消失

「ゆかりは何処へいったんだよ…!!」

私がキッチンで包丁を洗っていると、夫は強張った表情で大声を上げ、詰め寄ってきた。その目には明らかな焦りの色が宿っている。ゆかりが何処へいったかなんて、私が知っているはずもない。その呆れを口には出さず、視線だけで伝えようと彼を一瞥すると、私は包丁の刃に付いた泡を洗い落とした。

「ねぇ聞いてる? ゆかり! 何処!?」」
「…知らないってば」

今度は声に出して伝えた。水を止めた直後の無音に響いたその言葉は、自分でもはっきりとわかるほど冷たい響きだった。夫は募る不安を拭い去ろうとしているのか、口元をしきりに触っている。その仕草はまるで玩具を捨てられた子供のようで、嫌気がさす。

「悪いんだけど、そろそろしおりを歯医者に連れていく時間なの。さっさとご飯食べちゃってくれる?」

私はさらに冷たい口調で言い放ち、彼の横を通り過ぎて寝室へ向かった。長女のしおりはベッドの上にちょこんと座り、絵本を読んでいた。

「ほら、しおり。お着替えするよ」
「イヤ〜!はいしゃさんイヤ〜!」
「わがまま言わないの…」

うんざりする。私だってゆかりが嫌いなわけではないが、もともとゆかりは私の生活にとって異物なのだ。ゆかりが視界に入るたび、私の胸には澱が少しずつ積もり、それはこの半年ですっかり私の心を刺々しくさせた。夫は明らかにゆかりに依存していて、昼夜を問わずゆかりを求める。妻である私に気を遣うこともなく。彼が在宅ワークとなってからはさらに依存は悪化した。

昨年の夏、しおりが体調を崩してしまったことで帰省を兼ねた家族旅行の計画は中止となり、夫は一人で実家へと顔を出しに行った。そして三日後、夫は帰宅するなり、満面の笑みで私にゆかりを見せつけたのだ。それ以来、夫はゆかりに夢中だった。

「だっておかしいじゃないか…ゆかりが消えるなんて」

夫はまだしつこく愚痴っている。しおりに服を着せ、脱がせたパジャマを洗濯かごに入れた。無造作に詰め込まれた夫のワイシャツに苛立ちを覚える。その瞬間、私はゆかりが何処へ消えたのかピンときた。でも少し、意地悪をしてやることにした。

「さっさとご飯食べちゃってって言ってるでしょ! 私もう出かけるよ!」

寝室からリビングへ向けて声を張り上げる。夫がびくっとした気配がする。

「だってゆかりがさぁ…」

夫はおどおどと寝室に入ってきた。いい気味だが、流石にもう面倒だ。

「質問。あなた昨日、何してましたか?」

私は敢えて冷静な口調で夫に問いかけた。

「昨日? 昨日はだから、会社の月イチ出勤日で…」
「私が久しぶりに作ってあげたお弁当は美味しかった…?」

そう訊いた瞬間、夫は「あっ」と小さな声を上げ、通勤用に使っているカバンに視線を向けた。

「愛しのゆかりさんはその中にいらっしゃるんじゃないですか…?」

夫はゆっくりカバンに近づき、中に手を差し入れた。すーっと抜かれた手には、食卓から消えたゆかりが、見慣れた紫色の姿で収まっていた。

三島食品のロングセラー「ゆかり」。
夫の実家では食卓に常備されており、毎日ご飯にふりかけて食べていたそうだ。去年の夏の帰省でその事を思い出した夫は、わざわざ義母から未開封のゆかりを10袋も土産にもらい、持ち帰ってきた。それからというもの、子供時代に戻ったかのように毎食白飯にかけて食べている。おかずが洋風だろうが和風だろうがお構いなしで、半年で残り1袋になってしまった。最近では娘のしおりも真似してふりかけるようになって困っている。手料理にドボドボ醤油をかけられるほどのストレスではないが、それでも私はイライラするのだ。

「お弁当にかけるために持っていったんでしょ?」
「…そ、そうでした。ごめんなさい」

夫は叱られた子供のようにションボリしていた。私はまた少し意地悪をしたくなった。イライラを解消するのにはこれが最適だ。

「今日のお昼はサンドイッチ、夜はお蕎麦にしよ。ゆかりさんは必要ないわね〜」

「…はい」

夫は寂しそうにゆかりをシャカシャカ振った。


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