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【R18恋愛小説】ストリート・キス 第10話「帰国〜荒れる彼女」with モーツァルト交響曲第25番

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 ウィーンから帰国し、久しぶりに仕事に復帰した彼女はものすごく上機嫌だった。まるで以前とは別人のようにはしゃいで明るい。声も大きくてよく笑う。
 聞かないうちからウィーンでの様子を話してくれた。大学での授業のこと。ウィーンの街を歩いた感想。そしてザルツブルクでモーツァルトの墓を訪れたことをまるで熱に浮かされたような調子でしゃべる。
 こんな時の彼女は危険だ。上がっているメンタルがいつ奈落へと落っこちるかわからない。そしてその危なっかしいバランスはちょっとしたことですぐに崩れるのだ。自分の経験から僕は彼女のそんな精神構造をよく知っていた。職場の人たちもおかしいと感したのだろう、腫れ物を触るような感じで彼女に接している。
 そして…嵐の時がやって来た。
 昼休みに僕を呼んだ彼女は、高級ブランデーとチョコレートを見せてくれた。職場へのおみやげだと言う。ブランデーはいかにも高級そうな箱に入っていた。僕はなんとなく「そうなんですね」なんて薄らぼんやりした返事をした。それが彼女の癇に障ったらしい。急に笑顔を消してしまい押し黙った。怒っているのがわかる。でもその怒りをどうやって収拾したらよいのかわからない。
「おみやげを買ってきました!」
 目の前の僕を無視し、彼女は大きな声でと周囲の人へ向けて言った。職場の人たちはお礼の言葉を口にしながらも、そのおみやげが一本のXOブランデーと二箱ほどのチョコレートだと知り、微妙な空気になった。僕と同じ反応だ。 
 職場の人数分のおみやげなら理解できる。彼女からそのおみやげを「みんなに配ってね」と言われたならば喜んで手伝っただろう。しかしこの状況はどう対処したらよいのやら、彼女がどうしたいのか掴みかねた。
 自分の周囲の人たちへ、僕のような気が利かない相手にさえ、彼女は自らの要望をはっきり伝えない人だ。具体的にこうしろ、こうしてほしいとは言わない。だから微妙な空気のまま、居心地の悪い時間が流れていく。そしてどんどん彼女の機嫌が悪くなっていく。彼女が黙っていても僕にはそれが手にとるようにわかった。 
 僕は嫌な冷や汗をかいていた。この危機的な状況を救ってくれたのはベテランの男性の先輩だ。
「昼休みにブランデーは飲めないから仕事が終わってから頂こうか」
 苦笑いをしながら取りなしてくれた。彼女の怒りはとりあえず収まったようだが、その日の午後は僕と目を合わせずに、一言も口をきいてくれなかった。
 そして就業後。
「すみません。お先に失礼します」
 女性たちのほとんどはそそくさと挨拶をして帰ってしまった。主婦の人も多いから、まあ無理もない。それによほどのアルコール好きでもない限り、いくら高級な品であろうと、ブランデーを頂くために職場に残るという選択肢はなかなか無いだろう。残った男性も僕を含めて数えるほどしかいない。
 彼女の気持ちを考えたらまともに顔を見られなかった。
 昼休みに助け舟を出してくれた先輩が、ふさわしいおしゃれなグラスが無いことに気づいた。自分たちの茶飲みやマグカップぐらいしかない。
「せっかくだけど仕様がないね。松木さん。ごめんね」
 謝るその先輩へ向かって彼女は引き攣った笑みを浮かべる。 
 オフィス奥の会議スペースのテーブルに高級ブランデーのボトルとチョコレートの箱、参加者各自の茶飲みやらマグカップが雑然と並ぶ。彼女自身もグラスの件は失念していたようで、いつも休憩時間にコーヒーを飲んでいるカップだった。
 ホスト役であるはずの彼女は固まったように動かない。嵐の予感がした。いたたまれない雰囲気に僕は逃げたくなった。そしてそれはいきなり起こった。
「なんで氷が無いの?どうして買ってきてくれないよのよ」
 僕に向かって彼女が大きな声を上げた。堰を切ったようになじる言葉が続く。 
「ありがとうも言われていない!おつまみとか氷とか用意すべきでしょう!」
「えっ!」
 えっ!!僕がですか!?と言ってしまってから、自分がしくじったのに気がついたけれど、もう遅かった。
「気が利かない!」
「お子様ね!」
「人の気も知らないで!」
「むかつく!」
「おもしろくない!」
 それらの棘のある言葉が次々と全部僕に向けて放たれた。同僚たちの前なのに彼女は自制もせずに感情をぶつけてくる。避けようのない僕はジッと耐えるだけ。変に言い訳なんぞしようものなら同僚たちに変な目で見られてしまう、彼女と僕の関係がただの同僚ではないのを悟られてしまう。ものすごくつらかった。
 無様におろおろしていたら「なにか言いなさい!」思い切り叱られてしまった。
「ごめんなさい。すぐに氷を買ってきます」
 慌てふためき立ちあがろうとする僕を、あのベテランの先輩が、きっとかわいそうだと思ったのだろう、また助け舟を出してくれた。
「高級ブランデーに氷はいらんよ。ね、松木さん」
 すると彼女は渋々といった感じで僕を責めるのをやめた。が、しかし、職場での小宴会のあいだ、会話の中に嫌味を織り混ぜてくる。機嫌を取るような言葉は余計に癇に障るらしい。そんな雰囲気だから楽しい宴会にはならなかった。
 針のむしろに座らされている心持ちだった時間がやっと終わり、ホッとしたのもつかの間で、機嫌が悪いはずの彼女はどうやら僕に送ってもらいたいような素振りを見せる。それなのに自分だけどんどん先に歩いて行ってしまい、僕は彼女の後からくっついて行くという変な形になった。 
 電車に乗ってもむすっとした顔でいつものようにドア際に立ち、何も言わない。どう取りなしたら良いのか見当もつかないので僕も黙っていた。
 彼女が降りる駅に着いた。
「今日は帰って。降りなくていい」
 横を向いたままそう言い、電車のドアが開くと僕を見もせずに降りてしまった。
 追うべきか、それとも言われたとおり、素直のこのまま帰るべきか?
 迷っているうちに彼女はホームを歩いて行ってしまい、人混みの中に消えた。取り残された僕の前で電車のドアが閉まった。
 

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第11話へ続く


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