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福澤諭吉の故郷、中津市を訪れてみませんか?

唐揚げの聖地として
東京に住んでいた頃、初めて会う人に「大分県の中津市出身です」と言うと、十中八九「唐揚げで有名な所ですね」と返された。

中津が唐揚げで評判になったのは2009年に「中津からあげ もり山」が東京に進出し、唐揚げグランプリで優勝を重ね、全国的なブームの火付け役となったのが始まりとされる。そして、商店主や街が一丸となって中津を「唐揚げの聖地」として盛り上げ人気が定着したようだ。

地元の人は、子供の時分から唐揚げをおやつのように食べており、中津の人にとってはソウルフードのようなもの。唐揚げは家で作るのではなく、店で買って食べるのが常識だ。今では市内に約50店舗の唐揚げ専門店がある。

ちなみに「中津からあげ もり山」の店主は私の小中学校時代の同級生。最近、彼の店を訪れ約40年ぶりに再会した。昔の厚顔の美少年が坊主頭で金縁メガネという姿で現れたので、そのオーラに少しひるんだ。店では来店した芸能人が彼を囲む写真が数多く壁に飾られており、テレビにも何度か出演したという。芸能人に引けを取らないキャラが立った同級生の存在があって「中津からあげ」が全国区になったと私は信じている。

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諭吉がディスった
中津は福澤諭吉(以下、敬称略)の出身地である。諭吉は大阪の中津藩の蔵屋敷で生まれたが、2歳になる前に家族と引越しした後、19歳で長崎に出るまでの多感な時期を中津で過ごした。

しかし、一般的に中津と福澤との結びつきはあまり知られていない。その理由はなぜか。最近『福翁自伝』(福澤諭吉著)を読み直す機会があったが、本の中で、福澤自身が今風の言葉で言えば、中津を散々ディスっており、評判が芳しくないのがその理由の一つだと思っている。諭吉にとって、中津の「門閥制度は親の敵(かたき)」であり、藩の攘夷派からは暗殺されそうにもなり、中津は後ろ足で砂を蹴って、二度と戻ってくるかと飛び出した古くさい町だった。

実際には、諭吉は中津との縁は大事にした。江戸にある中津藩の中屋敷で蘭学塾(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院近く、慶應義塾発祥の地とされる)を開いており、中津にも行き来をして『学問のすすめ』の元となった「中津留別の書」を記し、末尾には「人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん」という思いを言葉に残している。そして、何よりも中津出身者を多く塾に入学させ、近代日本の経済界で活躍する人材を育てた。

それでも『福翁自伝』で中津は反面教師として描かれており、結果として古くさい中津の印象が世間から注目されない理由になったのではと私は解釈している。

福澤諭吉は中津の人にとっては身近な存在だ。中津には「福澤通り」があり、今は「福澤諭吉旧居・福澤記念館」となっている場所に以前は「福澤会館」があって、市の記念行事やコンサートが行われていた。昔から旧居は公開されており、狭い部屋で諭吉が熱心に勉強をしたという話を私も親から聞かされた。しかし、諭吉が中津に対し愛想半ばの感情を持っていたことは、ずっと後になるまで知る由はなかった。

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官兵衛で有名になった
近年、唐揚げや福澤以外でも、中津市が評判になった。
2014年NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公は黒田如水。豊臣秀吉がもっとも警戒したとされる武将は九州平定の功で豊前6郡12万石の領地を与えられた。中津は官兵衛が大名となり河口に面した水城を築いた場所である。早くに息子の長政に家督を譲った官兵衛は、やがて関ケ原の戦の後、長政が52万石を与えられて福岡に移るまでの13年間、中津に居を構えた。

官兵衛の雅号、如水は中津市内の地名から取ったとも言われている。中津とは縁の深い戦国武将であり、大河ドラマの放映当時は観光客が大型バスでひっきりなしに訪れ、市内を見学したようだ。

尚、城下町には合元寺という寺があり、そこの赤壁が有名だ。中津の国人・地侍を束ねて反乱を企てた旧領主、宇都宮鎮房を長政は中津城内でだまし討ちにした。そして、鎮房の軍勢を全滅させた戦が行われたのがこの寺だ。この戦いで白壁が血で真っ赤に染まり、いくら取っても血の色が消えず赤壁に塗り替えたという伝説が残されている。ちなみに、司馬遼太郎は著書『街道をゆく34』でこの赤壁に触れており、宇都宮氏の謀殺は如水の「生涯の汚点」になったと記し、残念な思いを滲ませている。

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不滅の福澤プロジェクト
本年、中津市では「不滅の福澤プロジェクト」と題した、福澤と中津との縁を伝える官民一体となったプロジェクトが発足し、地元では話題になっている。

1万円札の肖像画が2024年の上半期に渋沢栄一に交代するが、福澤諭吉の偉功を後々まで中津から発信しようという主旨だ。これに関連して、中津市歴史博物館では「華麗なる福澤家の人々」という企画展示が行われていた。

これまで、中津市と慶應大学との関係は深まっており、大学はこのプロジェクトへの協力もしているようだ。

去る2月3日、中津で、慶應義塾福澤研究センター所長の平野隆教授による講演会に私も参加した。この日は福澤の命日で、毎年この日に市長や議会の長らが法要を行い、記念講演会を開いているとのことだった。余談だが、福澤諭吉記念全国高校弁論大会が毎年中津で開かれており、昨年60回大会が開催されたことも触れておきたい。

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中津市を訪れてみませんか
大分県中津市は、九州の北東部に位置し、北の福岡と山国川を挟んで県境にある。東は瀬戸内海の周防灘に面しており、北九州市の小倉と温泉で有名な別府の中間に位置し、両地点から電車で約30分の距離にある。博多駅からは特急電車で1時間20分、北九州空港、大分空港からは車で約1時間の距離にある。

交通の便は悪くないが、関東や関西から見れば、まだまだ中津は観光地としては縁遠いというのが実情だ。慶応義塾関係者がどれほどの割合で中津を訪れたことがあるのか心許ない。

中津市には城下町の街並みがあり、市内には宇佐神宮の祖宮とも言われる薦(こも)神社があり見事な生態系が保護されている。そして、山間部に入れば、頼山陽が名付けた耶馬渓という景勝地がある。この地は百年前には日本新三景に取り上げられ、紅葉でも有名だ。菊池寛の小説『恩讐の彼方』の舞台にもなり、田山花袋や大仏次郎など、多くの文人が訪れた。ひいき目はあるにしても、中津には、自然や歴史的観光資源が十分にあると思っている。

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おわりに 
1年前に、私は故郷の九州に約40年ぶりに戻った。今は福岡市に住んでいる。大学卒業後、外資系金融機関に勤務し、家事支援サービスの会社を経営した後の帰郷となった。

これまでの1年間、九州・沖縄の博物館や名所旧跡を50ヶ所以上訪れ、この地の自然や歴史・文化的資産を「再発見」し、紀行文に記してきた。今後、地元の中津・耶馬渓の地域おこしを観光の面から応援したいと思っている。

以前、福澤諭吉をテーマにしたNHKの歴史番組で、歴史家の磯田道史氏が「親の小言と冷酒は後で効く」という諺を引用し、自分はそれに「福澤の言葉」も付け加えたいと語っていた。是非、中津を訪れ、記念館にも立ち寄り、福澤の箴言に耳を傾けていただきたい。

最後に、中津は唐揚げだけでなく、鱧(はも)料理も有名であることを付記させていただく。

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