〈映画研究ユーザーズガイド〉  第10回 ストーリーテリング(2)

第8回 ストーリーテリングとエピステーメ
 
 次に、バックランドと近い論方向であるものの、微妙に異なる立論を組み立てていたトーマス・エルセッサーの仕事をみておこう。
 
 長いキャリアにおいてコンスタントに次々と研究者共同体を驚かせる仕事を発表してきた(2019年に亡くなられた)エルセッサーは、先に触れたバックランドが編んだ2009年の論集『Puzzle Film』に巻頭論文「The Mind Game Film」を寄稿していた。まずはこれをみておきたい。
 膨大な数の作品に言及し、かなり厚みのある論構成をもつ、下手をすると短い書籍になりうる長さのこの論文を、的確さを維持しながらまとめるのは至難の技となるが、本ガイドに関するかぎりでなんとか骨子だけでも浮かび上がらせておきたい。
 
 この論文においてエルセッサーもまた、物語の展開を追うことが難しい、もっといえば、前世紀よりも観客の側に複雑な心的活動を求める映画作品が1990年代末から多数発表されていることを、相当な数の作品に言及しながらともかくも事実として確認している。
 しかも、メジャーか独立系にかかわらず、国にかかわらず、作家が誰であるにかかわらず、ジャンルにもかかわらず、である。
 
 そうした上で、それら大きな群となって立ち現れている難解な映画において共通して観察できる、物語上(語りの技巧上)の特徴をリストアップする。強引に圧縮していえば、こんな具合である。
 新種のストーリーテリングが描き出す物語世界において、主人公は、重要な事件の当事者であるにもかかわらず、当の出来事に関わる因果性のある出来事群から遠ざけられている。『メメント』や『ロストハイウェイ』などが典型だ。
 多くの場合、と同時に、彼女/彼が主観的に把握している世界とその外側の世界(ときにデジタル技術が実現する仮想世界も含め、複数の可能世界のなかで)の間のもつれやずれのなかで彷徨うことになっているというものだ。『マトリックス』(1999年)や『トゥルーマン・ショー』(1998年)などである。
 あるいは、主人公の友人や師と仰ぐ人が、ある段階で自らの妄想に過ぎなかったということが明らかになったりする。『ファイトクラブ』(1999年)や『ビューティフル・マインド』(2001年)といったあたりだ。
 これらが、複数の世界設定、信頼できない(映像による)語りの挿入、誰のものかわからない視点ショット、複数のプロットの撚り合わせ、入子構造の多用、などといった技巧が駆使され描き出されるという格好になっているだろうという。
 
 語られた世界像のモードと主人公の心の動きのモードの関係をみるときにみとめられる、こうした特徴から何をいうことができるのか、それがこの論文の中心にある問いである。
 それを論じていくのに、かなり分厚い論構成がとられているのである。
 
 はじめに防御線がはられる。
 映画研究者のなかには、次のように解釈する者も少なくないからだ。すなわち、こうした試みの映画作品は、戦前の前衛映画や1960年代のアートシネマでもみられていたものではないかと。
 エルセッサーはこうした解釈には与しない。とりわけ、複数の時間軸が回収の回路付けがないままに設定されているという点などをあげながら、つまり複数の筋立てが放り出されるようにスクリーンにかけられているという語りに十分に向きあわないといけないというのである。(補足をしておくならば、アートシネマなどは、大団円においてメッセージは問題提起のようにオープンにされたままエンディングを迎えるものの、その問題提起に収斂するように全体の(映像の)語りは整えられている。日本のサブカルカルチャーでいわれる「伏線」が回収されるしない、といったフレーズはこの辺りを見事に言い当てているかもしれない。)
 
 その上で、本論へと踏み込んでいく。
 第一に、いささか踏み込んだフレーズまでもを使い、エルセッサーは、マインド・ゲーム映画に登場する主人公の心的活動の有り様を、先の特徴を踏まえ、次のように捉えようとする。つまり、ある角度からみれば、「病理的(pathological)」ともいえるマインドをもっているとして主人公が描き出されているというのである。
 だが、それは、「正常(normal)」との対比において描き出されているというよりは、むしろ、時代の精神の在り方として一般的にみられるものとしてスクリーンにあらわれているという。どういうことか。
 たとえば、かつてのつまり古典的なハリウッド映画(典型的には、ヒッチコックの『白い恐怖』(1945年)やニコラス・レイの『黒の報酬』(1956年))の場合であれば、それを病理と判断することを観客に促すような参照項、すなわち主人公の「正常」な時の有り様などがしっかりと描き込まれているだろう。
 そうではなく、主人公自身が感じ取っている(想像上の、あるいは主観的な)現実と、自分自身があずかり知らぬ外の世界で推移している現実との間が折り合わなくなっていくというさまが、ごくごく「普通」の光景としてスクリーンに浮かび上がっている、それが、「マインド・ゲーム映画」だというわけだ。
 乱暴に言い切れば、エルセッサーは、こうした心性が多くのひとびとに共有される時代になったからこその物語であり、ストーリーテリングなのだとみなしているようだ。
 だが、そこにはまだまだ厚みのある論理立てが控えている。
 
 マインド・ゲーム映画では、視覚像-模写モードと記号-線形処理モードが相当ラディカルに組み合わされ画面が形作られているという。どんな意味合いでラディカルにか。
 エルセッサーの見立てでは、14世紀から15世紀の西洋の文化に生じた、一方での印刷技術による文字経験の線形化の爆発的な推進(グーテンベルク革命か)、他方での遠近法を軸とした世界模写のモードの登場(クワトチェントロか)が、いわゆる主観-客観の布置に一定のかたちの安定構造をつくりあげる、そんなタイプのストーリーテリングが出来上がり拡まるにいたった。それがこんにち、溶解をはじめたのではないか、それほどまでにラディカルに、である。
 だからこそ、ひと昔前であれば「病理的」と映ったかもしれない人物像に似た、なにかが映し出されるということになるのだ。
 
 詳細は省くが、エルセッサーの観点によると、視覚像-模写モードと記号-線形処理モードが相当ラディカルに組み合わせを生じさせているのは、生活世界にデジタル技術が一定程度の浸透してしまった環境、ということになる。非線形的思考を促進する環境といってもいいだろう。
 いわば、データベース環境を前にした場合、ひとがそこから引き出した情報をもとに組み立てるストーリーはあきらかに非線形的な処理形式で編み出されたものだろう。そこには、画面と非線形なインタラクションが求められるのである。
 そうした思考環境のなかで生活をしている場合、たとえ映画館のなか(あるいはもっといえたパソコン上のストーリンミングで)で受けとめる映画における視覚情報、聴覚情報に対しても、少なくとも一定程度の非線形的な構えで受けとめたとしてもおかしくはないはずだろう。
 バックランドのように「パズル映画」ではなく、エルセッサーが「マインド・ゲーム映画」と呼ぶ所以のところだろう。
 
 とはいえ、とはいえ、だ。
 エルセッサーによるならば、デジタル技術が直接の原因となっているというよりは、それをもとりかこむ、いわば新しい時代の精神の有り様(エピステーメ)こそが醸成されなかでこそ、マインド・ゲーム映画は出来することになっている。
 前回みたようなバックランドが提起したようなデジタル技術とパズル映画との関係を、より広い枠組みで、エルセッサーが論じているといってもいい。
 
 ひとつの手がかりとしては、世界中に浸透しつつあるネオリベラリズムといわれてもいる資本主義形態の作用がある。
 一方では、こんにちの資本主義に理論的に対峙しようとしたハート&ネグリの『〈帝国〉』が論じたように、情動性も含めて、いいかえれば、ひとびとを心の水準でのみならず身体の水準において管理しようという統治システムが拡がっている。データベース処理に典型化されるひとびとの情報技術的思考は、そうした身体統治システムの平面において成立している作用形態なのかもしれないということだ。
 ミッシェル・フーコーの「生政治」や、ジル・ドゥルーズの「コントロール社会」といった思想が抉り出してきたような現代のエピステーメである。
 他方では、しかし、心理学者のS・JohnsonやM・Gladwellによるならば、非線形的情報処理はかつての参照基準照らせば「病理的」となるような心身となってしまうが、それはしかし、別角度からみれば、現代社会の生きづらさをサバイバルしていくスキルでもあり新しい人間のあり方にほかならないのだというわけだ。生政治を逆方向から捉えたものだろう。
 マインド・ゲーム映画のプレイに親しむことで、それを強化し、生産性のあるエージェントして自らをアップデートしていくことができるだというラインの考え方である。
 これらをひっくるめたエピステーメが、マインド・ゲーム映画を大量発生させている、そんな議論になっているのである。

 面白いのはここでもまた、『メメント』が紙幅を割いて取り上げられている。誤読になってしまうことを承知でまとめておくと、こんな感じだ。
 この映画では、「覚えておくこと」よりも「忘れてしまうこと」が重要視されている。そんな世界観において、自らの身体に書き込むことで心身のサバイバルを絶望的に繰り返すというストーリーテリングになっているのだ。まさしく、この時代精神のなかにあって多方向に刺さる魅力をもつ映画となっていると分析するのである。
 付け加えておくと、『ファイトクラブ』(1999)の主人公も、複数の世界を渡り歩くという、いわば二重人格化のなかにある人物で、向き合う世界像も処理すべき言語も飛び散らかっていて非線形的に取り囲むといった具合なのだが、そのなかでより強くなる人物として描き出されているだろう。
 
 ここで、エルセッサーがこの論文のあと、マールブルク大学で教鞭をとるMalte Hgenerと共にものした『Film Theory』(Routledge, 2010)を併せて呼んでおくおくのもいいかもしれない。
 この著作は、すでに第二回でも述べたように、フランス現代思想から『スクリーン』さらには認知派までその深いところで駆け抜けてきた研究者であるからこその洞察をもって書かれた、ある種の総括的な「映画理論」だといっていいだろう。
 手はじめにエルセッサーは、映画理論なる知的実戦は軽々と国境や時代を越えてきたことを振り返っている。映画理論なるものは映画史と同じくらい古く、映画作品と同じくらい国境を選ばない、そんな実践だったというのだ。
 いくつか例をあげれば、戦前にはドイツ(フランクフルト学派)やソビエト連邦(ロシアアヴァンギャルド)、戦後はフランス(『カイエ・デュ・シネマ』近辺)とイギリス(『スクリーン』近辺)、20世紀後半になると北米東海岸(『フィルム・カルチャー』や『オクトーバー』近辺)、オーストラリアとバーミンガム(カルチュラル・スタディーズ)、ウィスコンシン(認知派)、シカゴ(理論を織り込んだ映画史)、などなど(さらには日本などで展開した考え方もおそらくは組み込むべきだろうとしている)。
 エルセッサーが試みるのは、こうした時代ごとの映画理論が同時代状況のなかで出来したものである、という点を重くみる捉え方である。とはいえ、映画をめぐって時代ごとのあるいは国ごとの思潮があったという、つまりはところ変われば品変わるという、安易な相対主義仕立ての論法ではない。
 というのも、映画理論が軽々と国境を跨いで、出自やラベルはどうであれ異なる国において貪欲に摂取され研究分野を越えて現場にまで浸透していくことが少なくなかったこともまた重視されているからである。
 (筆者の感じるところでは、これに比するとき、映画批評が少なからずドメスティックな受容にとどまっているのは興味深いところだと思われる。啖呵や断言といったいくら華やかな修辞で衣をつけようと、およそ同一言語共同体のうちでしか消費されないものなのかもしれない。)
 
 ところかわれば品変わるという相対主義的な理解でもなく、あるいはリアリズム系列の理論家フォルマリズム系列の理論かというおそらくは映画研究者以外にはあまり興味をそそらないような対立軸の深掘りに拘泥することもなく、エルセッサーが提言するのは、もっとダイナミックな理解の仕方である。
 すなわち、「映画とは何か」という問いに応接するにあたっての二つの軸、すなわち、映画がどのようなものとして世界で位置付けられているのかという存在論と、映画がどのような仕組みのものなのかという認識論、とい二つの理論的探求の軸を重ね合わせることで、映画理論の推移を一気に人文学の、いやより正確にいえば、知の探求に関わる大きなコンテクストのなかに落とし込もうと企図するのである。
 
 先に見たような映画理論のそれぞれは、時代を代表するような心理学者や哲学者、社会学者や芸術学者によって書かれたものが少なくない。彼らは、それが出来した時以来、前世紀を通じて先端的な機械仕掛けの創造文化とみなされ、じっさい人間にも社会にも大きな作用を及ぼしていた映画なるものへ知的関心をもたざるをえなかった。畢竟、平たくいえば、同時代の知的状況あるいは文化的そして社会的状況において、映画なるものがいかなる位置付けにあり、そしていかなる仕組みをもってひとびとに訴求したのかについて、思考を積み上げたのである。
 エルセッサーが、映画をめぐる存在論的な考察と認識論的な分析を相互に擦り合わせたり重ね合わせ「映画とは何か」という問いへの思考を練り上げていったのだという記載するとき意図されていることは、そのようなことである。
 
 そのようなダイナミックな視座をとることで、エルセッサーは、とりわけ身体の水準を大きく前景化させている。
 ひとびとがどういった身体的構えにおいて映画館に出かけたのか、そしてその構えのもと、いかなる具合にその場所において感覚器官を作動させたのかという、ひとが映画に向き合う観客となる身体を二つの水準で視野に収めることができるとするのである、その上で、鑑賞という行為において、いったいどのような内容が認知されるのか解釈されるのかを問うことができるというのである。
 急いでつけくわえておけば、筆者自身の感触では、バックランドがデジタル環境の登場がもたらした、ひとびとにおける認知処理の変容をパズル映画の出来の背景のひとつとしてみなすのに比して、エルセッサーはむしろ、エピステーメの変遷を重視するという見立てを示している。だが、これについてはまだまだわからない。詳細はそれぞれの原著に直接あたってもらいたい。
 
 ストーリーテリングに引き付けておこう。
 上のような構想のもと、第一章は「窓そしてフレームとしての映画」、第二章は「ドアとしての映画—スクリーンと敷居」、第三章は「鏡としての映画––顔とクロースアップ」、第四章は「目としての映画––見る(look)と視る(gaze)」、第五章は「肌としての映画––身体と接触」、第六章は「耳としての映画––音響と空間」、第七章は「脳としての映画––心と身体」とタイトル付けされ、著作の論述は組み立てられることになっているのである。
 こうした、いわばメタ理論的、というか理論集約型の視座をもってなされる論述は、そうであるからこそ、なかば予測できるように、作品の考察にあたって、身体そして感覚器官、さらには心的作用といった水準においてダイナミックに作用する仕方でストーリーテリングは遂行されるという組み立てになっているのである。
 上記でみた「マインド・ゲーム映画」の論も、こうした理論的バックボーンにおいて論じられていると解しておいた方がよいだろう。

 バックランドの論と並べると、面白い論点がどんどん浮かび上がってくる。
 本項としては、しかし、もうひとつ、すなわちガレット・スチュアートの論立てもまた次にガイドしておきたい。
 
 
 

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