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バナナと林檎と黄桃に、あとは魔法|掌編小説



倦怠感が纏わり付く体を乗せた自転車は止まった。

道路工事中
この先、舗装補修工事につき、迂回路をお廻りください。


道路舗装工事が行われることを忘れていた私はUターンして来た道を戻る。そして思考回路は緩やかに彼のことを促した。仕事に忙殺される日々と、束縛の激しい彼との関係に、疲れ果てていた私は知らぬ間に心の余裕は消え去り、淡々と日々を熟すことに慣れて、傀儡のように意思を持っていなかった。ただ糸に吊されて誰かに動かされている、自分であって自分ではない、私。そして最後には、物事全てを楽しめず、笑顔のない人になっていた。そんな思考を転がしていたら、芳ばしい香りが鼻を擽り、自転車を前進させるたびにその濃度は深くなった。ほとんど店仕舞いした暗く寂しい通りを、一処だけ、ぼやけた光が道路を照らしていた。

グゥーーーーー。

くぐもった音が自分のお腹から鳴り響いて、そういえば昼食を取らなかったことを思い出し、自転車の速度を緩めながら光が漏れる場所で止まるとそこはパン屋だった。私は香りに誘われ店のドアを開けると、小さな鈴が「チリンチリン」と鳴った。明るい店内には三段の棚に、パンが並んでいて、あんぱん、カレーパン、チョココロネなどが二、三個ずつきれいに並んでいる。そしてその前で1人トレーとトングを持ったまま固まっていた私に、後ろから声が聞こえた。

「クリームパンと焼きそばパンがおすすめですよー。」

後ろを振り返ると、黒いベレー帽を被った小柄な女性が微笑んでいた。すると私が返事をする前に、

「クリームパンは、これでもかってくらいにクリームが溢れているし、焼きそばパンは、濃ゆいソースが絡んだ麺と上に乗った紅生姜が相性バッチリで。あ、でも全部美味しいですよ!」

と、彼女は合いの手なんて出来ないくらい、矢継ぎ早に伝えてくれた。私は彼女のパンへの想いが爆発してしまった言葉の羅列と、喜色満面な表情にこちらまで嬉しくなり、声を出して笑ってしまう。彼女は笑う私にキョトンとしていた。

「すいません、笑っちゃいました。パンが大好きなんですね。パンへの愛情が凄く凄く伝わってきました。」

私が笑いながらそう言うと、彼女は首を掻きながら舌をペロッと出した後、一緒に笑った。パンが並んでいる方へ身体を戻して、残り一つのクリームパンと焼きそばパンをトレーへ乗せ、レジのカウンターへ置いた。レジの周辺では、温度を纏ったパンの焼ける香りをより強く感じた。

「あ、今日お急ぎですか?食パンがあと15分くらいで、できますよ。焼きたての食パンをご一緒にいかがですか?」

そう言われたら焼きたての食パンが欲しくなる。
その旨を告げると、レジ横に張ってあるメニューに飲み物がたくさん書いてある中で一つに目が止まる。

「すいません、ミックスジュースをいただけますか?」

彼女は手でオッケーマークを作る。

「できますよー。私が作るんですけどね。」

と戯けながらニヤリと呟いた。そして私は勧められるまま、横のイートインスペースへ座り、食パンとミックスジュースを待った。店内に流れるオルゴールのBGMを搔き消す音が、レジの後ろから聞こえる。

バリバリバリ、ジャーーーー

彼女はミックスジュースをテーブルまで持ってきてくれた。グラスに入った優しい淡黄色のそれをストローで一口飲んだ。私は「美味しい!」と独り言ちて、続け様に飲んだ。そしてそれはある歌を呼び起こした。

こいつをググっとのみほせば、きょうはいいことあるかもね

子供の頃、それを聴くと体の底から力が湧いてくるような歌が大好きだった。そしてミックスジュースはあの歌を伴って、大人になった私の、疲れ切った身体と心に染み渡り癒す。

ズズズーー

私はストローから伝わる音で、飲み干してしまったことに気付くと、レジにいる彼女にミックスジュースの材料と作り方を聞いた。

「えーっと、バナナと林檎と黄桃に、牛乳とオレンジジュースを少し入れて、ミキサーでジャーです。それからポイントが一つあるんです。果物は切って冷凍しておくこと!そうすると氷がいらないから、濃厚なミックスジュースが作れるんですよ。それに最後に、私は、魔法をかけます。」

やはり一気に説明する彼女に、合いの手を入れることはできない。私は「魔法?」と聞く。

「バカみたいですけど、本当に効くんです、魔法。"美味しくなぁれ、幸せになぁれ。"って何回も心の中で呪文を唱えるんです。そうすると魔法にかかって美味しくなるんです。ジュース以外でも何かを作る時に。これがすごく不思議。魔法をかけるとかけないとでは全然違うんです。ま、忙しい時は出来ないんですけどねぇ。」

彼女は、両手を胸の前に広げて円を描きながら説明した。そのジェスチャーは、ベレー帽を被った魔女のようで可笑しかった。実際、こんなに陽気で愛嬌のある魔女だったら大歓迎だ。それから食パンを待っている間に、この店のことや仕事のことを話した。その時間は短かったけれど、なんだか幼馴染と話しているみたいで、詰まった心に風が吹き抜けるような気持ちになる。すると店の奥から「出来たよー」、と声がかかり彼女はそちらに向かう。紙袋を持った彼女が戻ってきたので、レジに向かう。

「見てください、このパン!美味しそうでしょう?熱いから封はしませんね。」

彼女から受け取ったパンは熱く、紙袋の中から湯気と香りが鼻をくすぐる。

グゥーーーー

本日2度目のくぐもった音に、彼女と私は目を丸くして笑った。「チリンチリン」と音がなり、お客さんが入って来たので、彼女が挨拶をする。慌てて袋を持って外に出ようしたら、

「お話本当に楽しかったです。またぜひ来てください。待ってますね。」

と八重歯が覗く笑顔で話した。またすぐ来ますと手を振って店を出て、パンを自転車のカゴにそっと入れると家路を急いだ。

自転車に乗りながら風を感じていると、身体と心へ、ヘドロのように纏わり付いた倦怠感は消えていた。そして目の前には夜空に満月が浮かんでいた。自転車で風を切りながら、あの有名な映画を思い出す。前のカゴには、可愛い宇宙人の代わりにパンを乗せて、空を飛ぶ。満月を背にし、ふわりと浮いた自転車に、恐怖を感じるが、やがて爽快さが勝ってただ漕ぐことにだけ集中する。そのテーマソングは、あの壮大な音楽ではなく、ミックスジュースの歌だけど。

こいつをググっとのみほせば、きょうはいいことあるかもね

そう思うと笑えてきた。楽しいことを考えれるようになった自分が懐かしい。楽観的な自分が戻って来てただ嬉しく思う。そして自分の気持ちに気付いていないフリをしていた感情が湧いて出てきた。

彼とは別れよう。何度話し合っても解決しないなら、終わりにすれば良い。自分の心を殺してまで一緒にいる必要はない。もう彼への気持ちはなくなっていた。それでも一緒にいたのは、情と言う名の依存だ。そう思っていると、強いつむじ風が吹いて、傀儡だった私の糸を切って去った。そして私はこの瞬間を幸せに感じた。彼女の魔法が効いてきたのか、それともミックスジュースの歌が元気をくれたのか、はたまた心地よい夜風がそうさせるのか、分からない。たぶん、全部が同時にそうさせたのだろう。さっきの強いつむじ風も、もしかしたら魔女仕業かもしれない。苦しい時になんでもない日常に訪れた、人を明るくさせる魔女にお礼を言って、私は自転車を前進させた。






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