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蝉が鳴くころに 第六話|小説




〈あらすじ〉母が亡くなった。私は母の結婚相手のみっさんと葬儀を終えてふたり暮らしをはじめる。それから30歳までみっさんとその暮らしを続けている。そんなある日、彼氏のタカくんに、大事な話があると誘われて海岸沿いをドライブする。そのときにプロポーズされてから、タカくんの提案でみっさんに会うことになった。そしてみっさんとタカくんと三人でビールを飲んでいると、タカくんが「三人で家族になりませんか?」と私たちへ問いかけた。私たちは悩むことなくその提案を受け入れて、一緒に住むことが決まった。



それから数ヶ月後に入籍を済ませて、タカくんは我家へやってきた。一緒に暮らし始めると、最初はお互いのペースを掴めなかった生活も、慣れてくるとそれぞれが淡々と毎日を送るようになる。柔らかく穏やかな日々を過ごす私たちは、夕飯を一緒に囲む日に、ビールを飲みながら、一日あったことを話す。

「オレ、今日庭仕事してたらな、老眼鏡を無くしたと思ったら額にあってん。」

みっさんは、自分のことを「おっちょこちょいやなあ。最近物忘れが多なって。」と言ったあと、ビールを飲んだ。その話をしている側で、また「老眼鏡がないと言い出したので、「頭にありまっせ。」と、冗談ぽく伝えると、みっさんは「ごめんごめん。」と、言いながら笑った。

それから数か月がさらさらと流れて、今年で68歳になるみっさんは少し曲がった背中で庭仕事をしていた。すると、リビングでテレビを観ている私に、

「お母ちゃん、お母ちゃん、これ綺麗やろ。」

と、ボケたことを言うから、

「誰がお母ちゃんやねん!」

と、ツッコむと、不思議そうな顔したみっさんは、私に向かってこう言った。

「どちらさまでしょうか?」

私はまだボケんのかいとおもったけれど、みっさんの真面目で不思議そうな顔色を見て、ただ事ではないと思い、困惑するみっさんを言いくるめて、すぐさま病院へと向かった。その日は検査だけで一日を費やした。病院のベンチへ座っている時に、みっさんが私の名前を呼んだ。

「お母ちゃん。」

私はその一言に目を丸くしていると、

「お腹すいた。」

と、みっさんは俯きながら呟いた。私たちは病院の食堂に向かい、カレーを頼んで食べた。スプーンでカレーを掬いながら、鼻の奥がジーンと熱を持つから、私は鼻を押さえて、上を向いた。ポロポロと目尻からこめかみへ涙がこぼれ落ちる。それを見たみっさんは、

「どうしたん?これ、そんなに辛いん?」

と、いつものみっさんのように素っ頓狂なことを言うから私は余計に泣いた。そしてみっさんは、スプーンへ乗ったカレーを口へ運んだ。

そのあと、いろんな検査が終わり帰宅する頃には、いつものみっさんに戻っていた。そしていつものように、互いに今日あったことを話したが、どこかふわふわと浮遊するような感覚は消えなかった。そして数日後、検査結果を聞きに病院へ行くと、みっさんは認知症だと診断された。そのときに病気のことや、これからのことを医師と話しをして帰宅したら、タカくんがスーツのままで待っていた。するとみっさんは、

「オレは認知症か。」

と、呟いてビールを飲みだした。それからみっさんの横に座る私とタカくんの目を見てこう言った。

「オレは施設に入ることに決めたから。」

戸惑う私とタカくんを見ながら、みっさんはいつもの笑顔で笑う。それからのみっさんは私とタカくんへ相談もなしに施設へ申し込みをして、そこに空きが出たからと、その二ヶ月後に施設へと入所した。私は悲しさよりも、みっさんの行動に呆気に取られていた。20年を一緒に過ごしてきたのに、あまりに突然の別れに絶句した。私は口には出さなかったが、みっさんを看取るつもりでいた。咄嗟に薄暗い喪失感が心を抉る。

「あほ。ほんまにあほや。」

誰に言うでもなくひとり言を呟くと、静かな廊下には、冬の残骸が転がっていた。足先が冷えるので、今日は熱燗にしようとおもう。おでんも仕込んであるし、今日はタカくんは帰りが遅くなるらしいから、ひとりで楽しもうとまだ片付けていない炬燵に入り熱々のおでんと熱燗を味わった。すると、熱々のおでんが食道を通り過ぎるころに、胸にうわーっと哀しみが押し寄せてきた。私は鼻を押さえて上を向いたら、熱い涙がポロポロと目尻を伝いサーっとこめかみに流れ落ちる。哀しみ色をした涙が後から溢れて止まらなかった。私はみっさんが居なくなった事も辛いけれど、それよりも病気で私たちのことを忘れていく事が怖かった。ティッシュで涙を追いやって、熱燗をキュッと煽る。そして、その日から消えることのない哀しみは、コトコトと足音を鳴らして、私の心へやってきて居座った。




第七話へつづく






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