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過去を体験でなく経験にする

 森有正は「体験」と「経験」を区別している(『生きることと考えること』)。人は自分が経験したことの中で、その一部分だけを特に貴重なものとして固定すると、過去的なものになったままで現在に働きかけ、それがその後のその人の行動のすべてを支配するようになる。森はこれを「体験」と呼んでいる。
 これに対して、経験の内容が絶えず新しいものによって壊され、新しいものとして成立し直されていくのが「経験」である。過去に経験したことをいつも同じようにしか見なければ、経験は凝固し体験になってしまう。しかし、たった一度きりの経験であっても、絶えずその経験の意味を反芻し、そこに新しい意味を見出していけば過去に経験したことは体験ではなく「経験」になる。
 アドラーは次のようにいっている。
「ドイツ語は、独自の感情をこめて、人は経験を『作る』というが、これは、人が経験をどう使うかは、自分で決められるということを示しているのである」(『人間知の心理学』)
 何かを経験すれば、その経験から何かしらのことを学ぶことができる。しかし、何かの経験をしたからといって、必ずその経験から学べるわけではない。大事なことは、何を経験するかではなく、経験から何を学ぶかである。経験に「よって」というよりは、経験を「通じて」、あるいは、経験をきっかけとして学ぶのである。
 親が昔のことを何度も繰り返し語り、家族がそれを聞かされるたびに辟易することがある。この時、親は経験ではなく体験を語っているのである。
 もっとも、親は本当は経験を語っているのかもしれない。それなのに、子どもがまたいつもと同じ話をしていると思って話を聞くと、同じ話にしか聞こえない。前に聞いた話とは違うところがあるかもしれないと思って聞くと、同じ(ように聞こえる)話でも興味をもって聞ける。
 もちろん、話を聞くだけでなく、たずねることができる。その時、どう思ったのか、どう感じたかをたずねると、同じ出来事でも解釈が違っていることに気づくかもしれない。そうすることが体験を経験に変えることになるかもしれない。
 リルケは、自分の詩を批評してもらうべく手紙を送ってきた若い詩人であるカプスに書いた返事の中で次のように書いている。
「もしもあなたが牢獄に囚われていて、牢獄の壁が世のざわめきを少しもあなたの感覚に達することがないとしても──あなたにはそれでもあなたの幼年時代という、貴重な、王者のような富、この思い出の宝庫があるではありませんか。そこへあなたの注意を向けなさい」( Briefe an einen jungen Dichter)
 過去の思い出が「宝庫」になるのは、それが経験になる時である。
 心筋梗塞で入院している間、世間から隔離されている気がした。退院後も同じような生活が続くかもしれないと思った時、リルケの言葉は私の心に強く響いた。
 幸い、治療は功を奏し外に出かけることができるようになったが、また病気や加齢のために身体を思うように動かせなくなっても、内なる世界へ沈潜できるだろう。

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