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喪服 2/2

         

あくる朝、会社に出勤すると森岡さんは出社していなかった。始業開始1時間前には必ず出社して、諸々の準備に余念がない森岡さんが、僕が出勤する時間にも会社にいないことは通常では考えられなかった。あまつさえ、始業開始の午前10時になっても森岡さんは出社しなかった。僕はこの時点でいいようのない不吉な予感に打たれた。森岡さんが並の先輩社員なら、昨夜の喪服談義で盛り上がって飲みすぎたんだなぐらいしか思わない。しかし僕の経験上、完全にルーティンを構築している人物が、それを自ら破ることは余程のことがないかぎりあり得ない。それも森岡さんのように、単なる習慣ではなく目的を達成するための戦略としてルーティンを設定している人なら尚更である。その彼が「始業開始1時間前の出社」という自ら定めたルーティンどころか、社会の一般常識である始業時間になっても連絡一本よこさず姿を現さないということは、出社も連絡できないほどのアクシデントに巻き込まれた可能性が高い。上司に報告すると、さすが部下の実態を把握しているマネージャーだけあって顔色が変わった。
「直行じゃないのか?」
「念のためにグループウェアでスケジュール確認しましたが、午後からの外出になっています」
「電話したか?」
「つながらないんですよ」
「自宅にも連絡入れてみろ」
しかし自宅も誰も出なかった。森岡さんの奥さんも社会人のため、仕事に出ているのかもしれない。僕は奥さんにLINEで連絡してみた。森岡さんの自宅に遊びに行った時に奥さんと連絡先を交換していたのである。すぐに返信がきた。いつもの通り、8時には家を出たという。いよいよ、何らかのアクシデントに見舞われたことが現実味を帯びてきた。が、僕らとしても森岡さんからの連絡を待つこと以外できることはなかった。

夕方、奥さんからLINEがきた。僕は目を疑った。
「あの人、死んじゃったみたい」
絵文字でもついてそうなほどシンプルで軽いメッセージだった。それゆえ、かえってそのメッセージが決して冗談などではないことを饒舌に語っていた。時を同じくして、森岡さんのチームの僕たちは会議室に呼ばれ、マネージャーの口から森岡さんの死が告げられた。警察と奥さんから会社に連絡があったらしい。
マネージャーは「電車の事故」と曖昧な言葉で濁していたが、要するに飛び込み自殺だった。後にネットの記事で読んだのだが、目撃した人の話によれば、電車がホームに入ってきたタイミングであたかも走り幅跳びをするように線路にダイブしたらしい。複数人の証言が取れているから事件性がないことは確実で自殺に間違いないという。

遺書らしきものは残していなかった。ただ、ホームに飛び込む数分前に「人の情欲に欠けているのは妙なる音楽だ」と謎めいたツイートを残していた。

自殺の原因をあれこれ推量することは差し控えようと思う。結局のところ誰にもわからないのだから。端から見れば何もかもうまくいっているようでも、人知れず僕らの想像もつかないような深い闇を抱えていたのかもしれない。あるいは人という奇怪な生き物は、何かの拍子に大した理由もなしに駅のホームに飛び込むことがあるのかもしれない。むしろ僕は自殺したことそのものよりも、森岡さんが飛び込み自殺という決してスマートとはいい難い死に方を選んだことのほうが余程不可解だった。同じ自殺するにしても、森岡さんがわざわざ他人に甚大な不利益をもたらす手段を選ぶとは到底思えなかったからだ。が、そんな考えも生きている人間だから抱くことであって、リアルに死の圏内に踏み入った者からすれば、死ぬ方法など埒外の事案なのかもしれない。

お通夜とそれに続く葬儀は滞りなく行われた。
森岡さんから喪服の講義を受けてから数日後に、奇しくも僕らは彼の奥さんの喪服姿を目にすることになったわけだ。気丈に振る舞う奥さんを見て、もちろん不謹慎な劣情などわくはずもなかった。ただ純粋に気の毒に思うだけであった。一緒に参列した内山や井口も同じ気持ちであったろう。
葬儀は生前ひときわ花を愛でていた森岡さんを偲んで、通常よりも多くの供花が供えられていた。大悲咒が響く斎場で、髪をシニヨンに纏めた奥さんの白いうなじが漆黒の喪服に異様に映え、その奥の祭壇の高みから、菊、カーネーション、ユリ、トルコギキョウ、水仙、竜胆、デルフィニウム・・・・・とりどりの目も綾な色彩の贅に尽くされた園の中で、森岡さんが涼しげな目で僕を見下ろしていた。僕は妙に生々しい感情を覚えて、いたたまれずに目を閉じたのだった。


森岡さんが死んで一週間ほど経ったある日、総務から社内SNSを通じて、先日開催された全体会議の内容をまとめた記事が送られてきた。記事には毎回全体会議の様子を撮影した動画も付いている。僕は動画のメニューから「表彰式」を選んで再生した。もちろん森岡さんの最後の晴れ舞台を見るためだ。全体会議では、まだ市場に出ていない新商材の発表などもあるため、原則として個人の撮影は禁じられている。したがって、森岡さんがMVPを受賞した最後の晴れ姿は会社がオフィシャルに撮影した動画のストリーミングでしか見ることができないのだ。
——動画は進行役に名前を呼ばれた受賞者が、おのがじし花道のレッドカーペットを通って壇上に上がってゆくところから再生された。各受賞者は社長から直々にメダルをかけられ、壇上で簡単なスピーチをするのである。十人ほどの受賞者が壇上に上がった。残すはMVPのみ、いよいよ森岡さんの登場である。進行役はMVP受賞者として森岡さんの名前を告げた。全体会議の当日、名前を呼ばれた森岡さんは「俺か」とぼそっと言い捨てて花道に上がったのだった。自身のMVPを確信していた癖に、ことさらに「俺か」と呟く森岡さんに思わず苦笑をもらしたのだった。そんな故人の思い出にひたっていたときだ。
「何だこれ?」
思わず僕は声を出していた。画面に映し出されたのは森岡さんではなかった。
見知らぬ中年の女——喪服を纏った中年の女が花道に現れたのである。喪服の女はニコニコ笑いながら、花道のレッドカーペットの上を内股の小走りで駆けている。
よく見ると両手には遺影を抱えているようだ。
何なんだこの女は? 僕は困惑しながらも動画を食い入るように見続けた。
女は壇上に上がると、社長のもとに嬉々として駆け寄り、黒無地の喪服の下の、程よく肥えた肉叢を媚びるようにくねらせている。
社長が女の首にメダルをかけると、口元を着物の袖で隠しつつ執拗に何度も頭を下げている。
ほどへて中年の女は正面を向き、マイクスタンドの前に立った。
カメラは女が抱えている遺影が森岡さんのそれであることをはっきりと映した。
喪服の女は満面の笑みをたたえ、マイクに向けて口を開いた。奇妙な節をつけて口吟むように。
「ゼロキュウイチヨンゼロハチイチゴ、ゼロキュウイチヨンゼロハチイチゴ、ゼロキュウイチヨンゼロハチイチゴ。・・・・・・・・・・・・」
ゼロキュウイチヨンゼロハチイチゴ・・・・・09140815? 女は8桁の数字と思しき言をひたすらわけもなく繰り返している。なんともいえない間延びした声で、真言(マントラ)でも唱えるように節をつけて。女の口の中の、ぬばたまの闇の奥で、雪解の泥濘の残光のように金歯がきらりと光った。そこで唐突にカメラがズームアップして森岡さんの遺影が画面いっぱいに映し出された。喪服の女に抱かれた森岡さんは涼しげな目で僕を射った。すぐ耳元で森岡さんの声が聞こえた。

「な? 喪服っていいだろ?」

咄嗟に僕はウインドウを閉じた。

          ✳︎

しばらくして、やや落ち着きを取り戻した僕はおそるおそる改めて記事を開いてみた。すると記事には動画は付いておらず、代わりに「カメラの故障により撮影ができなかったために、全体会議の動画はありません」と、とってつけたような断りの一文があった。
総務が異常に気づいて動画を削除したのか、断りの一文が釈明するようにそもそも動画はなかったのか。僕が知るかぎり、社員の間で動画のことが口の端に上っている様子はない。とすれば、やはり僕が見た動画は最初から存在していなかったと考えるのが自然だろう。慕っていた先輩の自殺を目の当たりにして、少なからず神経を磨耗していた僕は、シナプス結合の異常がでっちあげたまやかしに眩惑されただけなのかもしれない。

◆◆◆

その夜、僕は苦手な酒を飲んだ。
たった一人であてどもなく何軒もハシゴして夜の街をさまよい歩いた。

気づけば、地下鉄の駅のベンチで僕は死んだように酔い潰れていた。
波打つ鼓動に合わせて、ズキズキと顳顬が軋むように痛む。
「もうこのまま線路に飛び込みてーわ」
どこかの若い酔漢が、酔いにまかせて無添加の感情を大声で吐露している。
脈打つように絶えず襲ってくる頭痛の彼方で、あやしげな節をつけた喪服の女の声が今もしつこく木霊している。その幻聴から逃れるために好きでもないアルコールの酩酊に頼ったにもかかわらず。
終電のアナウンスが駅の構内に流れ、LEDの電光掲示板の発車標を何気なく見たとき、喪服の女が口吟んでいた六桁の数字と森岡さんの死が恩寵のように突然僕の中でリンクした。諫止する理性に抗って、顳顬を抑えながら、片手で森岡さんの人身事故のニュースを検索してスマホに表示した。

「9月14日、午前8時15分頃、東京都新宿区のY駅で、線路内に会社員男性(27)が立ち入り、ホームに入ってきた高尾行きC線中央特快の電車(6両編成)にはねられ死亡した。Y消防署によると、男性は〜」

そこへ絹を裂くように鋭く車輪を軋ませて、最終電車が躍り込むように侵入してきた。

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