犬もあるけばアンドロイドに当たる

 アリスはグラスを磨く手を止めて、自らが経営する深海バーの入り口を少しの驚きと共に見つめた。そして、アンドロイドでも驚くことがあるのだなと思い一人笑った。客のいない店内には、窓から見える深海と同じくらい静かな時間が流れていた。店の隅に置かれたクラッシックな振り子時計が一つ鳴り時を告げた。

 入り口に一匹の犬がいた。大きな黒い犬でグレートデーンだろう。

 ここまでのルートは転送であるから、こんな深海でも犬が来ることは可能であるが、政府アシストコンピューターに検知されないよう非常に入り組んだ転送ルートを設定してある。確率から言えばほぼ無いに等しい。それに普通犬は酒を飲まない。そんな単純な事実にさえ頓着していないのか、犬はゆっくりした動作で店内に入ってきた。そうしてアリスのいるカウンターの近くまで来ると床にべたっと寝そべった。

「お前、どこから来た?」

 アリスは訪ねた。答えがあろうはずもない。

 犬は「ふんっ」と息を吐き出してアリスを見上げた。

 客でもない相手に関わる理由もないが、忙しいわけでもない。アリスは小皿にクラッカーを乗せると犬の鼻先に置いてやった。

 すると犬は少し匂いを嗅いだあと、はっきりと低い声でこう言った。

「ウィスキーをくれ。バーボンがいい」

 アリスはしばらく犬を見下ろしていた。技術的には可能であるが、こういう事をする人間はいない。なぜなら、人間の言葉をしゃべる犬というのは可愛げがない。

「金はあるのか?」

 犬は眉を上げてアリスを見た。そんな事を聞かれるとは心外だとでも言わんばかりだ。

 見たところ犬は本物のようだ。だがバイオチップの埋め込みや遺伝子操作でいくらでも改造はできるのであろうが、果たして犬はウィスキーを飲みたいと思う生き物なのだろうか。少し興味が湧いたので皿にウィスキーを注いで鼻先に置いてみた。

 すると犬はうまそうにウィスキーを舐め始めた。そしてすぐに、

「なんだ、合成か」

とぼやいた。

 それでもひとあたりウィスキーを舐め終わり、皿の隅まできれいに舐めあげると、ひと心地ついたらしく犬はアリスに顔を向けた。

「なあ、あんた」

「犬にあんた呼ばわりされるとは思わなかったが、何だ」

「あんた、その右目に特殊な機能を持っているって話じゃねえか」

「柄の悪い犬だな」

「血統だ何だと言ったところで、犬なんてみんなこの程度だよ」

 笑っているつもりなのか、犬ははふはふと息を吐いた。

「その右目でちょっと俺を見てくれよ」

「見てどうする」

「いいから見てみろって」

 アリスの右目には重力場センサーが仕込んである。その重力場センサーで光学的には見えないモノが見える。重力に影響を与えるエネルギー場であり人はそれを霊と呼ぶ。

 だからアリスの許には様々な人物がやってきて、その心に抱えた口に出すのも憚られるような厄介事を相談する。それは大抵その人物の心の闇に関係があるし、誰かに直接的な不幸をもたらすような内容だ。

 いつしかアリスはそのような厄介事の相談先として認識されてしまった。アリスとしては政府に睨まれるような事はしたくないので、できれば厄介事を持ち込んでほしくないのだが、厄介事の方から勝手にやって来る。時代が進んでも厄介事フィルターという物は存在しない。

 アリスは右目にリソースを集中した。次第に犬の持つエネルギーが見え始める。

 するとそれは犬とは違った場だということが分かった。強いて言えば人間のそれに近い。むしろそのものと言ってもよい。

「お前、人間だったのか? どう改造したらそうなるんだ」

「改造はしてねえ。こいつは元々俺が住んでいたアパートの大家が飼っていた犬だ。ある日目覚めたら俺が大家の犬になっていたって訳だ。笑えるだろ? まあ、煩い政府のハエ共がまとわりつかないんで気楽なんだが、犬ってのはいろいろ厄介でな。できれば元にもどりてえ。そこであんたの噂を聞いてやってきたって事さ」

 カフカの小説のような話だが、アリスの右目はそれが嘘だと見抜いていた。この犬の持つエネルギー場には誰かの思念がまとわり付いている。調べたらすぐに老婆が強盗に遭ってひどい怪我をしたニュースが見つかった。一緒に住んでいた犬も行方不明になっている。犬は黒いグレートデーンだ。おそらく犯人はこの男で目の前の犬は被害者の飼い犬だろう。理屈は分からないが、被害者の思念が男を犬に封じ込めたのかもしれない。

「色々厄介だというのは想像できるが、どうしてそうなったのかも分からないのに、元に戻せるとは思えないな。それに元が飼い犬だったのなら、その犬の魂はどこへ行ったんだ?」

「さあな。俺が乗っかったんで潰れちまったんじゃねえか」

 再び犬はおかしそうにはふはふと息を吐いた。

 どうやらこの犬の姿になった者は動物への愛情にも欠けるようだ。動物を平気で踏みつけるような輩は同情に値しない。アリスとしてはそのようなろくでなしとはできる限り関わり合いを持ちたくない。厄介事が起きればアリス自身が政府から目をつけられてしまう。アリスはこの海底でひっそりと貝のように暮らしていきたいのだ。だからできるだけ早くお引取り願うことにした。

「ウィスキーの代金はまけておいてやる。とっとと失せな」

 すると犬はゆっくりとした動作で立ち上がり、出口とは反対の方向へあるき始めた。そうして店の真ん中で片足を持ち上げると盛大に尿を放った。

「俺を追い返したら店の前で来る客全員に小便を引っ掛けてやる。それに店先に大便もしてやるぞ」

 冗談じゃない。そんなことされたら店に客が来なくなってしまう。よっぽど殴ってやろうかと思ったが、悪いのはこの犬ではなく犬に乗っかっている何者かだ。アリスはため息をついた。

「いいことを思いついた。このバーは非認可だよな」

 犬が何を言いたいのかすぐに分かった。ここの道筋を公開するつもりなのだ。

 犬はその場にしゃがむと勝ち誇ったようにアリスを見て笑った。

 その笑いを見てアリスの肚は決まった。

 アリスは飾り棚の後に手を回すと、バーには不似合いな物を取り出した。それは一振りの剣であった。

 その剣は黒い鞘に銀色の装飾が施されている。鞘から抜けばその身もまた黒く文様だけが白鋼色に磨かれている。異様なことにその側面に細かい文字で般若心経が刻まれていた。特殊な能力を持つ者だけが持つ剣である。

 アリスは鞘から剣を抜き放つと犬に向けた。

 その剣の持つ力のせいなのか、無慈悲な輝きのせいか、店内の気温がぐっと下がったように感じた。犬は身震いして後退った。

「おい、ちょっと待て。待ってくれ。気を悪くしたなら謝る」

 アリスは犬が出口に向かえないよう出口と犬の間に立つと、まっすぐ切っ先を犬に向けた。

 犬は逃げ道を探して店内を逃げ惑ったが、所詮アリスから逃れることはできず壁際に追い詰められていった。

「おい、止めろ。動物虐待は人でなしがすることだぞ。止めてくれ。頼む」

「お前が言うな。一気に済ませてやる。覚悟しろ」

 アリスは犬が逃げる間も与えずに剣を突き出した。刃渡り二尺はあろうと思われる剣が深々と犬の脇から胸に突き刺さった。

 犬が悲痛な悲鳴を上げる。

 そこから更にアリスは剣を押し込んだ。鍔まで刀身が埋まる。いくら体の大きなグレートデーンであろうと、鍔まで差し込めば切っ先が反対側から突き出してもようさそうなものであるが、不思議なことに切っ先は体を突き抜けて出ることはなかった。

 犬は胸に剣を刺されたままその場に崩れ落ちた。白目を剥き開いた口からは長い舌がだらりとたれていた。そうして手足は痙攣するように震えが続いていた。

「我の前にその姿を現し、我に従え。臨兵闘者皆陣烈在前」

 アリスは片手を剣に添えたままもう片方の手で印を結んだ。

「破っ!」

 ゆっくりと剣を抜くと不思議なことが起こった。

 その刀身にまとわり付くように淡い真珠色の光が犬の体から漏れ出てきた。剣が完全に抜けると拳大の光の珠が切っ先に吸い付くように付いていた。一体どこに差し込まれていたのか、犬の脇腹には傷はなく一滴の血も流れてはいなかった。

 アリスは慎重に剣を持ち上げると、何かを探すように左右を眺めた。そして古い振り子時計に目を付けると、光の珠を載せた剣を水平に維持したまま振り子時計の前までくると、切っ先を振り子時計にあてがった。

 するとふわふわと切っ先に載っていた光の珠は、染み込むようにして振り子時計の中に吸い込まれていった。

 直後に振り子時計は狂ったように針を回し、何度も時の鐘をならしたが、やがて力尽きたように静かになった。そして再びいつものように時を刻み始めた。

「お前はそこで静かに余生を送るといい。そこなら煩いハエがまとわり付くことは決してないだろう」

「ワンワンワンワン」

 振り返ると犬はいつの間にかその身を起こし、正しく憑き物が落ちた表情をしていた。その目はとても柔らかく優しい犬だと分かった。

「どうやら潰されてはいなかったようだな。よかったな。でももうお前の主人はこの世にいない。どこへでも行くがいい」

 犬は来た時と同じゆっくりとした動作で歩き始めた。だが出口には向かわずにカウンターの一番端まで行くと、そこに居を決めたらしくぺたりと腹ばいになってしまった。

「おい、誰がそこにいていいと言った。お前は家に帰るんだ」

 犬は一瞬だけアリスを見たが「ぶしゅっ」とひとつくしゃみをしてから目を閉じてしまった。

 厄介事フィルターができないものかとアリスは思った。

終わり



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?