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打毬

 徳川家第八代征夷大将軍である徳川吉宗が享保の改革を行ったのは、日本近世史の中でもよく知られている出来事である。

 吉宗が就任するまでの江戸幕府は、第五代将軍綱吉によるまつりごと――儒学を中心とした文治政治、即ち武力よりも人徳を優先する指導を行い、武士階級に人倫教育を浸透させ、知識人として礼儀作法の習得を欠くべからざるものとして確立させた。

 しかし同時に、知識人としての威厳と体面を損なわぬようにと武士階級の間に奢侈しゃしが流行し、また幕府も生類憐みの令による四谷の犬小屋建築や獣類の保護等により大幅な財政難に陥り、それにより生じた武士階級全体の借金苦を解消せんと実施した貨幣悪鋳も、結果として経済を余計に混乱させるだけに終わってしまった。

 次代将軍の家宣、また彼の後を継いだ家継は、文治政治を引き継ぎながらも財政に関しては現状の解決に頭を悩ませ、正徳金銀の発行等で挽回を図ったものの、どうにか持ち直すだけで精一杯であった。

 家継がわずか八歳にして世を去り、次代将軍の候補として名が挙がっていた御三家筆頭の尾張藩主、徳川継友を抑えて吉宗が支持されたことについては、様々な理由がある。

 そのうちの一つが、紀州藩主だった頃から政治改革による財政再建に着手していたことだ。別に次期将軍の座を視野に入れての行動というわけではなく、単に断行しなければならぬほど紀州藩の財政が逼迫していたからである。

 まずかいより始めよ、という古語に従い、自ら質素倹約を旨として生活し、金の流れを明確にすることで過度な支出を抑制し、それまでの天災による修繕費用などでむ無き圧迫を受けていた財政を立て直した。

 文章にすれば簡単な対処法に思えるかもしれないが、為政者自身が激務の傍らで己の財布の口を固く締め、年貢米を換金して得た収入の膨大さと末端に関わる費用の眇眇びょうびょうたる金額の双方に目を通したうえで後者を基準に財務計画を立て、また贅沢に暮らす部下を厳しく戒めるのは、強固な意志と相当な覚悟が必要とされる。なんとなれば、それが悪政暴政とそしりを受け、御家騒動に発展する恐れもあるのだから。

 その難事を解決した事務的手腕も評価され、第八代将軍に就任した吉宗は、紀州藩主時代と変わらぬ政治改革を行った。

 これが後の世に言う、享保の改革である。

 収穫増の為にと新田開発を奨励し、水田に向かない土地には甘藷かんしょ――サツマイモをはじめとした農作物や薬草を栽培させ、治水工事により安定した収益の増加を図った。

 また、当時としては革新的な刑事判例集である公事方御定書の編纂や、金銭に関する訴訟については話し合いによる解決を優先する相対済令の発布等を行った。

 庶民救済を目的とした施政では、江戸で頻発する火事に対し、役人による火消しだけでは数が足りず緊急性に欠けると町火消しを設置し、また無料の医療施設として小石川養生所が設置された。

 後者を設置するきっかけとなり、享保の改革の中でも善政の象徴として広く知られる目安箱だが、当の吉宗が紀州藩主であった頃から「投書箱」なるものを設置していたことは、あまり知られていない。

 一方で、藩主時代に活用していた紀州の隠密を幕臣の御庭番として取り立て、全国諸藩の動向のみならず幕臣や代官に至るまで、その行動を監視させては逐一報告させていた。

 諜報活動と徹底した監視は、陰の力の強化と評すべきであろう。

 御庭番が陰の力の強化であるなら、陽の力の強化は軍事力の誇示である。

 悪令と名高い「生類憐みの令」、五代将軍徳川綱吉が発布させて以降は途絶えていた、将軍家の鷹狩りを復活させたのも、吉宗である。

 ただし、吉宗が復活させる以前の鷹狩りとそれ以降の鷹狩りとでは、その内容と意味合いが大きく異なっていた。

 復活して以降の鷹狩りでは、近侍は駕籠に乗ることを許さず、御狩場までの往復と御狩場内での移動はすべて馬に乗り将軍と同行する。

 御狩場では、番士ばんしと呼ばれる兵卒達が号令に合わせて常山の蛇の如く行動し、射手である将軍や近侍のいる方へと獲物を追い立てるのである。

 鷹狩りは、万が一にも幕府に弓引く者が現れた場合に起こるであろう戦に対する備えであり、何が起ころうとも防備と訓練は万全であると全国諸藩に誇示する儀式であると同時に、開戦時には前線に立つ番方ばんかたの演習でもあった。

 さらに鷹狩りが終了すると、番士の中から武芸を持って推薦された番士たちが、将軍の御前で弓術馬術を披露するしきたりになっていた。その中でも特に優秀と評されたものは、将軍や若年寄らの覚え目出度く、数少ない出世の糸口になるとあっては、腕に覚えのある番士たちが張り切らぬはずがない。

 その日その機を逃すまいと、日々の職務の合間を縫っては武芸に邁進していたという。



 さて。

 御狩場である駒場野の、小高い丘の上にてそのお披露目を上覧し終えた吉宗公は、馬上にてひと言ぽつりと漏らした。

「もう一つ、欲しいな」

 撤収の作業に取りかからせていた、将軍家御側御用取次の加納近江守久道は、その呟きが耳に入るや否や慌てて配下に命じる。

「これ、撤収はまだじゃ。急いで次の獲物を」

「いやいや、そうではない」

 近江守の命令を遮ってから、吉宗公は張りのある角張った顎で、くいと駒場野の斜面を指し示す。

「この鷹狩り以外にも、もう一つ演習をすべきではないか、と考えておったのだ。ただ兵卒が号令通りに動き回るだけではない。相対して馬を馳せ交わし競うような訓練、つまりより実戦的な演習も行うべきではなかろうか。どうだろう」

 どうだろう、も何もない。将軍の命令は絶対である。

 この世で征夷大将軍のお言葉に逆らうことが出来るとすれば、京におわしになる天皇家を置いて他にないのだ。

 それでも敢えて近侍に賛否を問うのは、紀州藩主として財政再建の為とはいえ、家臣らに苦渋の倹約生活を強いてきた後ろめたさがあるのだろう。吉宗公が普段から臣下にすら砕けた物言いを許しているのも、その名残と思われる。

「徒歩での剣や薙刀による試合のようなものだ。それも実戦を鑑み、一対一ではなく数名による集団戦で、なるべくなら怪我人を出さないものが最上であろう」

 難題である。

 徒歩での試合でさえ、打たれて怪我は勿論のこと、当たり所によっては死ぬことだって良くあるのだ。敗者は落馬が順当であろう騎馬戦では、負傷者が続出するのは妥当な結果であると言えよう。

「何も、殴り合え殺し合えとまで言っておるのではない。騎馬の集団でぶつかり、それでいて流鏑馬やぶさめのように的か何かを使って甲乙勝敗が決まるような演習方が無いものか、と考えておるのだ」

 当時としては、まさに無理難題である。

 ただ近江守には、その無理難題を解決する方法が、雷電の如き閃きと共に浮かび上がった。

「虫の良い注文だと、わかってはいるが」

「ございます」

 当意即妙とばかりに返答した近江守の声に、吉宗公の顔つきが変わった。

「なんと」

「実は――」



 数日後。

打毬だきゅう?」

 江戸城本丸御殿の御用部屋。

 老中の執務室とも言うべき一室に呼び出された大番頭の太田隠岐守資良は、老中水野和泉守忠之の口から飛び出した聞き慣れぬ言葉に、怪訝な表情を浮かべたままの面を上げた。

「うむ」

 頷いたのは和泉守ではなく、隣に鎮座する御側御用取次の加納近江守である。

 将軍吉宗公より十と幾つか年上だが、幼き頃から一貫して吉宗公に仕え続けてきた男である。彼を養子として親戚に預けた実父の加納政直は、吉宗公が御年五つになるまでの育ての親でもあり、主従の関係でありながらも、同時に肉親に類する結びつきを有しているとも聞く。

 その近江守が御用部屋に居られるにも関わらず、自分如きが召し出されたこと自体が不可解な話である、と太田は勘繰った。

 近江守が、膝をずいと前へと突き出す。

「打毬とは、競技の一種である」

「競技、でございますか」

 まず、その競技というのがよくわからない。

 弓技ではないのか。

「うむ。源氏が平家を討伐するよりも前の時代、恐らくは平穏であったと推される時代に流行していたという、馬と毬と杖を使った競技であるそうな」

「馬と、毬と、杖」

 ますますもって、よくわからない。

「左様。その歴史は大変に古く、かの万葉集にもその名が残されておる」

 万葉集なら、太田も若い頃には全文を記憶するほど愛読していた。

 しかし出世するに従い、若い頃の愛読書を読み返す暇も無くなり、また日々の業務と折り目正しい生活に押し流されるかの如く、青春時代の鮮烈な記憶も徐々に薄まり、今となっては内心で「はて、そんな一首あったかしらん」と首を傾げる有様である。

「大雑把に言えば、参加者を二組に分けてから数名ずつの班に分け、その者らが騎乗して杖を構え、陣中に投げ込まれたまりを奪い合って、規定の門に放り込むことで勝敗を決める競技である」

「成程」

 一応理解したふりはするものの、太田にはその打毬なるものが一体如何なる内容なのか、まるで理解できないし想像もつかない。

 馬上で槍や薙刀を振るって争うのではなく、そうかといって流鏑馬のように一騎駆けで的を射るようなものでもなければ、単なる早駆けというわけでもなさそうである。

 大体、毬を使うのならば蹴鞠けまりだろう。

 それ以外に何があるのか、太田にはとんと思い当たる節が無い。

 そんな苦悩を面に出さず、上役の前ではわかったようなふりをする。

 これが――有事の際には先手役となる大番の総括にして役高五千石という――大番頭の太田隠岐守が会得した処世術であった。

「勿論、奪い合うといっても殴ったり殺したりするようでは困る」

「はっ」

 当然でございますな、とは口が裂けても言えない。

 主君の為ならば、それを喜んでやるのが臣下の務めである。

「それを行うにあたり、さて我らが役職の中で最も適しているのはいずれであろうかと皆で相談したところ、やはり五番方、それも大番が適任であろうとの見方で一致した」

「恐悦至極に存じまする」

 太田は、二人に対して深々と拝礼した。

 大番の名が出てくるだけでも、ありがたい限りだ。

 幕臣旗本の中でも特に重要な兵力と考えられているのが小姓組、書院番、大番、小十人、そして新番の五番方である。

 大番は、基本的に徒士かち――即ち歩兵である小十人や新番とは異なり、さらに小姓組や書院番のように戦場で将軍家の身辺警護を主たる役割としない騎馬部隊である為、戦場では縦横無尽に動き回る主戦力としての活躍を大いに期待されている。

 その反面、平時では警備以外の任務にあて辛く、将軍の身辺警護を行う小姓組やその機に預かる書院番、実地調査の為に出張する小十人や将軍外出時の警護役であった新番に比べると、大番の任務は城内警備のみとやや影が薄い。

 さらに、元々は本丸御殿の警備を担当していた大番であったが、第三代将軍家光公の治世に新設された新番にその役目を追われ――実際は役職異動の混乱によるものなのだが――今では政務に関係のない二の丸御殿や西の丸御殿の警備が、主な任務となっている。

 有事の主力にして平時の無駄飯喰らいという評判は、大番の番士およびその配下たちの士気を大幅に下げているのが現状だ。ここで徳川家に大番ありきを世間に喧伝してみせろという、和泉守の粋な計らいなのかもしれない。

「そこで、だ。まず大番は十二組ある」

「はっ」

「組一つにつき番頭一名、組頭四名、番士五十名に与力と同心が付いておる。その十二組のうち、今年は二条城と大阪城の勤番となっておる四組を外し、残った八組の中から二組、それぞれ二十五名を選出する。その中には組頭が入っておっても構わぬ」

 合わせて五十名、中々の人数である。

 近江守が、和泉守の後を引き継ぐかのように言葉を続ける。

「場所は、先日御鷹狩りが行われた駒場野。開催日は後日伝えるが、時刻は早朝をもって開始とする予定であるので、遅番の参加は控えるよう伝えよ。尚、当日は上様もご照覧あそばす大事な行事である。くれぐれも心得よ」

「はっ」

 額づきながらも、太田の胸中には奇妙な引っ掛かりが残る。

「言い忘れておったが、勝者となった組には、褒美として金一封を与える」

「えっ」

「さらに勇猛なる活躍をした者には、上様より直に酒肴しゅこうを賜る栄誉を得られるかもしれぬ」

「なんとありがたき幸せ。大番一同、感謝の念に堪えませぬ」

 元禄からの奢侈流行による武家社会の財政的困窮については、前にも述べた。

 就いた職務による俸禄がほぼ固定している封建制度下の社会では、直接的な出世以外に懐を潤す方法が、内職かまいないに限られている。

 如何に城内では軽々しく扱われる大番といえど、旗本は旗本。庶民は勿論、与力や同心よりも遥かに位と権威は上である。当然ながら伝手や贔屓を頼りにして賄を貢ぐ者も多くいたし、それを受け取る側も黙認されることが多かった。

 その賄が、吉宗公主導による贈収賄取締運動により火中の栗となってしまった現状、金一封は大番一同にとって願ってもない朗報であろう。

 さらに、吉宗公より酒肴を賜るということは、御鷹狩以外にも出世の糸口が見えたことになる。

 ただ、残念ながら大番頭の参加は認められていない。

 胸中密かに「俺も番士になりたかった」と悔しがっていた太田隠岐守だが、次の瞬間には面を上げ、胸中の引っ掛かり――聞いておかなければならぬ要点を口にした。

「それで、番士共には如何なる支度をさせましょう」

「うむ。試合に必要な馬と道具は、各自で調達用意するようにと伝えよ」

「お言葉ではございますが、某は打毬について何も知りませぬ。一体、何を用意すれば良いのでございましょう」

 大番頭の質問に、老中と御側御用取次は揃って顔を見合わせた。

「実は、我々にもそれがさっぱり不明なのだ。各自で調べるように」




 先に行動したのは、大番壱番組だった。

 大番弐番組と共に打毬出場者として選出されたものの、壱番組の番頭である神谷淡路守三郎次郎には、その栄誉を喜ぶような暇すら無い。

 打球についての情報は、今のところ断片的にしか存在せず、規則や定石を知りたければ自分達で調べるように、とのお達しである。

 当然、弐番組もそれを知りたがろうと行動するだろう。

 史記にこうある。

「先んずれば即ち人を制し、遅るれば即ち人の制する所と為る」

 さらに、特別出勤を渋る番士らには、得意の戦術論を繰り出し説教する。

「孫武の虚実篇にもあるではないか。善く戦う者は人を致して人に致されず、と。こちらが規則や定石を把握し、弐組が何もわからぬまま当日になれば、我らが敗北は西から日が昇るようなもの、絶対にあり得ぬ」

「それは流石に、試合と認められなくなるのではございませぬか?」

「それに、武士らしい正々堂々とした勝負とは思えぬのですが」

 打球に関する情報を根こそぎ独占し、弐組には一切与えないという作戦に、難色を示す番士たちを神谷は一喝する。

「たわけっ! 儂と弐組の山城守が同じ場で、太田様より勝負を命じられた時点で、戦いは既に始まっておるのだ。勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦いを求むる。これも孫子の軍形篇に記されておるではないか。知らんのか、嘆かわしい」

 また始まった、と神谷に付き従う組頭の仁藤政成は胸中で歎息する。

 大番は大番頭の下に十二組あり、組毎に番頭一名と組頭四名が付くことは、前にも述べた。

 壱組の番頭である神谷淡路守は、山鹿素行の「孫子講義」を人生の指南書としており、部下にも読むよう勧める傍ら、日常の業務の中でも部下に格言を用いて指示したり叱責したりと活用している。

 その為、同僚の番頭や部下からは「軍師殿」「孫子病」などとありがたくないあだ名をつけられ陰口を叩かれていた。

「まただよ」

「泰平の世で役に立つのか」

「そもそも指揮官が読むものであって、俺たち兵卒に読ませるものではないだろうに」

「言わせてやれ、俺は読んでいるぞ知っているぞと吹聴したいだけなんだから」

 もはや悪癖とまで揶揄されかねないほどの孫子好きである神谷だが、そのくせこういう場面で、兵法の礎ともいうべき一文――

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」

 という謀攻篇の一文を失念していたのは、迂闊としか言いようがない。

 その孫子病――神谷淡路守が、組頭を含めた裃姿の出場者二十五名を引き連れ向かったのは、江戸城の本丸と西丸の間にある、新御蔵とも称される紅葉山文庫。

 現代に例えるなら、江戸城の図書館である。

 江戸幕府が開闢すると同時に、御神祖家康公の代から全国より集められた書籍漢籍、古文書の類を蔵している。元々は本丸にある富士見亭に建てられていたのだが、家光公の治世に城内の紅葉山廟の隣に移転されたという。

 城内、と言っても場所は屋外の森の中だ。しかもただ書物を掻き集めただけではなく、その中には家康公が駿府に隠居した際、江戸城から持ち出した書物や、先々代の家宣公が所蔵していた書物等も収められている、言わば遺品の保管所でもある。

 当然ながら所蔵数は膨大。書庫だけでも三棟ある。たった二十数名で、打球に関する情報を見つけ出そうと手当たり次第に書物を読み漁っていたのでは、埒が明かない。

 幸いにも、将軍に就任したばかりの吉宗公が、儒家の林家に命じて紅葉山文庫の目録を作らせたという噂話を覚えていた神谷は、「打球についての調査を行うにあたり、どうしても必要なこと」と太田隠岐守に願い出て、老中水野和泉守経由でその目録を借り出すことに成功していた。

 汚損で御役御免、紛失ならば切腹改易が必定の、危険極まりない代物である。

 さてその目録を片手に、紅葉山文庫を警備管理する書物奉行に閲覧を願い出た神谷は、許可が下りた直後に、書物奉行に対してもう一つ頼みごとをした。

「間もなく、弐番組の古井山城守もこちらに推参し、同じように閲覧を願い出ることになりましょう。その際はお手数ではございますが、今回に限り特別に、我々壱組がそれらの資料を持ち出したことにして戴けませぬか?」

 書物奉行は眉根を寄せて問う。

「何故でござろう?」

「なに、これから対決する相手に定石を授けたくないという、当然の発想でござる」

「不公平になりませぬか?」

「自ら必要な情報を集めよ、という命は同じ時に下されてござる。勝負の世界は非情、出遅れる方が悪いのでござる。もしこのお願いを聞いていただけるのであれば――」

「賄は受け取れぬ」

 当然と言えば当然だが、吉宗公が贈収賄の取り締まりに力を入れていることは、幕臣の誰もが知っている。吉宗公の発案による催事で贈収賄があったのでは、本末転倒である。

「それはこちらも重々承知。我らが勝利の暁には、吉原の花柳亭にて一席設けようと考えておりますが、御同席して戴ければ、と」

「むっ」

 確かに、金銭物品の贈答は賄賂と断定されるが、宴会への招待――まあ接待だ――となれば話は別だ。単に知己である友人を招待しただけということになり、特に咎め立てられるような罰則も無い。

「なんでも花柳亭は、美人が粒揃いだという噂」

 うっと声を詰まらせる書物奉行。

 彼が大の女好きである事を、神谷は既に把握していた。

「如何でござろう」

「うむ」

 書物奉行からすれば、打毬による勝敗など、彼の業務や生活になんら影響を及ぼすようなものではない。どちらが勝とうが負けようが、どうでも良いのだ。

 それならば、この誘惑に顔を背ける理由など無い。

「相わかった。山城守は、某が煙に巻いておこう」

「お頼みいたします」

 書物奉行は若年寄支配、対して大番は老中支配である。格としては大番の方が上なのだが、それでも腰低くして頼み込むあたりに、神谷淡路守の老獪さが見て取れよう。

 紅葉山文庫三棟の手前で二十五名を三班に分け、目録からそれらしき文献の候補を幾つか挙げ、全員に伝え終えた神谷は、銅の龕灯がんとう片手に己の担当である第一棟に入るなり、うっと声を詰まらせた。

 多い。

 覚悟を決めてはいたものの、想定を遥かに上回る数の蔵書が暗夜の中で幾層にも積み重ねられており、さながら石灯籠が立ち並ぶ神社の境内を思わせる。

 ここから、打球に関する資料だけを抜き出さなければならないのか。

 その名すら歴史の波濤に押し流されかけているというのに、はたしてどれだけ救い上げることが出来るのだろうか。

「神谷様」

「うむ」

 番士の声で我に返った神谷は、気を取り直して彼らに命を下す。

「手配通り、各自分担して事にあたれ。それらしき文章を見つけたならば、まずこの淡路守に報告せよ。先程も伝えたが、必ず二人一組、閲覧係と龕灯係に分け、絶対に火種を落としてはならぬぞ、良いな」

「はっ」

「行け」

 号令一下、番士たちは忽ち分散し、命じられた通り二人一組となって作業に取り掛かる。

 報告待ちと見張りを兼ねて表に出た神谷だが、これなら人数を倍に増やすべきであった、よくよく考えてみれば情報の収集だけなのだから、参加者以外にも人を使っても差し支えなかったのだと、他に聞こえるものが無いよう小声で愚痴をこぼす。

 第一の障害が、早々に現れた。

「おい、これを見ろ」

「どうした?」

「噂に名高いタイ捨流の手引書らしい。これは実戦で使えるかもしれんぞ」

「なに、本当か? 俺にも読ませろ」

「なにをやっておるかっ!」

 声を聞きつけ乗り込んできた神谷の一喝に、打球とは無関係の書籍に食い入っていた番士たちは慌てて背筋を伸ばし直立する。

「貴様らは打球に関する資料を見つければならんのだ。手引書など読んでおる場合かっ!」

「しかし神谷様、武芸の研鑽は上様も御推奨で」

「時と場合によるわっ!」

 手引書を取り上げ調査に戻すと、今度は文庫の片隅で啜り泣きの声。

「どうした、何があった」

「いえ、某は養子でありまして、生家は奥州にございます。この書は奥州さんさ踊りについて書かれておりまして、ふと懐かしき郷里がまぶたに浮かんでしまい……」

「某も養子の身なれば、もらい泣きにございます」

「だから打球について調べろと言っておるではないかっ!」

 またしても書を取り上げては作業に戻らせること数十回。

 手にした書物を読み耽っては泣く者笑う者、目を輝かせる者もいれば涎を垂らす者もあり、中には何処から紛れ込んできたのか、淫猥な雑書を見つけて下品な笑みを浮かべる者までありと、番士たちの作業は寄り道ばかりで一向に進まない。

 その度に彼らから書物を取り上げ、仕事中だぞ気合を入れろと頬を張り、例の春画本を喜んでいた奴には「馬鹿者っ!」と一喝してから拳骨を浴びせてきた神谷だが、そのうち取り上げた本の置き場所に困った。

 本来ならば徳川家の将軍が閲覧される大事な書物なのだから、土間に直置きというわけにはいかぬ。そうかといって元の場所に戻せば、また番士たちがこっそり読み始める。

 仕方なしに肩衣を脱いで土間に敷き、その上に書物を乗せ重ねる。

「あった!」

 棟の奥から声が上がったのは、肩衣の上に積み重ねられた書物が神谷の背丈に届かんとしていた頃だった。

「万葉集! 万葉集にござる!」

 その一冊を開いたまま、番士の一人が早足に神谷の方へと駆けてくる。

「おかしい。某は先程、あちらにあった万葉集に目を通したが、打球のだの字も載ってはおらなんだぞ」

 泣きぐずっていた番士が待ったをかけたが、さらに春画本を読んでいた番士の甲高い声が重なる。

「いやいや、万葉集は編纂した時代によって特定の和歌が抜け落ちていることもあるという。恐らくは、その一首こそが抜け落ちたものではなかろうか」

「ともかく、その箇所を早く見せい」

 万葉集を受け取った神谷は、日光が書物を痛め易いということも忘れて表へと飛び出し、陽の光の下で「打球」の一文を探し回る。

「これか」

「梅柳 過ぐらくを惜しみ佐保の内に 遊びしことを官もとどろに」

 解説によると、神亀四年に皇族や臣下の子弟たちが春日野にて打毬で遊んでいたところ、急な雷雨が起こったにも関わらず、宮廷には警護の兵が居なかったことが露見し、担当の兵たちは謹慎を命じられたのだという。

 同じ警備兵である大番としては、身につまされる一首である。

 神谷はこの先も延々と読み進めていたものの、この解説以外に「打毬」の二文字は見つからなかった。

 しかし、神亀四年という大昔には確かに打毬という競技が存在していたこと、そして皇族も愉しむほどの高位な競技であったことだけは確かなようである。

 作業を一旦取りやめさせ、集った一棟の番士たちに以上の内容を伝えると、彼らは皆一様に顔を輝かせた。

「そのような高尚な遊びだったとは」

「その復刻第一番手となるのが、我々でございますな?」

 ただ、これだけではたいして意味がない。

 わかったのは、打毬に関する伝統と格式だけだ。

「そういえば、当家にも万葉集があったような」

「実は当家にもあった覚えがござる。帰宅したならば確かめてみなければ」

 朗報は、立て続けに起こるものである。

「神谷様、ありました!」

 二つ目の棟から駆け出してきた仁藤が、両手に広げていた書物をばんと突き出してくる。

「西宮記にござる。鎌倉より前の時代における有職故実や儀礼について記されている書にござるが、ここに」

 仁藤が指さす先には、確かに「打毬」の二文字が鎮座している。

「打球者四十人列、殿前再拝、雅楽挙幡泰楽」

 おぅ、と神谷は低く唸った。

 冒頭の「球」という字は、恐らく「毬」が変化したものだろう。

 しかし――

「四十人?」

 二十五人ずつ、合わせて五十人ではないのか。

「多分、昔は二十人ずつで四十人だったのでございましょう」

 言い出したのが誰かはわからないが、それはそれで解釈が成り立つ。

「この、雅楽挙幡奏楽というのは、なんであろうな?」

「文章から察するに、勝者への誉れとして楽隊が演奏するのではございませぬか?」

「いや待て、演奏するのは我々ではないか?」

「ひょっとして、我々が馬に乗りながら演奏するのか?」

「そんな馬鹿な」

 様々な憶測が飛び交うも、こちらは万葉集とは異なり、読み進めていくうちに詳細が明らかになる。

「なるほど。毬を門に放り込むことで得点となり、その時にのぼりが挙げられ、試合場の南北に配置された楽隊がそれを称えて演奏するのか」

 神谷の解釈に、番士たちの間からほっと安堵の吐息が漏れる。

「ふむ。大臣が投げ入れた毬を毬杖で打ち合いながら毬門に放り込むのが、基本的な流れのようだな」

「馬上で、でございますか」

「無論」

 ようやく武士らしい内容になってきたことが嬉しいのか、皆がおおっと声を上げた。

「して、毬杖とは?」

「それは詳しく記されておらぬ。毬を扱う道具であることに間違いは無いのだが」

「杖という以上は、武芸十八般にある杖術――半棒のことではございませぬか?」

「いやいや、馬上で振り回すのに杖では短すぎる。振り杖のように、鎖分銅が付いているのではあるまいか?」

「馬鹿な、鎖分銅でどうやって毬を放り込むのだ。先端にのようなものを付けているに相違あるまい」

 番士たちの意見を聞いているうちに、神谷の脳裏に見慣れた道具が浮かび上がった。

「――柄杓?」

 おおっ、とまた番士たちが一斉に声を上げる。

「なるほど柄杓か、それなら腑に落ちる」

「しかし、柄杓ではあまりにも小さくないか?」

「大きくすれば良いのだ。いや、柄杓の大きいものが毬杖なのだ」

「これだ。これで勝ったも同然だ!」

 禍福はあざなえる縄の如し、という。

 ちょうどこの時、第三の棟から飛び出してきた男が、新たな雷雲を投げ込んできた。

「ありました、ありましたぞ!」

 泰平の世ではすっかり廃れてしまった鍾馗髭を生やしたこの男の名は、柴崎大三郎。

 剣術馬術弓術に秀でているものの、いわゆる粗忽の者であり、今回も将軍家の蔵書を千切れんばかりに振り回している。
 その髭も、宮仕えの者は生やしてはならぬという決まりがあるのだが、「うっかり剃り忘れた」を繰り返して現在に至る、という有り様。もっとも大番内では、髭を生やした男に仕事を与えてはならない――その仕事が駄目になってしまうからだ――という暗黙の目印になっている。

「ありましたではないわっ! 御蔵書を手荒に扱うでない!」

「ほら、ここです!」

 神谷の叱責も耳に届かないのか、開いた書物の一部分を、ごつごつとした手から生える太い指で指し示す。

「この書物は?」

「日本書紀にござる。ほれ、ここにございます」

 ところが神谷が件の箇所に目を通す前に、柴崎が持ち前のがらがら声で読み上げる。

「打毬に……ええと、義あり。騎馬で杖を持って毬を打ち、荊楚歳時記や史記正義では蹴鞠をいうという。これのことでございますな!」

 柴崎は、ここで大きな粗忽をやらかした。

 正しい文は、こうである。

「打毬には二義があり、一に騎馬で曲杖をもって毬をうつポーロ風の遊戯をいい、荊楚歳時記や史記正義では蹴鞠をいうという」

 つまり柴崎は、「打毬」の一語を見つけ出した興奮のあまり、打毬と呼ばれるものには二種類あるという大事な箇所を読み飛ばし、尚且つ自身がそれに全く気付いていなかったのである。

 だが、その間違いに気づかなかった神谷と壱組番士たちは、途端に大混乱に陥ってしまった。

「なんということだ! 打毬とは、杖だけではなく足も使わねばならぬのか!」

「蹴鞠は鞠沓まりぐつを履かねばならぬというが、儂はあんなもの履いたことがないぞ! それに蹴鞠の作法も知らぬ!」

「待て、鞠沓を履くということは、我ら全員公家の装いをしなければならぬということではないか!」

「確かに高貴な装いではある。高貴な装いではあるのだが!」

 水干を身に纏い白粉を塗りたくった己の顔を想像し、悶絶する大番壱組一同。

 さて、冒頭にも語った神谷淡路守の孫子好きであるが、ここでもやはり用間篇にある一文、

「成功の衆に出づる所以の者は先知なり」

 これを忘れていたのは迂闊であり、それが当日の混乱に拍車を掛ける結果となってしまうのだが、それはまた後の話。





 してやられたと気づいた時には、手遅れだった。

「無い?」

「左様。打毬に関する資料は、すべて壱組の神谷淡路守が持ち出してござる。必要とあらば淡路守に叩頭し、閲覧させてもらう以外に方法はござらぬ」

 それは無理な話だ。

 大番弐組番頭の古井山城守も、神谷淡路守と同様に、打毬に関する情報を独占したくて、書物奉行に紅葉山文庫の閲覧を申し出ていたのである。

 先手を取った孫子病の軍師殿が、易々とこちらに情報を提供してくれる筈がない。

「しかし、紅葉山文庫の蔵書は徳川家代々に伝わる宝も同然。そのような貴重な品々が持ち出されるとは、一体如何なる所存あってのことか。万が一にもそのまま紛失などあろうものなら」

「淡路守は、上様より特別の御計らいにて、紅葉山文庫の目録を貸し与えられておられる。某と共に一冊ずつ書名を確認し、万が一の際には壱組全員が厳しいお咎めを受ける手筈にてござる」

 これは嘘だ。そんな約束はしてないし、そもそも資料は一冊も持ち出されず、紅葉山文庫の奥で再び眠りについている。

「ならば我々弐組にも、残された蔵書を閲覧する許可を」

「時間の無駄でござる。目録も無しに書物を探し回るのは、本来ならば我々の務め。何も知らぬ方々が人数を恃んで闇雲に探し回ったところで、その打毬とやらの開催に間に合うとは、到底思えませぬ」

「それならば」

「我らが蔵書を探す為には、まずは御老中の認可が必要にござる。認可の程は如何」

「それは」

 無い。あるわけがない。根回りに怠りなく迅速に行動した淡路守とは違い、番士たちに回りくどい説明をしてから質問責めを受け、僅か数名を供にやって来た古井である。

 依頼や認可といった手回しなど考えていなかったし、よもや目の前の書物奉行が既に買収されていようとは、夢にも思わない。

 そうかといって、格下の書物奉行に諭されたので認可を戴きに見参した、など和泉守に申し出ようものなら、この先の出世街道は閉ざされたも同然。それだけはなんとしても避けたいところだ。

「如何でござろう。ここは一つ、紅葉山文庫以外に解決の糸口を求めるべきではございませんかな」

 資料が持ち去られたというのであれば――実際には残っているのだが――それ以外に手立てはない。手間を掛けさせたと書物奉行に礼を言い、肩を落としながら廊下を歩く古井に、供連れの一人が声を掛ける。

「古井様」

 振り返ってみれば、番士の青肥あおごえ歌之丞である。

 青肥は、その名に相応しい青白い顔をしていながら手足は逆に細長く、どうしてこの男が猛者揃いの大番に紛れ込んでいるのかと不思議に思いたくなるような容貌をしていた。

 武芸の腕前はからっきしで、馬に乗っても言うことを聞かせられず、肉体労働は真っ先に音を上げる根性なしだが、その代わり目端が利き、その場に足りぬと思ったものを既に用意している要領の良さが目立つ、右顧左眄うこさべんの男でもある。

「とんだことになりましたな」

「まったくだ」

 それもこれも、配下の梅平内記が悪いのだと、古井は胸中で愚痴る。

「このまま勤めに戻ったのでは、組頭や貴様ら以外の番士に合わせる顔が無いわい」

「淡路守に貸与を申し出られてみては」

「無理であろう。調べている最中だからと、一冊たりとも貸してはくれぬ。そうすることで壱組の勝利はより確実なものになるのだ。やらぬ理由が無い」

 規則も定石もわからず試合に挑むのは、暗夜を彷徨っているところへ襲撃を受けるようなものである。勝ち目が無い。

「それでは古井様には、打毬に関して何か手掛かりを得る伝手がおありでございますか?」

「あるわけなかろう」

 打毬そのものが、生まれて初めて耳にした言葉である。

 それでは、と青白い顔をてらてらと光らせながら、青肥は言葉を続ける。

「某の同郷で江戸住まいの知人の中に、有職故実に詳しい儒学者がおります。彼ならば、打毬について何か知り得ているのではないかと」

「その者の名は?」

草井木石くさいぼくせきと申します」

「青肥、貴様は尾張の出身であるな?」

「はい」

 吉宗公が将軍就任の折、侍講として家宣公と家継公に仕えていた朱子学者の新井白石を罷免したことは、記憶に新しい。また、吉宗公にとって将軍就任の対抗馬であった徳川継友公は、尾張藩主である。

 幕臣の中でも剛毅を信条とし、切磋琢磨を旨とする番方――特に大番にとって、徳や学問に比重を置いた儒学者主導の文治政治は、その事由や効果などについて、ある程度の理解は出来るものの受け入れ難いものがあった。

 ましてや、尾張藩は吉宗公を快く思っていないという噂も立っている。下手に教えを乞うていらぬ波風を立たせたくはない、というのが本音であるが、このさい背に腹は代えられない。

「如何でございましょう?」

 否も応もない。溺れているも同然なのだから、とにかく一縷の藁にでも縋りたいという心情を吐露したいところではあるが、そこは一応仮にも旗本だ。

「よかろう。貴様の申す助け舟、ものの試しに乗ってみようではないか」

 古井山城守が青肥歌之丞の提案にうかうかと乗ってしまった理由の一つは、彼が大番随一の洒落者しゃれものを自称しており、この窮地における青肥の助け舟が、さながら講談の一場面の如くに思えたからである。

 尤も、これが泥船だったと気づくのは、試合当日になってからのことなのだが。

 腹を決めた古井により呼び出された組頭の土田文十郎と二十三名の番士たちは、古井の説得により諸手を上げて賛成したが、ただ一人異を唱える者がいた。

「その草井木石なる学者、信用できるのでございましょうか?」

 梅平内記のひと言は、打毬に関する新たな情報源の登場に沸き立つ弐組番士たちにとって、冷たい井戸水を頭からぶっかけられたようなものだった。

「いきなり何を申すか、梅平」

「お前はそうやって、いつも余計な心配を始める」

「そもそも古井様が出遅れたのは、貴様の質問責めが原因ではないか。少しは反省しろ」

 梅平内記は、大番弐組の厄介者であった。

 蔵米三百俵の新参番士であるが、江戸幕府開闢かいびゃく以来、天下泰平の風潮に汲々としている番士の中ではひときわ峻厳かつ向上心に満ち溢れており、上司や先輩に対しても物怖じせず発言するので、周囲からは煙たがられていた。

 打毬が本当に演習として役立つのか。

 同じ番方同士を競わせるのは、両者間に遺恨やわだかまりが生じるのではないか。

 思いつきを実行に移す前に、一度組頭同士で話し合った方が良いのではないか。

 隠岐守より与えられた、打毬に関する情報を伝えた時も、梅平は突っかかるかのように質問を浴びせてきた。

 古井としては、梅平の執拗かつ融通が利かない点は御し難く、時には腹立たしくもあるのだが、青肥とは対照的に壮健で文武ともに優れた梅平が、顔と性格を除けば非の打ちどころがない男であることも、また認めていた。

「しかし、そのような海の者とも山の者ともわからぬ儒者に話を聞いたところで、はたして真実を教えてもらえるかどうか、怪しいところではござらぬか。それよりかは我らが窮状を水野和泉守様に訴えて出て、より堅実な情報を与えてくださるであろう方を御紹介していただくべきでは」

 梅平の進言に、しかし古井よりも先に青肥が甲高い声を上げた。

「なんと申すか梅平内記。貴様、この青肥が出まかせを申しているとでも言いたいのか」

「そこまで言うてはおりませぬ。ただ、知っているかどうかを確かめてみてからでも遅くはございますまい」

「それには及ばぬ。これは儂、古井山城守矩政の決定である」

 梅平の意見を受け入れるならば、まず古井が恥を忍んで和泉守に上申し、場合によってはお叱りを受けることになるかもしれず、また弐組全体の恥として広まりかねない。

 当然と言えば当然だが、場の空気を濁した梅平の意見は黙殺され、弐組のほぼ全員が儒学者――草井木石の屋敷に向かったのだが、これに難色を示したのが当の木石だ。

「この木石を頼り、わざわざ当家にお越しいただいたのは誠に光栄の至りではございますが、あいにく当家には皆様方全員をお迎えできるような大広間がございませぬ。明日、どこぞの町道場を借り切ってご説明させて頂きたいと思うのですが、如何でございましょう?」

 言われてみれば確かにそうだと、納得した古井と弐組番士たちは、翌日の暮六つ――現代で言えば十八時――に、当番を除くほぼ全員が、木石の待つ町道場に集まった。

 上座に床几と座布団を据える草井木石の恰好は、紺の羽織に銀鼠の袴、泥鰌髭を扇子で仰ぐその姿は、学者というより講談師である。

 一方で、助手として彼の傍らに控える青肥歌之丞の顔色は、いつにも増して蒼褪めていた。

 無理もない。彼は弐番組の中で唯一、木石から真実を伝えられていたのだから。

「この草井木石、有職故実の知識は豊富なれど、残念ながら打毬に関する知識は鼻毛の先程も持ち合わせておらぬ」

 つまり、何も知らないのである。

 それでは木石は、一体これから何をしでかそうというのか。

 梅平を含めた弐組の番士、組頭、そして古井山城守が揃って神妙な顔を並べているところへ、木石は手前の床几しょうぎを扇子でバンと叩く。

 それから右手側の水甕から汲み出した水をぐいと飲み乾し、左手側に積み重ねられた冊子の山から一冊を引き抜く。

「お待たせいたした。えぇ打毬とは、馬上にて毬と杖とを使う競技でござる」

 木石が勿体ぶりながら読み上げる冊子を、背後から覗き込んだ青肥は、あっと喉から飛び出そうになった声を間一髪のところで呑み込んだ。

 何も書かれてはいない、白紙の本である。

「その歴史は大変に古く、伊予国に潜みしあやかしが人々を苦しめた折、源是丸みなもとのこれまるという勇者が、その妖を追い払ったことが由来でござる」

「妖?」

「左様」

 土田の言葉に頷いた木石は、咳払い一つして語り始める。

「その妖は名をえんといい、近づいた者は病に罹るので近づけず、弓弦を引く音を聞けば猿の如く木々を飛び伝って逃げ出すものだから、いつまで経っても退治できずに伊予の住人はほとほと困っていた。そこへ現れたのが、源是丸とその家来にござる」

「ほう」

「厭は弓弦のしなる音を聞くと逃げ出すと聞いた是丸は、家来に握り拳大の石を持たせて厭の縄張りを巡回し、彼のものを見つけるや否や、家来に命じて地面に置かせた石を薙刀で打ち上げ、つぶてとして厭に命中させたのでござる」

 途端に番士たちの間から、おおっという驚嘆の声が上がる。

「弓弦も引かずに飛んできた礫をかわせず、悲鳴を上げる厭に向け、是丸が新たな礫を打ち飛ばすこと十数回」

 パンパンと扇子で床几を叩き、学者の肩書を投げ捨てたかの如く熱弁を振るう木石。

「遂に厭は身を山中に隠し、二度と人前に姿を現さなくなったのでござる」

「退治したのでござるな!」

「左様。これにて伊予の人々は是丸の知恵と技量に感嘆し、またいつ厭が山から降りてこようと自分たちだけで追い払えるようにと始めたのが、打毬でござる」

「いや」

 沸き立つ面々に冷や水をぶっかけたのは、またしても梅平だ。

「それはおかしい。拙者の嫁は伊予の出身だが、そのような伝説は聞いたこともござらぬ。それに、はたして薙刀の切っ先で礫を狙い通りに打ち飛ばせるものでござろうか」

 口から出まかせであることを知っている青肥からすれば、的確この上ない梅平の疑問は、しかし土田や他の番士によって否定される。

「梅平、余計なことをいうでない」

「打毬そのものが、廃れ伝わっておらぬのだ。貴様の嫁の生家が伊予であろうと出雲であろうと、その由来がおいそれと残っているわけがなかろう」

「仔細はこれから語られるのだ。話の腰を折るでない」

 目上の人間に叱責され、憮然としながらも梅平は己の席――席とは名ばかりの、板間の片隅だ――にて、せめてもの抵抗とばかりに一人だけ胡坐をかく。

 気を落ちつける為、木石はまた水甕の蓋を開け柄杓で一杯あおる。中身が酒だと知っている番士は、青肥のみであろう。

 俄かに訪れた酔いにふらつきながらも、扇子で床几を叩いた木石は、説明という態の講談を続ける。

「さてそれより興った打毬でござるが、儀式ではなく競技となった所以は、ひとえに投扇の流行によるものでござる」

「二つの組が競うようになったのは、源氏と平氏の争いに因んだものにござる。この場合、勝者は源氏、敗者は平氏として扱われるのでござる」

「古来、那須与一が屋島の戦にて軍船に掲げられた扇を弓矢で射落したと伝えられてござるが、これは後世の間違いで、真実は槍の石突にて礫を打ち飛ばしたのでござる」

「それはさすがに嘘だ!」

 それまで聞こえぬふりを続けていた梅平だが、ついに我慢が限界を迎えたのか、やおら立ち上がって上座の木石に指を突きつける。

「那須与一は扇を射抜く際、海に馬を乗り入れていたという。打毬は武器で礫を打つと申すのならば、海中に没した礫を如何にして打つというのだ。的に当たるわけがなかろう」

 言いながら、最後尾から人を掻き分けずんずんと前に歩み出る梅平。

「ちょっと、その書物を見せてみろ。打毬について書かれている書なのか、それすら怪しい」

 見抜かれた、と青肥は震え上がった。

 体躯隆々とし武芸の腕も並外れた梅平に対し、こちらは学者と青瓢箪だ。邪魔したところで忽ち蹴散らされ出鱈目であることを白日の下に晒されることになるだろう。

 覚悟を決めた青肥だが、助け舟は意外なところから出た。

「梅平、いちいち話の腰を折るでない! ここからが大事なところなのだ、大人しく聞いておれ!」

古井山城守の一喝に、仁王の如き形相で迫っていた梅平が足を止める。

「しかし」

「歴史や由来に、いちいち首を傾げている場合ではない。貴様のちっぽけなわだかまりと我ら弐組の勝利、いずれを大事と心得ておるのかっ!」

「ですが」

「まだ従わぬか! ええい、者共! 梅平が口出しできぬよう取り押さえてしまえっ!」

 如何に梅平が猛者といえど二十三対一、それも対するは大番の猛者たちである。

 多勢に無勢、忽ち梅平は板間に引き倒され、小手小手に縛り上げられてしまった。

「手こずらせおって」

「その格好でも話は聞けるだろう、大人しく聞いておれ」

「さあ木石先生、話の続きをお願いいたします」

「うむ」

 講談師ならばひと財産築けたかもしれぬ草井木石の弁舌は冴えに冴え、妖怪退治から始まった打毬の似非知識は水滸伝さながらの一大物語にまで発展し、聞き手の番士たちは本題を忘れて喝采を送る。

 ひと区切りついてから、古井山城守が満足げに頷いた。

「それでは先生、打毬の装いは如何にすべきでございましょう?」

「うむ。狭義ではるが、そこはやはり戦に見立てた争いでござる。即ち、戦と同じように考えて戴きたい。さらに、対峙する相手を威圧する為には――」



 かくして、梅平内記と青肥歌之丞を除く面々が待ち焦がれていた決戦当日。

 舞台は駒場野。小高い丘から見下ろせる平地の、南北に三十三間、東西の幅八間と長方形に作られた会場南側の端には、毬杖で掬い上げた毬を投げ込む「毬門」と、それを阻む壁が立てられ、北側の端には紅白に塗られた平たい毬――平球が十五個ずつと、同じく色塗りされた丸い毬――揚球ようきゅうが置かれていた。

 実のところ、御側御用取次の加納近江守と有馬兵庫頭氏倫は、吉宗に進言する以前から打球の調査研究を行っており、規則や手順について知り得るところはほぼ知り得ていた。

 それを大番頭以下大番方の何れにも伝えなかったのは、文治政治下における幕臣教育の成果――即ち、独自に正しい情報を収集選別出来るか、適正ある人物に教えを乞うことが出来るか、己の行動について矛盾や不自然さを自覚出来るか、などを確認する為である。

 意地の悪い味方をすれば、将軍の命令を利用した裏の目的とも言える。

 打毬の開始予定は朝五つ――八時頃。それより半刻ほど前からであるが、この日に限り特別に観戦を許され集まってきた庶民の間からは、笑い声と囃し声、僅かに含まれた感嘆で溢れかえり、さらには誰が持ち込んだのか、拍子木までもが打ち鳴らされる。

 本来ならば即座に追い払われる筈なのだが、それを行うべき兵卒も、またそれを命じる役人も惑乱の極みにあって、それどころではない。

 その中にあって唯一人、混迷の渦の中から脱出せざるを得なかった大番頭の太田隠岐守は、肩を震わせながら将軍吉宗公と近侍らの前に直立していた。

 背後に控える五十名。

 北側の二十五名は烏帽子に狩衣、顔には白粉、背には矢筈を背負っていながら、何故か足には鞠沓を履いている。

 南側の二十五名は鎧兜に身を包み、顔には歌舞伎役者さながらの隈取、背には弁慶坊の如く刺叉やら大木槌やらを背負ってさえいる。

 北側は、資料を読み違えた壱組で、南側は草井木石の出鱈目を真に受けた弐組なのだが、何故かどちらも手に四尺を超える大柄杓を構えている点だけは一致している。

 整列する直前、お互いに初顔合わせとなった両陣営が、あっと驚いたのは言うまでもない。

「山城守殿、それなる珍妙な格好は如何なる諧謔か?」

「それはこちらが申すべきこと。淡路守殿、さては打毬について何も得るものなく、適当な思い付きでそれなる奇行に及んだのではございますまいな?」

「何を申される。其方こそ、よもやその辺の似非学者に唆されたのではござらんか?」

 平常は謹厳実直な番頭二人が、仮装にしか見えない「正装」で罵倒と自己弁護を続ける醜態に、憤りで言葉が出ない太田であったが、今さら衣装を質す時間は無いし、何より太田自身、どちらが正しいのかすらわからない。

 壱組弐組に対する怒りと、将軍直々にお叱りを受けるであろうという恐怖と、大番方の処遇についての絶望をない交ぜにしながら、それでも隠忍いんにんに隠忍を重ね、平静を装っていた太田隠岐守。

 彼の前に立つ有馬兵庫頭が口を開きかけたその時、気配も無くその背後に立った近侍の一人が何事か呟いた途端、怒色溢れる兵庫頭の相好が僅かに崩れた。

「構わぬからその姿で始めよ、との上様からのお達しである。一同、急いで仕度せよ」

 首の皮一枚で救われたと安堵する隠岐守と大番一同に、

「これが別の用件であったなら、大番そのものが消えていたかもしれぬ。自省するよう固く申しつけておく」

 かしこまったまま、また硬直する大番一同を前に、入れ替わるように前へ出た加納近江守が打毬についての説明を始める。

「壱組を白軍、弐組を紅軍とし、各々二十五名の番士を五名ずつ四組に分け、残りの五名は自軍の毬を陣内に投げ込む役割と、自軍が毬門に放り込んだ毬の数を数える役割とする」

 陣内に放り込まれる毬は、常に紅白一つずつ。平毬一つを毬杖で運び毬門に放り込めば、陣外から新たな平球が放りこまれ、先に十五個全ての平球を投げ込んだ側が、最後の毬として投げ込まれた揚球を毬門に投げ込むことで勝利となる。

 当然、相手が毬を運び投げ込もうとするところを、相手の毬杖を叩いたり馬で移動を妨げたりするのは認められているが、騎手への攻撃は反則とされる。

「最後に、これらは古今東西――特に奥州は南部藩に残されていた資料や儀礼を基に、足りないところ、判明しないところを我々の相談により決定したものであり、この先改定もあるやもしれぬと心得よ」

 全員畏まって一礼したが、顔を上げるなり口を開いたのが古井山城守だ。

「ご無礼を承知で申し上げます。そこまで詳細をご存知でございますならば、何故隠岐守様にお伝えいただけなかったのでございましょうか?」

「何故、聞きたい知りたいと申し出なんだか。問われたならば、いつでも喜んで答えるつもりであったのだが」

「それは」

 返答に詰まり俯きながら、山城守は己の迂闊さを後悔した。

 似非学者を紹介した青肥歌之丞は、今日に限っておこりが生じたと休みを取っている。

「兵法に曰く、必ず全きを以て天下に争う。山城守殿。勝つ為にはあらゆる手段を用い、時には人に頭を下げる度量も必要ですぞ?」

 得意の孫子病をひけらかし得意げになる淡路守にも、また 御側御用取次からの怜悧れいりな忠告が突き刺さる。

「その文、冒頭を忘れておらぬかな、淡路守殿。故に上兵は謀を伐つ。しかし伐ち方にも問題があろう。花柳亭の酒は、それほどまでに美味であるのかな?」

 さっと顔面蒼白になる淡路守。

 なんのことはない。書物奉行の買収は、当の昔に暴かれていたのだ。

「今回に限り、不問に致す。両名共、くれぐれも自省するように」

 これで出世の道は閉ざされたと落胆する両番頭を置き去りにして、大番壱組対弐組の打毬対決が始まった。

 四本勝負というあたりが、優劣よりも和の心と自己鍛錬に重きを置いた競技であると言えよう。

 見た目は珍妙になってしまったが、そこは幕府の中でも常在戦場を金言とし、日々を自己鍛錬に費やした大番である。巧みに馬を乗りこなし、救い上げるように毬杖を振るっては、観客から驚嘆の声を上げさせ喝采を浴びる。

 一本目は、壱組が取った。

 白の揚球を毬杖に収めたのは、粗忽の柴崎大三郎。

 彼は紅の平球を争い正面で揉み合う場軍には目もくれず、イヤッと気合を入れるなり馬腹を蹴って右手の斜面を駆け登り、そのまま走ること十一間。忽ち辿り着いた毬門手前で揚球を投げ込み、見事勝者として破顔した。

 尤も、白粉だらけの鍾馗髭という、異様な姿であったが。

 二本目は、紅の弐組が取り返した。

 土田文十郎が大きく毬杖を振り上げ投擲した紅の揚球は、毬門を形成する木枠に当たって跳ね返るも、すかさずその手前まで馬を馳せていた山口猪之介が、拾い上げるなりさっと放り込んだ。

 事件が起こったのは三本目。

 紅の平球を奪い合っている弐組番士の背中に、背後で白の平球を拾い上げようとした壱組番士が持つ毬杖の石突が当たってしまったことが原因だった。

 死角からの突きをくらい落馬した鎧姿の番士が、立ち上がるなり声を荒げる。

「おのれ、人馬への攻撃は御法度と決められていたのに、背後から突き落とすとは何事か! 貴様それでも武士かっ!」

 同じ職場とはいえ、競技中は敵同士である。ましてや一勝一敗、気がたかぶっている最中に、この面罵は禁じ手に等しい。

「うるさいっ! そもそもぶつかったぐらいで落馬する方が悪いのだ! 怨むなら己の未熟を怨めっ!」

「なんだと!」

「俺は見ていたぞ! わざとぶつけてきたのだろう!」

「嘘を吐くな! 俺が見た限りでは――!」

 紅白入り乱れての罵り合いが、全員馬を降りての殴り合いに変じるまでに、そう時間はかからなかった。

「ふざけやがって! 元はといえば、その公家の真似事みてぇな恰好が気にくわねぇんだ!」

「これは解釈違い! そもそも打毬とは高位の競技にござる。そこもとこそ短慮な乱暴狼藉、武人として恥ずかしくないのか!」

「てやんでぇ! てめぇらみてぇな連中が白粉塗りたくったところで下世話に過ぎる。あ、お里が知れるってぇもんでぇ!」

「なんと申される! 御公儀による折り目正しい競技にそぐわぬ言葉遣い! 身を慎むべきではございませんかな!」

 もうメチャクチャである。

 殴る者蹴る者掴みかかる者、止めようとする者引きはがそうとする者、果ては斜面にて助清の如く大見得を切る者もいれば、白扇子を広げて一首詠みあげんとする者までいる。

 これに、助太刀のつもりか止めに入ろうとしたのか、壱組弐組の控え藩士達までもが加勢し、もはや打毬どころではなくなってしまった。

 その光景を唯一人、遠巻きに眺めていた猿隈さるぐま顔の梅平内記は、天を仰いで呟いた。

「こうなるんじゃないかと思ってたんだ」


 斯くして勝敗は有耶無耶うやむや、御披露目としては失敗も同然となってしまった打毬だが、どういうわけか壱組にも弐組にも褒美の金一封が下賜され、また打毬そのものも、試行錯誤を繰り返しながら幕末まで日本全国で頻繁に行われたという。

 
                                                     (了)

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