当なのか?」

「見えるって何が。あたしはただのバーテン。酒を出すのが仕事。そして旧型のアンドロイド。それだけ」

「そんな事は聞いちゃあいない。どうなんだよ。本当なのか?」

 男がアリスの右目を覗き込む。

 アリスの右目には特殊な機能が搭載されていた。その右目は重力場を十のマイナス二十三乗の精度で読み取ることができた。わずかな重力場の歪みも見極めることができる。

 つまり、エネルギーの流れが見える。高濃度リチウムバッテリーから電気がアクチュエーターに流れる様子を、エネルギー場が重力場に及ぼす変化から読み取ることもできる。

 つまり、相手がどのように動くかが予想できた。

 事実、アリスは地下コロシアムのロボバトルで戦っていた時、この能力で相手の攻撃を予測し防御することで勝利をつかんでいた。

 この能力がバーテンに関係あるのかといえばない。

 だが、どこで聞いてきたのか、アリスの店には時々ホルムスのような客が来た。エネルギーの流れが見えるのであれば、目に見えない何かも見えるはずだと。

 実際そんなことがあるのかといえば、それをどう表現するかは別にして、アリスには目に見えない何かを「場」として見ることができた。

 それを人々が何と呼んでいるかアリスは知っていた。

 霊。

「どうなんだよ」

 アリスはその問いに答えず、ややはすっぽい目つきでホルムスを見た。

「もしかして、お連れさんをお待ちかしら」

 途端、ホルムスの顔色が変わった。

「連れなんかいない。どういう事だ」

「人同士って目に見えない何かでつながっている。それを絆と呼んだり、縁と呼んだりする」

 アリスは窓の外を指差した。指し示す先にあるのは海底だ。

「あっちから、あなたにつながっているエネルギーの流れがある。それがどこから来ているのかはわからない。ただ」

 ホルムスは唾を飲み込んだ。

「ただ?」

「あまり、いい流れじゃない」

「くそっ!」

 ホルムスはカウンターを両手で勢いよく叩くと、経緯を話し始めた。

 ある時を境にホルムスは優勝を逃すようになった。最後の最後でゴールリングを潜るために減速をかけると、その横を悠然と追い抜いていくエアライダーがいるのだ。そのエアライダーには誰も乗っておらず、到底曲がり切れるはずのないスピードで弧を描きながらリングをくぐり抜け、優勝をかっさらっていった。

 レーサーが乗らないエアライダーはこのところ増えつつあった。コントラで意識をエアライダーにつないで遠隔操作することが正式に認められたからだ。それもこれも、ホルムスたちが繰り広げるレースのように、無謀な賭けやぶつかり合いで命を落とすレーサーが多すぎるからであった。

 第二世代のコントラが出回るようになってから、操作性は格段に向上し、命の危険がないコントラレーサーたちが頭角を現し始めたのだ。

 そんなコントラレーサーの一人にたちの悪い奴がいた。いつもゴール直前のぎりぎりのラインでちょっかいをかけて来るのだ。おかげでホルムス自身何度か危ない目にあっていた。

 危険な行為自体はホルムズもやっていたから文句も言えなかったが、顔も見えない相手と命の掛け合いをする気はなかった。だから、一度ツラを拝んでやろうと自宅を突き止めて怒鳴り込もうとしたことがあった。

 相手の住所は墓地だった。

「そりゃあ確かに、競り合いの末に相手が事故っちまったこともあるさ。だが、仕方ないだろう。そういうレースなんだ」

 そしてその日を境に、ホルムスの日常で不可解なことが起こり始めた。

 常に誰かの視線を感じるようになった。振り向くとそこには誰もいなかったり、あるいは、確かに目の端で捉えていたはずの人影がすっと消ることもあった。

 それ自体は何とも思わなかったが、エアライダーに何か起こりはしないかと不安になった。レーサーとエアライダーは一心同体だ。何かあれば即事故に繋がる。

「霊なんてモノ、俺は信じちゃいない。だがよ。何かが起きているのは事実だ。人間の霊媒師は信用できねえが、機械なら嘘はつかないだろ」

 つけない事はないと思いはしたが、口には出さない。

「うちは占い館じゃない。飲まないのなら帰って」

 アリスが背を向けると、カウンターに重たい音がした。

「こいつを手に入れるのは大変だった。なにせ品薄だ」

 カウンターにジャック・ダニエルの瓶が置かれていた。

 アリスは鼻を鳴らすと瓶を手にとった。

 右目にエネルギーを集中しじっとホルムスを見詰める。すると徐々にホルムスの周りで形成されている重力場が、もやのように見えてくきた。それはホルムス自身がそのありあまる生体エネルギーで形作るものである。

 問題はホルムスの生体エネルギーにつながる細い線。小さなエネルギーの流れが脈動を繰り返している。

 ことりと音がした。窓の外からである。ここは光もわずかしか届かない水面下二百メートルの海底。窓にぶつかり音を立てるようなものはない。

 だが、そこにはあり得ないものがあった。

 クロームメッキに仕上げられ美しく輝くエアライダーだ。

 エアライダーには人が跨っている。だがその姿は見ようと心がければするほど、ぼんやりとにじみとらえどころがなかった。その誰かとホルムズは繋がっていた。

 その何者かはしばらく窓の外を波に揺られて漂っていたが、ぺたりと窓に張り付いた。そして窓を押すような仕草をしたかと思うと、硬化プラスチックの窓がゼリーのように揺らめき、まるで水面から出るように一人の男が店内に顔を差し入れて来た。

 男は苦もなく窓をくぐり抜け、全身ずぶ濡れの状態で店内に降り立つと、ひととおり店内を見渡してからホルムスに視線を止めた。

「あなた誰?」

 アリスが問いかけようとしたが声が出なかった。それどころか指一本動かすことさえできなかった。いつしか男から流れ出るエネルギーがアリスおも取り巻いていた。

 男はゆっくりとした動作で、一歩もあるくことなくホルムスのところまでやってきた。そしてカウンターに持っていた物を置いた。

 ホルムスの顔がみるみる強張った。

 それはエアライダーのコンプレッサーバルブであった。

「マクレーン」

 ホルムスがかすれ声で囁いた。

「あれは事故だったんだ」

「いや。事故じゃない。あのレースでお前は俺のバルブを閉めたんだ」

「そんな事はしていない。時速五百キロで飛んでいるんだ。そんな事できるわけがない」

「いや、お前ならできたはずだ」

 マクレーンがホルムスの肩を掴んだ。

 ホルムスの額から汗が流れた。

「お前は俺に勝てないと悟り、俺を事故に見せかけて殺したんだ」

「そんな事は…」

 ホルムスの口からそれ以上言葉が出る事はなかった。

「積もる話もある。ゆっくり語らおうじゃないか」

 マクレーンは空いた手を力任せいにホルムスの口に突っ込んだ。

 ホルムスの口は信じられないほど大きく広がり、マクレーンの腕を肘の上まで飲み込んでいた。そしてそのマクレーンの腕は、一体どういうふうに差し込まれているのか、ホルムスの口から後頭部に向かって伸ばされていた。

 マクレーンはしばらく口の奥で腕を左右に動かしていたが、やがて何かを見つけたのか、僅かに微笑むと一気に腕を引き抜いた。引き抜かれた手には眩く輝くなにかが握られていた。

 握られたそれが何なのかアリスにはわからなかったが、エネルギーの流れが大きく変わった事だけはわかった。ホルムスの生体エネルギーがどんどんと萎んでいった。

 マクレーンはその何かを握りしめたまま、滑るように入って来た窓まで移動すると、再び揺れる窓をすり抜けて海へと漂いでた。そしてエアライダーに跨り暗い海の彼方へと消えていった。

 カウンターにはホルムスとエアバルブが残されていた。

 ホルムスの目は焦点を失い、その大きな身体に充満していた生体エネルギーは微塵も感じられなくなっていた。決して死ぬほどではない。だが、もう栄冠を掴むことはないだろう。そこにいるのは、過去を語ることすらできぬうらぶれた中年の男でしかない。これからの長い人生を、ホルムスは死んだように生きていくのだ。いわば、カウンターの残された壊れたバルブと同じである。

 ホルムスはバルブを手に取ると、いつまでも見つめ続けていた。

 その後、ホルムスは予定していたレースも全て欠場となり、引退したという噂も流れたが、やがてその名前が噂に登る事もなくなった。どこかの誰かが墓地で佇むホルムスを見たといっていたのが最後の噂になった。

 もちろんアリスのバーにやって来る事もなかった。だが、アリスは知っている。ホルムスはマクレーンと一緒に、この広い海のどこかでレースについて語り明かしているはずだ。レーサーの魂とはそういうものだから。


 

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