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透き通る月|短編小説

 死のうと思った。今どき心中だなんて笑ってしまいそうだけれど、私はこの人と──伊月さんと一緒に死ねたのなら、どれだけ幸せだろうかと思った。
「一緒に死のうよ。」
と私が真剣な熱量を発しながら言うと伊月さんは
「いいよ。」
とまるで近くのコンビニへ一緒に出かけてもいいよくらいの感覚で軽い返事をするから、私の発言が軽薄な冗談になった。私は、ベッドへ寝転んだまま伊月さんの横顔をみた。それは見るとも観るとも視るとも違う流れるようにぼんやりとみた。伊月さんは私の言葉など無かったかのように何も感じない透明な横顔をしていた。その背景は緩い紫煙が漂い退廃としていて、白壁に付着している茶色いシミが目に浸みる。私は裸のまま起き上がるとブラジャーをしてパンツを履いて、そして伊月さんの左横へ座り、もう一度言った。
「一緒に死のうよ。」
すると伊月さんは吸っていた煙草の赤い火種を灰皿へギュッと押しつけてから、こちらへ顔を向けると、口角から漏れるように白煙が垂れ下がっていた。フーッと煙を吐き切ればいいのに、それすらも面倒そうな態度は私をいらいらとさせた。
「──ねえ?」
私から声が出るのと同時に伊月さんは
「だからいいよ。一緒に死のうよ。」
と言うと先程まで肺へ、へばりついていたであろう煙がふわふわと口から漏れ出た。私は伊月さんの肩へ頭を乗せてもたれかかると、その白い腕に手を絡ませた。けれど、伊月さんの体は温くて鼓動も血流も感じ取ることができなかった。すると伊月さんは私だけに聞こえるくらいの小さな声で
「死んだら楽になれるよね。」
と呟いて私から顔を逸らし、また表情の読めない透明な横顔をみせた。

 伊月さんはひとつ年上の先輩だった。髪の毛をきれいな白に近い金髪に染め上げることによって、余計に白肌が輝くように際立つ伊月さんは近寄り難い独特の雰囲気をした人だったけれど、私はそこが好きだった。私のように茶色のロングヘアで、薄いピンク色のスカートやパンプスを履いたどこにでも転がっている量産型の女には振り向いてはくれないだろうと思っていたけれど、それは私の勝手な思い込みで、伊月さんは男女関係なく誰にでも優しかった。一度、飲み会で斜め前に座った際に好きな音楽の話をしたことがある。私以外の人はHi-STANDARDやHAWAIIAN6など、自分の好きなミュージシャンについて焦燥感に当てられたように熱く語っていた。その時に伊月さんをこっそりとみると、静かにビールを飲んでいた。その細く白い指は美しく、持ったグラスまで輝いてみえる。ふいに私の番が回ってきたので、私は
「THEE MICHELLE GUN ELEPHANTが好きです。」
と緊張を滲ませて呟いた。すると、今まで静かに黙っていた伊月さんが
「──あ、僕も。」
と言って手を挙げた。それから伊月さんは
「何の曲が好き?」
と訊くので私は
「ジプシー・サンデーが一番好きです。」
と真っ直ぐに視線を合わすことができなくて俯き加減で言うと伊月さんはまた
「──あ、僕もそれが一番好き。」
と何気なく言うので私は顔を上げて伊月さんをみた。その表情は嬉しいような恥ずかしいような、そんな気分が境目なく混ざり合っているようだった。すると周りにいた人たちは私たちのことを
「デキてんじゃねえの?」
と冷やかしたけれど、伊月さんは笑いながら
「何もねえから。」
と言ってそれを否定した。ほんとうに私たちの間には何にも無かったけれど、その否定の言葉は私の胸の奥をチクッと刺した。それからみんなの体にお酒がたっぷりと注入されると、座る席も自然と流動していった。私は梅酒ロックを飲んでいたら、隣に人が座る気配がしたので、ふとグラスを唇から離して横をみると伊月さんだった。
「お酒強いね。」
と伊月さんが言った後に間髪入れずに
「名前は何て言うの?」
と尋ねるので
「市川葉月です。」
と頭をペコッと下げて自己紹介をした。そうしたら
「あ、俺は田村伊月。よろしく。」
と言った後に名前の漢字を尋ねてきたので、テーブルに葉月と書いたら伊月さんは
「名前に同じ月が入ってるね、 moonがふたつ。」
そう言ってから私の目をみた。その何もかもを射抜くような視線は私の目を鼻を唇を顎を見てそこで視線が止まった。伊月さんは、ふふ、と微笑んでから
「その顎にある黒子いいね、似合ってる。」
と言った後にビールを一口飲んだ。私も手元にある梅酒を飲んでから
「ありがとうございます。田村先輩の右目の下にある小さな黒子の方が素敵です。」
と言うと伊月さんは
「ありがとう。でも田村先輩ってなんか偉そうだからイヤだな。あれだよ、下の名前で呼んで。」
と言うので私は緊張しながらも
「伊月さん。」
と呟いた。肯く伊月さんの顔はクールな印象とは違う、とても温かい匂いがした。そしてその笑顔は、何でもないような日常に溶けてなくなりそうな刹那と永遠の狭間へポトリと身を堕としたような感覚にする。そうしたら私たちは、何となく視線と視線が絡み合い解けなくなり、無言で数秒見つめ合ったあとに、どちらからもとなく笑った。そしてどちらからともなく好きな音楽の話や小説の話をしたら思いの外に話が合い、その日は終電まで一緒に飲みながら話をした。居酒屋で他のメンバーと別れて伊月さんと私は駅まで静かな住宅街を一緒に歩いた。夜の暗闇が伊月さんの髪の毛と白肌をぼんやりと浸食すると、私の頬や腕や足の皮膚感覚は昼間よりも研ぎ澄まされた。流れる風、アスファルトの匂い、街灯の光──ふと見上げると白くて大きな満月が宙に浮いていた。その細やかな光の粒子は丸く柔らかく私たちの表面と夜更を照らしている。
「ねえ、もし月がふたつあったらどうなると思う?」
伊月さんは薄らと翳のある顔をこちらへ向けて訊いた。私はその質問に対して
「考えたこともなかったです。待ってください。真剣に考えますから。」
と伊月さんに告げてアルコールで充満する体で真面目に考えた。
「たぶんですよ、たぶん──月同士の引力が拮抗して、ふたつの月は距離を保ちながら地球を周回すると思います。」
と私は伊月さんの横顔に呟いた。夜の光は優しく伊月さんの表情を隠した。伊月さんはポツリと雫が落ちるように静寂を孕んだ声で話し出した。
「実はね、月がふたつあると地球は死んでしまうんだ。潮汐のシステムが狂ったり、自然災害が増えたりして、最後にはふたつの月同士が引かれ合い衝突して月も地球も死んでしまうんだよ。」
そう言った後に伊月さんから、フーッと大きく息を吸って吐く音が聞こえた。私は横を歩く伊月さんの横顔をみた。淡い月光に照らされて目と鼻と唇はみえるのに、頬や耳や後頭部は暗闇に溶けてみえなかった。このまま伊月さんが暗闇に溶けて無くなってしまいそうな気がしたので、何か声に出してその気持ちを振り払いたかった私は
「そうなんですね。月がひとつで良かったです。」
と言うと伊月さんは
「でもみてみたい気もするんだよね。ふたつの月に照らされた地球を。」
そう言った後に私の手を握った。私は驚いてくらくらしたけれど、伊月さんの冷たい指先からはトクトクと淋しさや孤独が伝わってきて、それを消去するために私はキュッと力を入れて握り返した。夜に濡れた街灯、横を走る車のライト、マンションの灯り、そして月光に照らされた重なる手と手──。私はなぞるように伊月さんの手を腕を肩を首を顎を唇を鼻を目をみた。艶かしく光るその目はこちらを向いていて
「ねえ、まだ一緒にいたいな。」
と唇が動いた。私は舌の付け根から唾液がじゅわっと溢れるのを感じそれを嚥下しながら、大きく肯き
「私もです。」
と湿った心で言った。駅に到着しても電車へ乗ってもエレベーターへ乗っても伊月さんの部屋に着いてもその手を離さなかった。その間は冷たい淋しさも孤独も感じることがなく、それはまるでふたつの月が一定の距離を保ちながら歩いているように感じた。すると、伊月さんは私から手をゆっくりと離してキスをした。優しいキスだった。そしてパンプスを脱いでベッドへ誘われるとそこへ横になった時に私はシーツをギュッと握り
「あの、伊月さん、私はキスもセックスもしたことがなくて、初めてなんです。」
と言うと
「そう、わかった。怖くないからね。」
と伊月さんは私に覆いかぶさるようにギュッと抱きしめた。そして伊月さんは私の腰に手を回してキスをした。窓からは月光が私たちの輪郭を照らして不明瞭な部分は溶けてひとつになりそうだった。服を脱がされて裸になると、伊月さんの柔らかい唇と舌が私の唇、首筋、乳房を這う。胸に腹に背中に伊月さんの艶かしい体温や熱い吐息を感じながら、伊月さんはゆっくりと私の中に入ってきたので
「──痛い。」
と私が言うと耳元で
「大丈夫?」
と訊いた。私は痛みを我慢しながら
「大丈夫です。」
と言って重なる伊月さんをみた。それは見るとも観るとも視るとも違う流れるようにぼんやりとみた。重なるほどに滲んでは消えるドクドクと跳ねる心音が私の肌から漏れ出た瞬間に子宮が、ぶわっと炎のような熱を感じると、それは波打つように形を変えながら小さくなり、燃えた跡は赤く爛れているような気がした。情念──、そんな言葉が頭の中に浮かぶと、伊月さんは
「うっ。」
と短い息を吐いて射精した。ふたつの吐息は重なり合い混ざるようにすぐそこで脈打ち、私たちの間に言葉は必要なかった。それから私の横に寝転んだ伊月さんの横顔は透明な月光に照らされてただ美しかった。私はその一瞬の光景を忘れないようにとジッと眺めるとその視線に気が付いたのか、伊月さんは私の頭を優しく撫でて
「時が止まって欲しいな。葉月は今とてもうつくしいよ。」
と呟いた。その顔の半分は月光に、あと残りの半分は翳に満ちていた。私は先程まで体を重ねていたのに裸であるということが野蛮に感じて、掛け布団で体を隠した。そして私は
「伊月さん、私と付き合ってください。」
と言うと伊月さんは
「うん、そうしよう。僕たちはきっとお似合いだね。」
と柔らかく微笑んだ。

 それから私たちは一心同体のようにいつも共にいた。一緒にいると淋しさと孤独でからっぽの心と心はゆっくりとまあるい小さな幸せで満ちていくように感じた。同じ空気を吸い、同じものを排出して、同じものを食べ、同じものをみて、同じものを聴いて、同じものを感じている私たちは、いつからかこの体が邪魔しているような気がしてきた。伊月さんはよく
「僕たちの身体は面倒だね。魂は互いを補うようにいつもひとつなのに、身体は僕が凸で葉月が凹で、セックスしたときしかひとつの形をなさないなんて、とても面倒だよ。」
と自分の胴体や手足をマジマジと確かめながら言った。いつしか私の中で核を成す伊月さんの思想や発言は淡い呪いとなり、見た目もどこにでも転がっている量産型の女から羽化したように、茶色いロングヘアをバッサリとボブにして、白に近い金髪に染め、ひらひらした薄いピンク色のスカートやパンプスは履かなくなり、その代わりに細身の黒いジーンズに伊月さんとお揃いのドクターマーチンを履くようになった。その姿こそがほんとうの自分のような気がした。幾つかの季節を通り過ぎる頃には、伊月さんが自分なのか、自分が伊月さんなのか判らなくなっていたけれど、鏡を覗き込むとそこには伊月さんと違う顔──、私の顔が映っている。それに反射する私の目も鼻も唇も頬も顎の黒子も首も実体としてそこに在るだけで、とても邪魔なものに思えた。これらがなくなれば、伊月さんとひとつになれる──、その情念は日に日に濃ゆくなった。そして、このまま肉体が徐々に朽ちていき機能しなくなるのを待つよりも、一層のこと死んでしまえば魂は脆弱な衣を脱ぎ捨てるように肉体から解き放たれて、伊月さんと混ざるようにひとつになれるのかもしれないと、思うようになった。だから私は伊月さんと死にたいと思った。私がそう言うと伊月さんは
「僕は宗教的なことに対して信仰心は持ち得てはいないけれど、葉月の言いたいことはすごくわかるよ。僕もこの肉体が朽ちていくのを待つつもりも執着心も元からないからね。」
そう言って煙草に火をつけて煙を吐きながら遠くをみた。その視線が着陸した先にはベールを被り手を軽く外へ広げたマリア像の置物があった。それを優しい眼差しで見つめている伊月さんの右の口角がキュッと上がる。すると、伊月さんはその視線を私まで滑らせるように運んで
「いいよ、葉月が言うように一緒に死のう。」
と言った。しかしその発言からは私と同等の熱量を感じることが出来ずに、真意を探るために目の芯に力を入れて伊月さんをみた。こんなに近くにいるのに遠くに感じる伊月さんの輪郭をはっきりと焼き付ける。伊月さんは煙草を吸い終わり、赤い火種を灰皿へ押しつけて消すと、私から熱を奪うように視線をずらしてまたマリア像を眺めた。その横顔は何も感じない透明な膜で覆われ、真意なんてまるで元からないような風情をしていて、掴んでも掴んでもてのひらから零れ落ちる水のようだと思った。ふたりの間を行き交う言葉はなかったけれど、それはそれで成立していた。緩い薄暮に揺れる部屋は異空間のように私たちを浸食していき、ベランダの向こう側では下弦の月がこちらをみていた。いつからだろうか、もう判らない、気付いた時には、ふたりの体も心も寸分のズレを許すことができなくなっていた。少しのズレはいずれ大きな亀裂になることを感覚的に知っている。すると無性に西瓜が食べたくなり、冷蔵庫を開けて取り出すと、種を丁寧に選り分けて冷たいそれを食べていたら伊月さんが
「葉月は最近西瓜ばかり食べているね。僕にも一口ちょうだい。」
と私から西瓜を奪って果肉を齧った。その手からは赤い果汁が垂れてフローリングへポトリと落ちた。その薄い赤色をした果汁をティッシュで拭いてから棚の上にあるマリア像を見ると、淡い月の光を浴びながら優しく微笑んでいた。

 それから数週間後、授業を終えて伊月さんに連絡したけれど繋がらなかった。多分寝ているのだろうと思い、私は学食で食事を取り午後の授業を終えてまた伊月さんに連絡をしたけれど、その日は繋がることはなかった。次の日にも何度が連絡をしていたら、数コール後に
「もしもし。」
と知らない女性の声がした。私は咄嗟に電話をかけ間違えたのか確認するために携帯画面をみると、それはやはり伊月さんの携帯だった。一瞬で声帯が収縮するのを感じながら
「──あの、伊月さんはいらっしゃいますか?」
と声を振り絞ると女性は
「はい、おりますが今は電話には出られません。あなたが葉月さん?私は伊月の姉の美咲です。今からお時間はありますか?」
と仰ったので私は戸惑いに満ちた心で
「はい。」
と言うと美咲さんは待ち合わせの場所を告げて電話を切った。私は駅前の喫茶店へ向かった。その足は自然と早くなり、やってくるであろう破滅的な未来の気配に窒息しそうになった。夕暮れの狭間で呼吸の仕方を忘れた私は、一度喫茶店の前で立ち止まり肺を膨らませては縮めるを意識的に繰り返して小さく、よしっ、と呟いてからドアを開けた。カランコロンと大きな鈴の音が私の存在を証明すると、店の奥で女性がこちらを向いた。伊月さんの携帯へ連絡するとジプシー・サンデーが流れて奥の席の女性が電話を取った。
「はい、美咲です。奥に座ってます。」
と手を挙げたので私は収縮する声帯からようやく
「はい。」
とだけ声が出して電話を切った。美咲さんは
「どうぞ座ってください。」
と視線を椅子へ向けた。私は椅子を引いて浅く腰掛けると店員さんがやって来たので、アイスコーヒーを注文した。美咲さんはゆっくりとストローでアイスコーヒーを飲んでから私に視線を移して口火を切った。
「いきなりですが伊月は先日、自殺未遂をしました。命に別状はなかったのですが今は病院へ入院しています。私は伊月から葉月さんへ伝言を頼まれました。──葉月、ごめん。と伝えて欲しいと頼まれました。私にはふたりの間に何があったのかはわかりませんが、伊月はこれから大学を退学して実家へ帰ることになります。だから、もう伊月とは会うことはできません。そのことを伝えに来ました。」
美咲さんはそう言い終わると空咳をひとつしてからアイスコーヒーを飲んだ。私の前にアイスコーヒーがやってきたのでストローを袋から出した。突きつけられた伊月さんとの別れに戸惑うことさえできずに私は
「そうですか。」
としか言えなかったけれど、それは肯定した言葉ではなくただ単に空間を繋ぐために口から零れ落ちた言葉だった。伊月さんの髪も額も眉も目も黒子も鼻も頬も唇も顎も首も肩も手も胴体も足も声も思想も、すぐに近くにあるはずなのに、それはもう幼気な幻のように空を孕んでいるように感じた。──葉月、ごめん、私の中で伊月さんの声が大きな潮騒のようにリフレインした。なぜ私に謝るのか、なぜひとりで死のうとしたのか、なぜ死ねなかったのか、解らなかった。溶けて混ざるようにひとつの個体として一緒にいたのに、それは私の勘違いだったのだろうか。すると美咲さんが
「葉月さん、大丈夫?」
と声を掛けてくださったけれど、私は
「はい、大丈夫です。」
としか言えなかった。混乱の中に身を投じた私は小さく肯きながら美咲さんを見て
「美咲さん、伊月さんに会うことはできますか?」
と尋ねた。すると美咲さんは頭を小さく横に振りながら
「それはできません。伊月のためだと思って身を引いてください。」
そう言ってから厚みのある茶封筒を私の前に差し出した。その中には伊月さんとの絆が現金に換算されているのだろう。すると胃から色々なものが込み上げてくるから私は手で口を塞いでトイレへ向かった。トイレの蓋を開けると、背中が波打つように揺れて嘔吐した。それが終わると後ろから美咲さんの声が聞こえて
「大丈夫?」
そう言ってから私の背中を摩るので私は
「すみません。」
と吐息のような声を出すと美咲さんは
「ごめんなさいね、許してね。」
と小刻みに震えていた。私はそっと振り向くと美咲さんは泣いていた。右手で涙を拭いながら左手で私の背中をさすり、そして
「私は伊月に生きていて欲しいんです。だから恨むなら私を恨んでください。」
そう言うと私に茶封筒を押し付けるように渡し
「葉月さん、ごめんなさい。」
と言うなりトイレを後にした。私はスッと立ち上がりその後を追うようにドアを開けると奥の席には美咲さんの姿は無かった。呆然と立ち尽くしながら席へ戻り茶封筒を鞄へ押し込んでから喫茶店を後にした。外へ出ると残暑が私に熱を手渡して通り過ぎた。私は携帯を取り出して伊月さんに電話をかけるとアナウンスが流れるだけで、──あの柔らかい声を聞くことはできない、もう二度、伊月さんに会うことは敵わない、そう思うだけでまた吐き気がしたけれど、唾を飲み込んでそれを追いやった。そして、ぷつりと糸が切れた風船のようにあてもなく喧騒が這う街を歩いていると、──葉月、ごめん、と伊月さんの声が聞こえたので周囲を隈なく見回したけれど、それは幻聴なのだろう、伊月さんの姿はどこにも無かった。私は斜陽がへばりつくアスファルトを蹴るように走った。伊月さんのアパートへ向かう途中のゴミ置き場には乱雑にものが捨ててあった。それが何となく視界に入るとそれは伊月さんの荷物だった。私は立ち止まるとその袋を手にした。その中には雑貨や置物──、あのマリア像もあったので、私はそれを手に取り優しく撫でた。そしてマリア像を持ったまま伊月さんの部屋へ行き鍵を開けて中を見ると、そこには四角い無機質な部屋があるだけだった。あの総てを包み込むような笑顔も、何を考えているのかわからない透明な横顔も、煙草の紫煙に染まる肌も、温くて鼓動も血流も感じ取ることができない身体も、西瓜を持つ大きな手も、マリア像を見る優しい眼差しも、何もかもがこの場所に詰まっているはずなのに、それは元から無かったかのように夏の澱んだ空気がそこにあるだけだった。蓄積されていく使いみちのないありふれた風景は役立つことはないのかもしれないけれど、きっと意識の深いところで私に作用するのだろうと思いが過ぎる。ふとした拍子に白壁へ付着している茶色いシミが目に浸みるけれど、その瞬間から何も感じなかった。私は単純作業を繰り返す機械のように踵を返して部屋を後にした。そして、手に持ったマリア像を鞄へ入れて、家へと急いだ。

 死は生からの解放だと、自由の象徴だと思っている。生に対して最終的には、なぜ自分が生まれてきたのか、やたらと生きてきた証、生きてきたことへの特別感に拘らなければならないのかとか、そういった実直なことを突き付けて私を困惑させていたから、終焉の甘美な香りがする死に妙な憧れに囚われていたけれど、それを隠してどこにでもいるような量産型の女の芝居をしてきた。しかし砂利の粒が思考に挟まり咀嚼を拒むような違和感は常にあった。希死念慮は幼い頃から消えることなく私のそばで生き続けて、どうせ最期はひとりで逝くのだからと思っていたけれど、伊月さんに出会ったのだ。私を理解してくれ、一心同体だと思っていた。しかし伊月さんは私を置いてひとりで死のうとした。その事実が私の心を蝕んで、時計の針が時を刻むことをやめたように伊月さんとの関係は終焉を迎えた。ふいに、月がふたつあると地球は死んでしまうんだ、という伊月さんの言葉がふわりと浮上した。それは私たちの予言であり、私たちを軽々と引き裂いた。足は自然と死に向かっていく。私はやけに現実味のないポップだらけのドラックストアで薬を買い、家へ帰るとストックしてある薬もすべて取り出して、それを飲んだ後に焼酎を飲んだ。ソファで横になると視界がぐらぐらと舞うように歪み、そのまま目を瞑ると記憶がプツリと途切れた。

 ピッピッピッという小鳥のような機械音が鼓膜をくすぐった。目を細めると白い天井が見えて、ここが地獄なのか、意外と明るい、と思うと誰かが私の名前を呼んだので
「はい。」
と言うけれどかすれた声しか出なかった。すると私の周りにいる人が
「聞こえますか?」
と問いかけるので私は
「はい。」
と言いながら右手を軽く挙げた。すると聞き慣れた声が聞こえた。
「葉月?しっかりして!葉月。」
芯がしっかりとある声音は私の脳みそに作用した様子で一気に覚醒した。母は私の手を握り泣いていた。その熱い涙が私の腕に落ちてスーッとベッドへ流れ落ちて、その瞬間に生を実感した。私は死ぬことに失敗したのだと思い、それは無念よりも違和感なく安堵の気持ちが湧いたことに驚いた。生きることの意味を見出すことができないのに、生きているという事実に安堵している。慎ましく野蛮な命の鼓動が私に生きろと叫びながら体を巡っているような感覚になった。するとニュルッと目尻から体温よりも熱い涙がこめかみに流れて落ちた。その軌跡は空気に触れて気化したように感じた。そして視界が緩む中で母を見た。細い肩を隠すように黒のカーディガンを羽織り私の右手を優しく撫でている。
「お母さん、ごめんね。」
私は喉から絞り出すように声を出すと母は
「良かった。良かった。無事で良かった。」
と涙に濡れた声で囁いた。そして私の涙をハンカチで拭うと笑顔を作り、医師にお礼を言った。ここにいる人たちは私の行いを責めることはしなかった。ただ迷いなく命を救うことだけを使命としているような、そんな気配があった。私もかすれる声
「すみません。ご迷惑をおかけしました。」
と言うと医師は
「命が助かってほんとうに良かったです。」
そう言ってくれた。私は処置室から病室へ移動した。窓の外は朝が昇り始めて薄明は空へ色をつけていた。今までは空気も景色も炎症を帯びていたけれど、今はただ、なにも考えることなくこの瞬間を愛おしいと思えた。すると母が
「この世界には、地獄のように辛いことも、天国のように幸せなことも等しくあるんだから。葉月は地獄ばかりに囚われていたかもしれないけれど、幸せを感じてもいいんだよ。葉月には、幸せになる権利があるんだからね。」
と私の心に寄り添うような柔らかい声で呟いた。じんわりと沁みいるようにその言葉の意味が私の細胞に浸透していく。私は
「ありがとう。」
と言うと母は小さく肯いて窓の外へ視線を移した。私はポツリと水滴が落ちるように考えた。いつも死を思って生きていたことも、生き辛さを感じていたことも、そして伊月さんに出会えたことも、その総てが私の人生に必要なものだった。伊月さん、そう心の中で呼ぶと心の傷口が痛む。大きく開いた傷口は塞がることを拒んでいるように思えた。ごめんね、私、生きるね、そう心の中で呟くと、どうしようもなくて、窓の外を見た。薄明に浮かぶ白く透き通る月は悲しいほど美しく、誰にも気付かれずに、ひそやかに輝いていた。








 

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