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社会規範的な「コレクティヴ」と、戦略的に必要な「コレクティヴ」の質の違いとフットボール

「日本社会の規律性」と「戦略的な規律性」の使い分けを考える。


【引用開始】

“日本代表の強みと思いがち”だが露呈した弱点は、トルシエジャパン時代と同じ…「森保を批判するつもりはない。名波にはそれが可能だ」

記事URL https://number.bunshun.jp/articles/-/860755?page=1

トルシエが考える「日本固有のコレクティビティ」とは
――昨年、日本が連勝を続けている間は、日本のプレーはコレクティビティに依拠していると思われていましたが、実際にはそうではなかったということでしょうか?

「日本におけるコレクティビティとは、社会的な規律のことだ。日本のコレクティビティは監督を必要としない。日本社会を見たとき、日本人はコレクティブで他人を尊重して規律を保ち、秩序を守っている。日本人選手は味方によくパスを出すのがそれだ。

 コレクティビティは日本社会のベースとなるもので、戦略ではない。それは教育によるもので、日本の若い世代のプレーを見ても、彼らはコレクティブにプレーしている。一方で、選手には個の力を発揮する自由が与えられていない。日本では、個はコレクティブに従属している。日本社会は個が他人よりも大きくなることを認めてはいない。

【引用終わり】

日本社会の「個」が依存している「コレクティビティ」(規律とか)は以前書いた「儒家的な倫理観」が前提であるから、実際のところ「選手個人の能力が高くとも、実際に個が強く主張する部分は少ない」と感じる。

海外組がその地で(イングランド・プレミアリーグ/ラ・リーガ/ブンデス・リーグ/セリエA etc)活躍しているが、もしやそれは海外のチーム環境に依存して「個」の能力が開放されているのでは?とも思えるし、もう一方で「コレクティビティ」で言えば「日本の規律」と「戦略的な規律」がダブルスタンダードで存在し、今の日本代表のマネージャの方針が「日本的な規律」を前提としているので「戦略性がない」と云われているのは多くのフットボールファンも云っているのではないか?

引用部分に見られるように「コレクティビティは日本社会のベースとなるもので、戦略ではない。それは教育によるもので・・・」とある。海外で活躍できる人材が多いのにもかかわらず「日本人だけでチーム構成」した際に、唐突に今回の「アジアカップ」のように力を失ったのは海外勢にとっても歯がゆい現象だろう。

つまり「マネージャ」に「戦略的なコレクティビティが存在しない」のだろう。端的に云えば「どこからでも点が取れる」という事は、戦略的な規律は要らないと明言しているのだが、その自覚もあるのかどうなのか不明瞭だ。

これは、フットボールに限らず、日本社会のあちらこちらで出会う不思議な現象だが、その根源は「農耕民族」特有の日本社会の儒教的村落思考について、再度確認したうえで「戦略性」か「空気感」かどちらかを前提にしているのか?「異なる文脈の「規律性」を如何に使うか?」という事なのでないか。

「そして引用部分の決定的な文脈」
彼らはコレクティブにプレーしている。一方で、選手には個の力を発揮する自由が与えられていない。日本では、個はコレクティブに従属している。日本社会は個が他人よりも大きくなることを認めてはいない。

「今日の”note”の結論」
これが日本社会の弱点だが、そうやって二千年程度はやってきたのだから変われと云われても変われないし、この地域文化圏では一般生活をする上ではそれが一応「適切」なのだから。ビジネス界も同じで、熊本に「TSMC」がやってきてようやく「ごろり」と変化が起き始める。これの繰り返しにこれからもなると思われる。