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福澤諭吉の反面教師  中津の言い分

「唐揚げの聖地」と言われて

中津(なかつ)は同じ県内だが中津江村(2002年日韓ワールドカップでカメルーンのキャンプ地として話題になった)とは違い、同名だが大阪市内にある中津でもない。ましてや博多の中洲とは関係もない。

最近は「唐揚げの聖地」として知名度は上がっているようだが、中津が福沢諭吉の地元として知る人が果たしてどれほどいるのか心許ない。慶応大学に縁がある人も少なくないと思うが、その中でこの地を訪れた人はどのくらいいるだろうか。

地理的には中津市は大分県の北西端にある。瀬戸内海の西の周防灘に面し、一級河川山国川を隔てて福岡県と接している。北九州市の小倉から温泉で有名な別府の間の中間に位置し、両地点から電車で約30分の距離にある。人口8万人超の地方都市である。

幕末から明治維新を生き抜いた啓蒙思想家・教育者の福澤諭吉(1835-1901)は齢40歳の頃、漢書生、洋学者として過ごした自分の人生を「恰(あたか)も一身にして二生を経るが如く」と称している。ちょうど明治改元(1868年)を挟んで日本の近世と近代という「二つの時代」を彼は生きた。中津は諭吉の出身地である。

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諭吉が中津をディスる

諭吉の生涯を記した自叙伝が『福翁自伝』(1898、以下『自伝』と略す)で、口述筆記したものを校正してまとめたものである。諭吉はこの本の中で、あたかも「二生」と「二つの時代」を行ったり来たりするかのように、中津での出来事や経験を繰り返し語っている。

最近、久しぶりに故郷の中津を訪れた。中津駅では「ようこそ 福澤諭吉先生のふるさと 中津市へ」の横断幕が目に入る。家に戻ってからこの『自伝』を再読した。

読み終えて、もしかすると、諭吉と中津との結びつきが弱く見える原因の一つはこの本のせいではないかと思えてきた。

というのも『自伝』の中で、今風に言うと諭吉は自分の故郷をさんざんにディスっているとも読めるからである。読者からすればディスられた中津に好感が持てるはずがない、分の悪い中津はどうしても印象が薄くなってしまうのではないかと思ってしまった。

早速『自伝』に描かれた諭吉の幼少時代からの記述を見てみたい。

福澤諭吉は大阪にある中津藩の蔵屋敷で生まれた。長男の次に女の子が3人続いた後の5人目の末っ子である。中津藩の下級武士であった父親は不幸にも脳溢血により45歳で急逝する。諭吉は1歳6か月の時に母親に連れられ他の兄弟と共に中津に戻ることになる。

「私ども兄弟5人は深い理由は特にないが、どうしても中津人と一緒にまじりあうことができない。」「中津では、兄弟は自然と一まとまりになって、気位を高くもっていた。中津人は俗物であると思って、心の中ではなんとなくこれを目下に見下している。人を馬鹿にしていたようなものでした。」

大阪弁と中津弁でそりが合わなかったせいも考えられるが、近所や従妹の子どもたちとさえも、諭吉はあまり一緒になって遊んだ記憶はないようだ。さらに、

門閥制度は親の仇

「中津では身分がすべてを決める封建制度で物をきちんと箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経ってもちょいとも動かない。先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、到底どんなことをしたって名を成すことはできない。」

「思えば、父の生涯、封建制度に束縛されて何事もできず、むなしく不平を持ったまま世を去ったことこそまことに残念です。小さいわが子の行く末を思って、これを坊主にして名をなさせようとまでに決心したその苦しさ、その愛情の深さ。私は毎度このことを思い出し、身分家柄絶対の門閥制度に怒りを感じるとともに、亡き父の心を察してひとり泣くことがあります。」そして、有名な句が続く。「私にとって門閥制度は親の敵(かたき)でござる。」

諭吉の父親は大阪の藩邸で勤務する漢学者だったが、同時に大阪の有力商人と藩の借金の交渉をするような役もやらされていて不平を持っていたという。

「私が幼少の時から中津にいて、始終不平でたまらないというのは無理もない。中津では、公用だけではなく、私的な交際から子どもの交際に至るまで、上下の区別がある。上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向かってはまるで言葉遣いが違う。ただの子どもの遊びにも門閥が付いてまわるから、不平のないはずがない。」

後ろ足で砂をかけて中津を出る

そして、14、15歳の頃から読書を始めた諭吉は、漢書を読み、世の中のことも少しずつ分かるようになった。兄や従妹たちが色々と藩の不平を漏らすのを聞きながら、

「よしなさい、馬鹿馬鹿しい。この中津にいる限りはそんな愚かな議論をしても役に立たない。不平があれば出ればいい。」と会話に水を差していた。後に自ら中津を出て、蘭学を学びに長崎に向かうのは時間の問題だった。

「そもそも私が長崎に行ったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのがイヤでイヤでたまらなくて、何を口実にしても外に出ることができさえすればありがたい、故郷を去るに少しも未練はない。『こんなところに誰がいるものか。一度出たら鉄砲玉で、再び帰って気はしないぞ。今日こそいい気持だ』と喜び、後を向いてツバしてさっさと足早にかけ出したのは今でも覚えている。」

諭吉はルビコン川を渡ったのである。

借金と暗殺ほど怖いものはない

そして、『自伝』では、人生で何が怖いかというと借金と暗殺だと諭吉は述懐している。ここでも中津での記憶が蘇る。

「およそ世の中に何が怖いといっても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。私どもの兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味をなめつくして、母の苦労した様子を見ていますから、生涯忘れられません。」

諭吉が長崎を出て大阪の適塾で学び始めた頃、8歳年上の兄が病気で亡くなり、家督を継ぐようになった。一時帰郷した諭吉は兄の病気の費用などで発生した多額の借金の返済に苦労した。父親が大切にしていた漢書の蔵書を処分するだけでなく、掛け軸や茶わん、家財の一切を売り払った。このときの中津でのつらさが記憶にあり、借金については大の臆病者だと記している。

また、開国論を唱えれば身に危険が及ぶ時勢の中、中津で諭吉への薄気味悪い暗殺未遂があった。

東京で慶應義塾を発足させた後の1870年、諭吉は老齢の母親を迎えるために中津に戻った。そして、帰りの船便が出る日の前夜、滞在先の宿で中津藩の攘夷派から襲撃されるところだった。攘夷派が仲間割れで時期を逸し、彼らが宿に着いた時にはすでに船が出た後だったことを諭吉は後に知らされることになった。

中津でよい思い出が見つからない

以上、長くなったが『自伝』を読むと、中津という古くさい町で諭吉は大変な苦労をした、そこから早く抜け出せたのは良かった、程度の印象しかやはり残らないのではないかと思う。

残念ながら全編を通して、中津はポジティブに語られておらず、諭吉も口述筆記の原稿に加筆修正することもなかったかと推測する。

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中津市学校と学問のすすめ

しかし、『自伝』での中津への辛辣な言葉とは裏腹に、実際の行動において諭吉は中津の士族との関係を維持し、色々と故郷の人を手助けしている。

そもそも、大阪を出て江戸で蘭学を教えるようになったのは中津藩からの任命である。蘭学塾は中津藩中屋敷(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院近く)で1858年から始めており、中津出身の生徒の多くもここで学んだ。ちなみに、この場所が後、慶応義塾の発祥の地となっている。

また、諭吉は故郷において洋学による人材育成を提言し、洋学校の中津市学校(1871-1883)の設立を支援している。慶応義塾から校長や教員を中津出身者を中心に派遣した。この学校は一時期生徒数は600名にも達し「関西第一の英学校」と評せられたという。

さらに、諭吉は母を迎えに中津を訪問した後「中津留別の書」(1872)という短いエッセイを残している。故郷の人に向け文明開化の時代に、洋学を学び一身が独立して生計を立てることの大切さを唱えている。ちなみに「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な書き出しで始まる『学問のすすめ』(1872)も元は中津の人向けに書かれたものだった。

そして、このエッセイの末尾には「人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん」と結び、すでに名を成した後、諭吉の中津への心情が吐露されている。

おそらく諭吉は生涯に亘り、中津の人たちとの交流は続き、洋学の普及、人材の育成、地域産業の振興等について支援をしていたものと思われる。

諭吉にとって故郷とは? 中津の言い分

あらためて、諭吉にとって中津という故郷はどういう存在だったのだろうか。

適切な表現は難しいが、愛憎半ばの反面教師だったというのが浮かぶ言葉である。

反面教師としても、もう少し中津時代をポジティブに描くこともできるのではないか、というのが同郷の私の言い分である。

まず、独立自尊のコンセプト、これは頑迷な中津という反面教師があってこそ編み出されたものだとはいえまいか。

そして、中津の閉鎖性ゆえに新しい世界への好奇心とハングリー精神が育まれ、西洋の新しい文明を受け入れる感性が備わったとも。

さらには、明治新政府の政治家にも堂々と物申す潔さ、これは幼いころから中津で培った反骨精神があったからだとはいえまいか。

諭吉にとって故郷は、反面教師であると同時に誰にも屈しない精神と独立心、好奇心やハングリー精神を育んだ揺りかごのような存在でもあった。届くかどうかは分からないが、ささやかな私の中津の言い分である。

もし「三生」があったなら

記録によれば、1870年、諭吉は母親の順さんを東京に呼び寄せ、亡くなるまでの4年間生活を共にしたようだ。そして、それまでには中津藩からの俸禄も終えており、母の逝去以降、中津との直接的な関係は遠のいたものと思われる。

1894年、還暦前に、諭吉は 20年ぶりに中津への墓参に子供二人を連れて帰っている。そのとき故郷のことをどのように子供たちに語ったのだろうか。この旅の後、間もなくして諭吉は『自伝』に着手している。

一行は中津市内から近い景勝地、耶馬渓にも訪れた。奇岩が連なる秀峰で有名な場所だ。この景観を保護するために後にこの一帯の土地を諭吉が購入したという。諭吉の郷土愛を物語るエピソードである。

余談だが諭吉の訪問後、20年ほどの時を経て耶馬渓は日本新三景に選ばれている。この時期、耶馬渓を舞台にした菊池寛の小説『恩讐の彼方に』(1919)が大ヒットし、さらに田山花袋の『耶馬渓紀行』(1927)も出版されている。世間に景勝地としての耶馬渓の名は広まったようだ。

もし、諭吉がさらに20年長生きをして中津での「三生」があったとしたら、現在の福澤記念館近くで隠居生活を送っていたとしたら、『自伝』の修正に手を入れる時間があっただろうか、、、。その時には「中津の言い分」も加えていたと思いたい。

故郷の恩人、福澤先生について、こちらもつい思い余って書いた面もある。気になる表現があればご寛恕願いたい。

参考文献:
『福翁自伝』(1898 齋藤孝編訳)
『学問のすすめ』(1872 齋藤孝訳)
「中津留別の書」(1872)
「福澤諭吉の近代社会構想と中津」(2016 西澤直子)
「中津市学校に関する考察」(1999 西澤直子)

関連サイト:

慶応義塾福澤研究センター http://www.fmc.keio.ac.jp/
福澤記念館 https://fukuzawakyukyo.com
中津耶馬渓観光協会 https://nakatsuyaba.com/

日本遺産「やばけい遊覧」


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