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幸せでも不幸でもない息を吐く|掌編小説


春の雨の日はアスファルトの上へ冬の残骸が転がっていて、それを爪先で転がすと、刹那に空気が冷えて冬の匂いが拡散しながら滲む。それをゆっくり吸い込むだけの余裕はわたしの中に存在していた。

ひと目でわかる判定結果。

と、書かれた箱の説明文を簡単に読んで、妊娠検査薬を二箱購入したあと、帰路に就く最中に私は、深呼吸とも溜息とも判断できない呼吸を何度も繰り返していた。下手に溜息とわかると母に「溜息つくと、幸せが逃げていくよ。」と、小さな頃から刷り込まれているからだろう、私は深呼吸と溜息の中間の幸せでも不幸でもない息を吐くようになっていた。「はあ。」と吐かれた透明なそれは水溜りへ溶けて沈んだように見えるのは、私の心情がそうさせているのだろう。

私と夫は、今年で結婚して12年が過ぎ、互いに40歳になった。結婚してからの決め事は沢山あったけれど、まず第一に子どもを作ろうと決めた。しかし、何年経過しても私が妊娠することはなく、不妊治療にも挑んだけれど、結果は一緒だった。

「これだけは授かりものだから仕方ないよね。」

と、優しく告げる夫と、いつしか子どもの話はしなくなり、その代わりにふたりで生きていこうと心を決めてここ数年、夫婦が寄り添い生活していた。そしてふたりだけで、旅行に出掛けたり、仕事終わりに外食を楽しんだり、マイペースにひと針ひと針編むように暮らしていて、それが私の幸せの一部となっている。それなのに、先月から生理が来なくなった。私は6年前に購入した妊娠検査薬を引っ張り出して、それを試しに使用したら、妊娠していた。何重にも折られた説明書を隅から隅まで読んでも結果は一緒なのに、印字された機械的な文章を、もう一度細かく確認する。

なにかの間違いかもしれない。だって、6年前の検査薬だもの。

と、自分に言い聞かせて、近くのドラッグストアで妊娠検査薬を購入して、家へ到着するなり、それを使用した。青い線が二本浮き上がってきて、結果は先程と一緒だった。私はそのまま近くの産婦人科へと向かった。

「はあ。」

と、また幸せでも不幸でもない息を吐いて、待合のやけにふわふわとしたソファーへ腰をかけた。周りを見渡すと、もうすぐで臨月と思われる女性が二人と、私のようにお腹の大きくない女性が三人、柔らかなソファーへ身を委ねて雑誌を読んだり、テレビから流れる映像を観ている。そのテレビから流れるワイドショーの音の裏では、微かにハナミズキのオルゴール曲が流れていた。私はハナミズキを心の中で口遊ながら、部屋という四角い箱の中に、命の塊がピクピクと動いている姿を想像する。すると、「岡村美月さん。」と名前を呼ばれたので、診察室へ入室した。すると、先生は笑顔で、「こちらへどうぞ。」と椅子へ案内してくれた。

「おめでとうございます。約妊娠二ヶ月です。」

と、突然、先生から告げられた。それは私への福音とはならなかった。私は先生の顔を見ながら、

「…そうですか、ありがとうございます。」

と、ロボットのような返事をして、それから後の会話は記憶からぷつりと途切れてしまって、最後の先生の、

「それでは来月に母子手帳を持って来院してください。」

と、いう言葉にハッとして、「ありがとうございます。」と言いながら席を立ち、待合室へと移動した。

どうしよう、今更、親なる自信はないよ。

私ははっきりそう思うと、待合室の雑音から微かに流れるオルゴール曲はハナミズキからチェリーへと変化していた。そして、iPhoneを見ると夫からラインがあった。

"今日の晩ご飯は外で食べない?それから今週休みが取れたから、鎌倉のカレー屋さんへ行こうよ。"

私はその指で打たれた文字を眺めて人差し指でなぞると、画面は少しだけ生暖かくてリアルだった。その言葉が熱を持って私を不安にさせるのは、もう私の身体はひとりではなく、新しい命が宿っていることで。

親になる自信はない。

そう思うと、私の瞳から熱を持った涙が零れ落ちた。自分でも予期していなくて、その涙を止められなかった。すると隣のソファーへ腰をかけていた、お腹の大きな女性が「大丈夫ですか?」と声を掛けてくださった。私はその優しさに拍車がかかってしまい、「すみません。」と言いながらオイオイ泣いた。彼女は私の背中を摩りながら、それ以上は何も話さなかった。すると、私は先程会ったばかりの人に、自分の胸の内を洗いざらい話した。それを聞いてくれた彼女は、ゆっくりと柔らかい声色で話しはじめた。

「大丈夫、大丈夫よ。私なんか20歳ではじめて出産してから、20年後にまたこの子を妊娠したのよ。不安で不安で、もう出産できないって思ってたけど、案外、自分の中で腹を括ったら大丈夫だったのよ。だから、あなたも泣いてないで、自分と話してみなさい。」

その彼女は私に言ってくれた。私は泣いた後に、ふと思う。結婚したばかりの頃に夫とふたりの子どもの話を楽しくしていたことを。

名付けは男の子は私が、女の子は夫がつける、沐浴はふたりですること、髪の毛は私が切って、爪は夫が切る、歩けるようになったら、三人で手を繋いで歩こう、と言ったあの頃のふたりは、実に楽しそうに生命の誕生を楽しみにしていたことを。

私はピタリと泣き止んで、彼女に礼を言うと、

「妊娠中はホルモンのバランスが崩れやすいから、落ち込みやすいときもあるけど、そんな時はさっきみたいに、もうひとりの自分と会話するといいよ。なんでも、なるようになるよ。」

そう言ったあと、「神崎美香さん。」と声がかかり、彼女は診察室へと向かった。その背中を見ながら、「ありがとうございます。」と私は頭を下げた。

そして、私はiPhoneを取り出して夫へ返事を送信した。そして、幸せとも不幸でもない息を吐いて、お腹を優しく撫でて自分と対話をはじめた。







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