〈映画研究ユーザーズガイド〉  第9回 ストーリーテリング(1) 

第9回 ストーリー・テリングとデジタル・テクノロジー
 
 ストーリーテリングについてとりあげよう。
 その研究は欧米でただいまフルスロットルで爆進中だ。
 
 ここまで繰り返し述べてきたように、映画研究においては、技術経験論や情動研究の流行が長らく(25年強のあいだ)続いてきたのだがが、行き詰まりを感じはじめた研究者は少なくなく、映画のクリエティブな面、アートな面に光をあてなおす作業が改めて注目されている。カラーや音響、あるいはいくつかのジャンルにおける新たな技巧の取り組み、などについて、この「ユーザーズガイド」でもとりあげてきた。

 かいつまんでいっても、技術経験論については装置論の拡大版のようなものが多いし、情動研究についても人々の生体反応を大雑把に指摘するのに終始しているきらいがある。なによりも、双方ともに、集合名詞としての映画について語っても、個別のあれやこれや作品に向き合い、各々が放つ魅力については語り出すことがなかなかうまくいっていないのが実際のところである。
 せいぜいのところが、構造主義やポスト構造主義の頃にも流行った、自己言及(装置の仕組みを映画内でメタ分析している)や自己批判(制度の情動性をメタ批判している)という切り口で、目についた作品を特権的に擁護する、というようなことしかできておらず、酷い言い方をすれば、同じ論理同じ修辞で評論するにとどまっている感が強い。
 
 とても残念なことに、これまた辛口になってしまうのだが、わが国の映画研究(そのほかの分野でも同様かもしれないが)は一周か二周遅れの状態になってしまっていて、この頃ようやっと、学会や出版物などで技術経験や情動性やらが話題にのぼったりするという現状だ。
 映画のクリエティブ面、アート面について仕事をしている研究者もむろんいなくはないが、比較的若手のひとたちだ。代表例は、渡邉大輔氏の一連の瞠目すべき仕事だろう。
 
 ともあれ、ミスリードしないよう、前段の話を整理しておきたい。
 ストーリーテリングに関してはいえば、日本ではこれまた残念なことに、前世紀後半に巷を賑わした構造主義的物語研究の残滓がまだまだ元気だ。往時、案出された「物語」と「説話」の区別などといったフレーズがいまなお跳梁しているのをみてもわかるというものだ。筆者がたまに教室でそれを口にしたりすると、学生がキョトンとしてしまう。いささか古くさく映る言葉はにわかには解しづらいのだろう。
 だが、古くささというのが問題の中心にあるわけではない。日本の知的層が好きなフランス哲学にあってもいま現在、「ストーリーテリング」という言葉は英語のまま用いられ議論されているくらいで、要するに、この語が知的シーンで前面に出てきた背景には、物語やストーリーといったテーマを支えていた哲学的思考までもが根本的に問い直されておく必要があるだろうという共通理解がある、ということだ。
 
 考察をスムースにすすめるために、かなり概括的な図式になってしまうが、次のように、理論上の推移のチャートをおさえておくこととしよう。
(この「ユーザーズガイド」でも、第一回から繰り返してきているチャートなので、振り返りになるが。)
 
① 1960年代後半〜90年代半ば:構造主義
               画面=記号テクスト
② 90年代半ば〜2000年代後半:技術経験論、
                情動論
                                                      (身体反応論)
③ 2010年代以降         :映像の表現技巧
                                                      (効果)
 
そろそろ、日本語環境においてもいろんな水準でアップデートが必要な時期だろう。
 言い方をかえれば、②の段階に行き詰まりを感じたからといって、ひとびとが①の段階に素朴に戻ろうとしているというわけではないことが確認されておくべきなのである。
 若い世代にはわかりづらいところであるかもしれないので、③の段階の特徴を少しでも明瞭に把握できるようにするため、②の段階すなわち前世紀の物語研究の枠組みを、今次必要なかぎりで、ごく肝心なところだけでも振り返っておく。
 単純にいえば、三つの切り口で、物語なるものの輪郭を捉えておこうというのが、構造主義的記号論である。
 すなわち、物語というものに、三つの側面を区分けしておく必要があるという枠組みだ。A)物語の内容、B)物語の表現形式、さらには、C)その伝達という三つ水準である。
 先に見た「説話」という言葉は、この「伝達」の側面、すなわち「narrative」に対する「narration/narrating」を区別しておくべきために提案された用語である。(筆者自身は近年、教室では「語り」ないし「語りの形態」という言葉で学生に説明するようにしているのだが。)
 
 こうした枠組みは、さまざまに理論上の違いがあるものの、概ね、フランスにおける構造主義文学研究者の嚆矢ジェラール・ジュネットが示した物語論と、アメリカにおける認知論的映画研究の大御所デヴィッド・ボードウェルが示した物語論とにあって、一定程度共通しているものである。
 ボードウェルが、物語理解に関わって、ロシアフォルマリズムから構造主義にいたるまで同時代の諸理論(1970年代の『スクリーン』誌を賑わしたような)を通過しながら、それでも最終的には(1980年代から90年代にかけての記号認知にまだ集中していた)認知科学に依拠することになるのはよく知られているとおりだ。なので、構造主義的記号論と多少なりとも似通った、認知主義的記号論を駆動させて、映画の物語の語りの仕組みを捉えるのも不思議ではないかもしれない。
 いずれにせよ、こんにち、上のような枠組みでは間に合わないのではないかという方向でも談論風発、となっているである。
 
 念のため、付け加えておこう。表面的な物言いになってしまうのは承知だが、先の②の段階は、こうした三つの水準を成り立たたしめる物的基盤、技術的な仕組みというものに注意を払わないと、人々が実質的に向き合う物語経験というのは把捉できないのではないかという疑問によって押し進められたところがある。
 技術経験論の場合、そうでなければ、文字も映像もなんらか変わるところがない物語になってしまうが、そんなことはありえないだろう。またそれを観るものの身体反応の水準からなるべき基層的に捉えようとしたのが情動論の場合、スクリーンとテレビ画面それぞれに対する観る者の体壁の違いはものを取り扱えないだろう。そんな問題意識が導引となったわけだ
 1990年代後半から隆盛をみた、いわゆるニューマテリアリズムと呼ばれる研究動向の素朴な構えの一群がこうした②の段階の理論上の動向にあたるかもしれない。が、これらの研究動向は、それはそれで新しい論点や知見をたくさん提出したものの、映画というものを集合体として概括的に語ることしかできなかったといえなくもないのである。
 その反作用として出てきたのが、映画のクリエティブ面、アートの面に注目しなおそうという動きなのだ。なかでも熱心に取り組まれているのが、ストーリーテリングとはなんぞやという研究であり、そこを今回から3回にわたって掘り下げたいのである。
 したがって、ストーリーテリングの研究を、かつての物語研究と混同するのはあまり賢明な策ではない。20世紀における物語理解の図式や、技術決定論や情動論の枠組みを踏まえた上で、練り上げられようとしているのだ。おそらくはそういう事情もあって、①の段階での物語論(narratology)との差別化のために、新しい用語「ストーリーテリング」が用いられているのであろう。
 
 ただ、筆者にはストーリーテリングの研究の盛り上がりには、学術研究上の進化というものだけではなく、同時代の社会状況もかかわっているようにも思える。二つばかりの点に注意を引いておきたい。
 ひとつには、SNSなどオンライン上でのコミュニケーションが地球を覆うようになったいま(筆者はゴビ砂漠でもサハラ砂漠でも携帯電話をいじる人々を直接目撃した)、言語による情報をもとにした身の回りの世界の把握の有り様、つまりは個々の生が自らをポジショニングするストーリーの有り様といってもいいものだが、その特徴を解き明かすべきだという知的好奇心が日増しに強くなっているだろう。街の本屋さんにいけば、自己啓発本からビジネス書まで「ストーリー」の大切さを謳っている著作は数限りない。
 もうひとつは、友人であるメディア研究者大山真司氏が、さる研究会で指摘していた点だ。
 世紀が明けてすぐに人類を襲ったいわゆる911の同時多発テロの際、その衝撃的な映像をテレビを通じて視聴した人々が、心身ともに茫然自失となり、その後の思考が混乱に陥ったままになったことは記憶している人も多いはずだ。そうした状況が、技術決定論や情動論への関心を高めた向きもあるかもしれない(わかりやすくいえば、ブライアン・マッスミによるドゥルーズ解釈から導いた情動論だ)。
 大山氏がいうには、他方、いま現在、世界中に不安を煽っているのは、ロシアとウクライナの間の対立あるいは紛争である。むろんのこと、現場がもっとも悲惨な状況であることは間違いないわけだが、その外側でも各国が自らの陣営に引き込もうと、ありとあらゆるコミュニケーション方法を駆使して、どちらに正当性があるかをめぐる言葉による闘争、世界規模でのストーリー競争が繰り広げられている。ひとびとを説得するために、連日連夜、さまざまなメディアチャンネルでさまざまな言葉が放たれ、さまざまなストーリーがかけ巡り、わたしたちを翻弄しているのである。
 
 そんなこんなから、今回は、物語研究ないしはストーリーテリング研究における三つの仕事をとりあげ、それぞれ現時点で筆者が摂取しているかぎりでのスケッチを示しておくこととしたい。それなりに骨太のトピックなので、3回にわたってガイドしていきたい。
 
 ひとつめは、この「ユーザーズガイド」でも第一回にとりあげたウォーレン・バックランドのパズル映画論である。『Puzzle Films: Complex Storytelling in Contemporary Cinema』(Wiley-Blackwell, 2009)のイントロダクションがその概要を掴むにはまずは有効である。
 バックランドは、上でみたようなデヴィッド・ボードウェルの映画理解の図式を批判的に考察することからはじめている。都合よくも、パズル映画と呼ばれるような、現代の難解な映画群の物語形式について、ボードウェル自身が分析した論文があり、それに反駁する仕方でパズル映画のストーリテリングの特徴を浮かびあらせようとしているのである。
 ボードウェルは当該論文において、難解な作品の物語は、彼がいう古典的ハリウッド映画が案出した物語形式に抵触することはないと主張する(古典的ハリウッド映画の形式が現在まで続いている彼のスタンスについては、拙著『新版ハリウッド100年史講義』(平凡社、2017)を参照していただいてもいい)。
 ボードウェルは、この段階では自らの物語論に対して説得力をもたすための主たる参照先としてアリストテレスの『詩学』を引いている。
 よく知られているように、『詩学』においては、出来事の連なりは二つの系列がある。ひとつは、ある出来事から別の出来事へと展開していく因果に、登場人物の動機が主たる要因となっている系列であり、もうひとつは、必ずしもそうした動機に還元されえない、いわば運命(ギリシャ神話では神々の意志)が発動する系列である。
 それらが織り合わさって、自らの動機づけにおいて前へと出来事がすすんでいると主人公が、自らの理解を超えた出来事の生起にでくわし、事態の了解へといたる(観客はそこでカタルシスを感じる)とされているわけだ。
 ボードウェルは、だが、その二つの系列はそれでも、主たる物語展開において登場人物の動機こそが主導して二つの出来事の系列が織り合わされることになっていると論じるのだ。線形的な出来事の流れに収斂しているというのである。そもそも、最終的な事態の了解は主人公において生じているではないか。出来事が継起的に生じ語り出される物語世界において、その出来事の連なりをすすめる推進エンジンは登場人物の動機であるという従来からの主張を改めて主張、ないし補強しようとするのである。
 具体的に作品をあげ、こう論をすすめるのだ。たとえば、『メメント』(1997年)をみよ。基本4つの部分から成り立ち、相互に関連しながら、自らと自らの周囲の状況が主人公の広い意味での動機を中心に段階的に展開しているのであってみれば、それは古典的ハリウッド映画の物語形式に沿うものにほかならないのではないか、観る者に多少なりとも混乱が生じ、難解であるという印象を与えてしまっているのは、じつのところ、監督が映画の語りに関して上手な演出をなしていないことに起因しているのではないか、そういう仕方で分析するわけだ。
 デビッド・リンチによる難解と評判の高い『マルホランド・ドライブ』(2001年)にせよ『インランド・エンパイア』(2006年)にせよ、ボードウェルによると、同じことであり、監督がしっかりと語りあげるという責務を放棄しているだけではないかとなかなか辛辣に論評するのである。
 
 バックランドは、これに真正面から反駁するのである。
 パズル映画においては、そもそもアリストテレスがいうような、主人公における事態の最終的な了解が訪れない、したがって観客にはカタルシスも訪れない。出来事のつらなりに認めることができる二つの因果系列は、調和をもって「織り合わされる」とアリストテレスはいうが、その織り合わせを確信犯的には「もつれさせ」ようとしているのが、ほかならぬパズル映画なのだというのである。
 『メメント』において実際に生じているのはこういうことではないか。
 次に何が起きるのかについて、すなわち過去には同じ状況で同じ行動をとった場合に何が起きたかについて、主人公が記憶をもつことができない一方で、観客自身の側においては鑑賞がすすむにつれて次第にどういったことが過去に起きたのかを覚えはじめ次に何が起きるのかを予測できるようになる。つまり、複数の因果系列の織り合わせのもつれについて、物語世界のなかの主人公の心的動きと観客側の心的動きの間に乖離が生じるという、鑑賞経験が生まれることになっているのだ。それをこそ映画の側は狙っているのではないか。
 なんとなれば、エンディングにいたっても、なんらかの決定的事態も起きないし、がゆえに、主人公にはなんらかの了解も生起しない。乖離は乖離のまま、あるいは、因果系列は宙ぶらりんのまま、もつれたまま、放り出されることになっている。それがこの作品ではないか、そうバックランドは分析するのである。
 あるいは、だ。
 デヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』(1997年)を見よ。登場人物が屋内にいると同時に屋外にいるという矛盾に満ちたシーン展開はただシンプルに矛盾そのもの提示しようとするものではないか。『ラン・ローラ・ラン』(1998年)を見よ。三つの別仕立てのプロットは、なんら最終的な統合ないし解決がなされないままに提示されているだけといってもいいのではないか。『シックス・センス』(1999年)を見よ。大団円におけるサプライズは、観客にカタルシスを与えるというよりも、むしろ、監督にしてやれたという気分を与えることこそが狙ったものになっているではないか。
 
 筆者の方で強引にまとめるならば、バックランドによるところの、パズル映画とは、出来事の複数の因果性が走るものの、戦略的にそれらが統合されないままに提示される、そういうストーリーテリングをもった作品群ということになろうか。
 
 では、なぜこういう「難解な」ストーリテリングをもつ映画作品が多数生まれ、多くの観客を魅了しているのか。コアなファン層が生まれ広がりつつあるというばかりか、メジャーかインデペンデントかにかかわらず、国を問わず、次から次へとパズル映画は企画され製作されている。需要があると業界は踏んでいるのもまちがいない。
 それについては、バックランドが続いて編んだ論集『Hollywood Puzzle Films』(Routledge, 2014)で彼がものしたイントロダクションに、その応答をみることができるだろう。ちなみに、この論集は、世界中の独立系ないしはアヴァンギャルド系でまずは作られブームとなったようなパズル映画は、いまや、メジャーなハリウッド映画においてもどんどん試みられるようになっていることを踏まえた上での論集である。
 少しばかり注意を寄せておきたいのは、ハリウッド映画のメジャー作品においても、古典的な物語形式に沿ったではないものが、それに準じたストーリテリングの理解では対応できない作品が、大量に作られているのが事実であるとして論じているという点だ。そうであるからこそ、新たな理論的枠組みを探る必要があり、それらの作品群のストーリーテリングの有り様をつぶさに分析することがいま求められている、という建てつけになっているわけだ。
 その意味では、真正面からボードウェルらの古典的ハリウッド映画論に対抗する論集となっているともいえる面白いものだ。
 
 ともあれ、なぜパズル映画が盛んなのかという論点に戻ろう。
 バックランドは、パズル映画という文化的現象の登場を、デジタル技術ないしニューメディアの勃興と並べて観測するという方向での整理の道を探っている。つまり、デジタル技術が、「難解な」ストーリテリングを生み出したというストレートな技術決定論は前提として斥けられている。これまた手間味噌になるが、『映像論序説』も同様に前提のもとに書かれている。
 
 いずれにせよ、デジタル技術ないしニューメディアの勃興と並べて観測しようとする際には、主に三つのアプローチがあるという。
 ひとつはWendy Everretによるいわば合わせ鏡のように現れたふたつの現象という観測、ふたつにはAllan Cameronのようなデジタル技術に対する応答(response)として現れたというものである−–これには、Katherine HaylesとNicholss Gesslerによる一種のフィードバックとしてみる観測も含まれる。みっつめが、ガレット・スチュアートによる「coincidence」という観測である。だが、スチュアートについては少なくともこの段階ではバックランドもその整理と位置付けやや苦労しているようで、紙幅を割いている割には明瞭な整理にはいたっていないように思われる。
 バックランド自身は、自分が寄せた(イントロダクションではなく)作品分析の論文において示しされているように、どちらかといえば二つめの観測の立場にあるようだ。すなわち、ビデオゲーム環境が生活世界に浸透し、ひとびとの映像経験の形態を大きく変容させてきていることが、なんらかの仕方でパズル映画を出来させている要因とするという解釈に寄っているようなのである。
 バックランドは、スピルバーグを真正面から論じた著作でも、ゲーム的な環境のなかで観客において醸成されたと映像の語りのよみほどきが、論の随所に顔をのぞかせている、と筆者は感じている。興味のある向きは、ぜひ直接目を通していただきたい。
 
 だから、ストーリーテリングの形式は前世紀の枠組みでは接近できない、バックランドはそう述べているといっておこう。

 これだけでも面白いのだが、これに加えて百花繚乱状態なのだ。 
 ということで予告をかねて記しておく。
 次に、つまり〈その2〉でとりあげるのは、トーマス・エルセッサーの論である。彼は、先にあげたバックランド編集の『Puzzle Films』に巻頭論文を寄稿している。ではあるのだが、なかなかどうして、筆者の見立てでは、微妙にけれどもかなり色濃くバックランドとは立場を異にしているようだ。しかも、一連の情動論を踏まえた上での、論展開である。
 いやはや、いやはや。

 さらに、〈その3〉ではガレット・スチュアートの仕事をとり上げたい。
スチュアートは、エルセッサーのマインドゲーム映画論でも参照されているし、また上でとりあげたバックランドの二つ目の論集に寄稿もしている。ではあるのだが、独自の論を展開している。技術経験論や情動論にかんしては、あからさまに断罪している。へんな修辞を利かせれば、情動論のドゥルーズを別仕立てのドゥルーズをもって斥けるのである。
 いやはや、いやはや。

 簡単には見過ごせない、ワクワク感満載の、談論風発状況なのである。
  
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?