ドングリ

「やっぱりさ、どんくさい栗だからドングリなのかな?」
と、ゴーグルを外しながら上野が話しかけてきた。
「さあなぁ」としか答えられない。
 そもそも栗にどんくさいも何もないだろうと思ったが、そこに触れるほど興味がある話題ではない。
 昔だったら雑木林を適当に歩いていればドングリは落ちていたらしいが、今となっては希少種となってしまっている。
 俺たちの世代だと、ドングリという存在は知っていても実物を目にするのは博物館ぐらいだ。
 幸いにして仮想空間で平成や昭和の時代の風景を体験できているから知っているようなものだ。
 上野は「縄文や弥生時代の人は食べてたらしいけど、平成の頃には食べてた人はいないらしいよ」と言うが、俺はドングリに対して思い入れも何もなく、なんで上野が掘り下げていこうとしているのかわからず、違う話題を出そうとしていた。
 それを察したのか「なあ、次の休みドングリ探しに行かね?」と上野の誘いの声がかかる。
 上野と俺は高校の頃からのつきあいだ。腐れ縁も続けば続くもので、就職した会社も同じだ。
 転属先が違うから滅多なことがない限り会うことはないが、それでも研修とかで一緒になることがある。
 今がその研修だ。
 研修の会場はゴーグルに投影されている仮想空間で、そこに参加して受講せよと社命が下っている。
 やっている内容と言えば電話の時代とさして変わらず、集まって同時間に退屈な話を聞くのを求められ、早送りや要約などは存在しない。仮想空間で遠くにいる相手と話をしたり打ち合わせをしたりという技術を使っているのに、やっていることと言えば、さも集まって話をしている体裁にするという茶番劇につきあわされるのだからたまったもんではない。
 とはいえ、電話の時代と大きく違うのは、プレゼンテーションのスライドや詳細な資料も、すべて仮想空間で完結できる。そうすると、持ち歩いたり渡したりというのがほとんど無い。トイレに籠もっていても仕事をしようと思えばできるようになる。
 反面、時差を乗り越えてやりとりができるせいで、八時間ばかり時間がずれているイギリスの担当者の時間に合わせて、こちらが時差を吸収して真夜中や早朝に話をしたりと言うこともあったりする。
 見方を変えると、時差と言葉を乗り越えれば、仕事はどうにかなる。と、会社は考え、定期的に語学研修を開催し、仮想空間があるのにもかかわらず、都心から数時間ぐらい移動した山奥の研修所に監禁されるかのように学習を強いられるのだった。
 繰り返すが、教師は仮想空間にいる。
 わざわざここに来る意味があるのかわからないが、それでも研修をしないと怒られるので、渋々ここに来ているのだった。
 そして隣にいるのは上野だ。高校の頃から変わったところと言えば、長髪気味だったのをさっぱりとさせ、昔みたいにヘッドホンをつけて髪の毛を巻き込んだりしない。月に1回は散髪に行くらしく、髪が伸びたのを見たことがない。それに、やや下ぶくれ気味だった顔立ちも、本人が意識をしたのか、それとも二十代中頃という体がそうさせたのか、あごの線がすっきりしている。
 ややさっぱりとした顔立ちだが、妙にいたずらっ子みたいな目をするのだけは昔と変わらず、遊びの誘いの時にそういう目をしているのだった。
「なあ、ドングリ探しに行こうって」
と、いたずらっ子みたいな目をする。
「ドングリ探してどうすんのさ」
と、当てのない享楽につきあう理由を聞いてみる。
「見て楽しむ!」
 上野は、きっぱりとそう言い張る。
 見て楽しむだけなら、ゴーグル越しでも変わらないだろうと思ったのだが、こういう駄々をこねている状態になっている上野には何を言っても無駄で、とりあえずつきあってやるしかない。
 けれども、どこに行けばドングリが落ちているのか皆目見当もつかない。
 簡単にググってみても、出てくるのは昔のページばっかりで、検索の条件を直近一年で絞り込んでみるととたんに検索件数がゼロとなる。
 希少種ならば論文とか調べればいいだろうと、論文検索をしてみると、いわゆるドングリをつける木々が枯渇していった現象の科学的な説明しか出てこない、それも、二十年ぐらい前から論文数が減っていき、普通の検索と同じように直近一年での結果を見たところで新しい話題は出てはいなかった。
 そもそも、森どころか林すら過去の話となり、木々が立ち並ぶ風景というのは人為的に作られた人工林でしか出会うことがない。
 木の実なんて言うのも童話の世界の話で、食料用に作られる作物はLEDの光の下で発芽から出荷の時までAIに見守られて育っている。
 農業が盛んな北海道ですら、大規模農園は姿を消し、小規模の耕作地に分かれた農場で需要に応じた作付けをしている。らしい。
 上野は「作物が計画通りにできて喜ぶのはそれで商ってる人だけだ」と力説している。
 級友同士の無駄話でのやりとりなので要領がないが、要約すると、今年はうまくできたできなかったなんかの喜びや悲哀が消えている、令和の時代だって冷夏で米が足りないとかあったんだから、それぐらい天気に振り回されている方が楽しい。とのことだった。
 それが楽しいかどうかは置いておいて、食材のたぐいはどこで買ってもだいたい同じ値段で、加工されているかどうかで少し変動するぐらいだ。昔の文章だと、どれをとっても同じようなものとして金太郎飴のようなものという比喩があったらしいが、いまの野菜の状況はまさしくそれに近いかもしれない。
 まあ、上野はそこまで考えていないで、なんかつやつやするドングリを自分の手で触ってみたい、ぐらいなのだろう。
 関東の外れで開発されてないところがあるかどうかわからないが、無理っぽいものをどうにかしようというミッションで考えてみると、少し面白くなってきた気がする。
 部屋に戻り、どうやったらドングリが落ちている場所があるのかを考えてみる。
 すでにあるものを探すのであればググればすぐに終わるが、ないものを探すのはまだグーグルにはできない。
 ドングリをつける木々は、日本ではほぼ絶滅していると言われていて、環境省が発行しているレッドデータブックに掲載されたときは、世の中的には大きな騒ぎになったとアーカイブにあった。国として環境に対する力の入れ方をさらに底上げしようと、環境庁が昇格になってすぐのこともあり、政治の世界でも大騒ぎになったという。
 その結果が、日本中が管理農法の育成場みたいな状況になったのだから、何を目指そうとしていたのか今となってはわかりはしない。
 一つだけ良いことがあり、日本中の山や平原に生えている植物のデータが地図と相性の良いGISで使いやすい形式になっていて、手元のデバイスで簡単に取り扱えるようになっていることだった。
 と、いうことは、ドングリをつける木々に近い環境に生える木々をマッチングさせて、そこで出てきたエリアの中に、データの密度が薄いところがあれば、まだ計測されていない〝すきま〟があると言うことで、運がよければドングリがあるかもしれない。
 そんな目算が立ったところで、次の日の研修は気になりつつも、それをやるためのデータの処理を考え、命令を一気に書いていった。
 途中で上野とチャットをしながらだが、あいつは自分なりに探してみると言う。何かと思えば、民芸品の歴史を探っているとのことだ。
 ドングリで作った民芸品がいまだに土産物として売っているところならば、いまでもどこかにドングリが落ちているのだろう、というロジックらしい。その〝どこか〟も含めて調べないとドングリにたどり着けないだろうと思ったのだが、それはそれとしてやるのだという。
 俺は分析というか、集計というか、簡単なスクリプトを組んで、とにかく必要な情報はかき集めては組み合わせていた。そうやってデータを集約したり膨らませたりしていくと、人間がほしい情報がだんだんと見えてくるようになる。
 その人間というのはドングリがほしいと駄々をこねる二十代半ばの男性だ。
 テクノロジーや処理の進化を無駄に浪費しているような気分になる。それでも、このデータ処理自体がなにやら面白そうなのもあり、黙々と手を動かしているのだった。
 退屈な仕事は10分ですら永遠のような気がする。けれども、自分で考えて作業を進めようとしたものに対して手を進めていくのには、1時間ですらあっという間で、気づいたら夜長の季節なのにもかかわらず朝日が部屋に差し込んでいた。
 そのまま研修を受け、そして、夜となる。
 一昔前だとこういうときの強い味方としてエナジードリンクがあったが、今では健康に関する法律やらで禁止になった。そうすると、眠気覚ましの飲み物は、は歴史の波を巡り巡ってお茶とコーヒーに戻ってくるのだった。
 がぶがぶと飲んで眠気を押さえるというのは、なにやら昭和の雰囲気がするが、昭和という時代がどんなもんであったのかなんてのは実際の感覚としては持ってはいない。
 上野はというと、少しだけ寝るのが遅くなったぐらいで、ほぼいつも通りにのサイクルで受講しているのだった。
 夜になり、お互いの結果の突き合わせをする。
 結果はほぼ同じようなものだった。
 今いる高原から行けるところでドングリがありそうなところ、それでなおかつ人が住んでいた形跡があるところとなると候補地が一気に数カ所に絞られる。エリアの絞り込みは上野が出したのと俺が出したのとで、ここまでの荒さはだいたい一緒だった。
 データで探し出した〝ドングリが生えてそうだけど、計測から抜け落ちている空き地〟を条件に重ね合わせてみると、一カ所、生えていそうなところが出てきた。
 地図によると道はあり、車を出せばすぐに行けるが、廃村で何もないところだ。
 こういうときに移動と食事は上野が出すことに決まっている。
 だが、廃村に行くんじゃ食べ物やがないし、コンビニだって絶望的だというのがわかる。
 少し行く気が無くなり、上野に「食べもんなさそうだからやめとく?」と一応聞いてみたが、そこは察していたようで「この近所に平成からやってる老舗のそば屋があるみたいだから、そこ行ってからでどうだ!」と、押し返される。
 そば屋だって朝早くからはやってないだろうと思ったのだが、徹夜明けのヘドロのような眠さに耐えきれず、それで条件をのみ翌朝を待つのだった。
 一日ぶりだが、それでも久しぶりにしっかりと寝ると、深海に潜ったような気がする。それで目が覚めると、いつまでたっても体が目覚めず、全身が寝ぼけたような気持ちになっていた。
 張り切っている上野に促されるまま、車に乗せられるが、頭が動いてない。
「コーヒーあるぞ、飲むか?」と缶コーヒーを差し出してくれる。
 上野は俺を後部座席に押し込むと運転席に乗り込み、エンジンをかけたりしながら「そば屋が閉まっててさ、コンビニでサンドイッチ買ってきたからそれで許してくれ」と言うとコンビニの袋を渡してきて、勢いよく出発した。
 ようやく頭が動き始めたぐらいで「おい、話が違うじゃねぇか、無理矢理連行って、誘拐だろ」とごねてみたが、すでに車は幹線道路を勢いよく飛ばしている。どんどんと人の気配がなくなり、道の両サイドには飲食店どころか家すらもまばらになってきた。
 こういった高原もそうだが、街から離れたところへの水道やガスなんかの供給が止まるようになってから数年もたたないうちに僻地の家のほとんどは空き家となり、それでも頑張って住んでいる年寄りが天寿を全うしていくと、廃村や廃屋の集落ができるようになった。そして、なにかしらの街や駅なんかの人が集まるところの周辺に家が寄り固まるようになり、人口の分布が半世紀で大きく変わった。らしい。
 そんな感じで高校生の頃に習ったが、それを車窓越しに見る空き家や空き家だった瓦礫なんかを見ていて急に思い出した。
 人がいないのはまだいいのだが、自動販売機すらないと急に不安になる。
 上野が渡してくれた缶コーヒーとサンドイッチを静かに後部座席で食べながら「食いもんや飲みもんは他になんかあるんか?」と聞いてみると、ペットボトルのお茶が三本入った袋を指さした。
「どうにかなんだろ?」と言うが、不安しか残らない。
 気づいたらカーナビは電波オフモードになり、ネットにつながらない状態でGPSと保存されている地図のみで道案内をしている。
 このどんぐり探しで必要となるデータは研修所を出る前にカーナビに送ってあるからいいが、道路データが正しいかどうかが怪しい。
 目的地までは一時間半ぐらいでつくとカーナビのAIボイスが案内する。道の舗装がだんだんとがたついてきていて、人がいなくなると道すらぼろぼろになるのかと感心していた。
 舗装にヒビが入りそこに雑草が生え、それでアスファルトの深い灰色の間に緑色の線が入っているみたいになっている。
 車が走れなくなるような壊れ方はしてないが、上野ですら徐行で進むような具合でだ。
 少し進むだけでも、ガタンと大きく揺れる。それと同時に俺たちも車上で下から突き上げられるような衝撃を受ける。
 上野は素知らぬ顔をしているが、そのたびに俺は不安が積み重なり、帰れなくなったらどうなるのだろう、と、漠然と考えていた。
 廃村にたどり着く前に舗装すらなくなり、砂利道が続いているのだった。
 そうするとかえって都合がいいらしく、上野はぐんぐんと進んでいく。
 元は県道だった車道は、アスファルトや電柱なんかの人間の生活圏だった証はほとんど無くなり、残ったのは背の高い雑草と、手入れされずのずっと伸び続けている街路樹、それに朽ちて倒れている街路樹なんかの、もともとあった人の生活の残骸だけだった。
 この景色を目にしていると、美しいとか、壮大とかそういった思いが沸いてくることはなく、このさきで動物が死んでいたらどうしようとか、なんか、気持ち悪いものが出てきたりしそう、という根拠のない漠然とした怖さがあるのだった。
 カーナビの地図上では、目的地にしている廃村にたどり着いていると出ている。
 けれども目の前に広がっているのはツタの仲間なのか、つるを伸ばす植物が構造物を覆い、見える限り葉の緑と枯れ葉の黄土色とがまばらに広がっている風景だった。
 村と言うぐらいだから、少しは人家らしきものはあるのかと思ったが、それもなく、見渡す限り雑草の茂みと背の低い木々だけだ。
 ドングリができるような木は少なくとも人の背丈よりも高いとある。
 見渡す限りの雑草と低木じゃ、探すまでもなくないのだろう。
 上野はそれでも、どこかにドングリがないかと少しでも背の高そうな木を見つけると近づいていき、その根元を見る。
 こんもりとした木々の陰になっているところは、苔なんかが生えていて、近づいていくとトカゲらしき動物が逃げていくのか葉を揺らす音がする。
 上野はなにやらがさごそと派手な音をさせながら、ゆっくりと地団駄を踏んでいるかのような動きをしていた。
 ここまで来るには来たが、根気よく探すほどの気力はなく、移動中ずっと座りっぱなしで、お尻のあたりから下半身が凝り固まったような感じになっているのを伸ばしたりして上野の様子を見ていた。
 派手な音をさせるのをやめたかと思ったら、足を地面すれすれの高さで、体の前に半円を書くような動きをし、地面に何かないのかを丹念に調べているようだった。
 つま先で地面をさらっている。
 十分ぐらいたったのだろうか、上野は何事もなかったかのような表情で戻ってきてあっさりと「帰って、ラーメン屋行かね?」と言ってきた。
 帰りの車中では会話らしい会話もなく、上野も何かをいうわけでもなく黙って運転をしている。
 ようやく、道の舗装がちゃんとしているところまで来ると、スマホにいくらかの通知がまとめて入ってきて、携帯の電波が通じるようになったのがわかった。
 国道沿いにいくらかあるラーメン屋の中で、目についたところに入る。
 上野は出てきたラーメンをすすりながら「絶滅しちまったんだなあ」なんてのんきなことを言っている。
「そりゃ、簡単に見つかったら絶滅危惧種なんて指定は受けないからな」と返すと、「人が管理してない植物に触ってみたかったんだけど、無理な話かあ」と言っている。
 大昔に朱鷺(トキ)が絶滅したときと同じように、環境庁は絶滅しかけた品種を外国の近い品種を野に放つことでお茶を濁してきた。
 その結果、ドングリどころか雑草までもが元々いた品種に近いもので入れ替わり、それでも戻せない生き物は遺伝子組み換えで近似種を作り出すなんてこともしていた。
 すべての植物が絶滅し、今生えているのは雑草一つとっても人の手で作り出された品種なのだった。

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