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私の優しさの正体

人に何かしてあげたいと思う気持ちは、優しさなんだろうか。


「喜んでもらいたい」「力になりたい」、そんな気持ちで何かをしたり言葉を尽くしたつもりでも、受け取る人の気持ちや状況次第で、すごく有難いことになったり、恩着せがましくもなったりもするから、優しさを一概に捉えることは難しい。

私は誰にでも優しくできる人間ではないけど、大事な人や友人や頑張ってほしいと思う人には、惜しみなく気持ちや時間や労力を差し出せる方だと思うし、そうしてきたし、これからもそうすると思う。

そんな私が、「何かしてあげたい」気持ちをこじらせて、”その気持ちを差し出すことが相手の負担になるのではないか?”と心配し、”「何かしてあげたい」というのは自分のエゴであって、相手が望まない限り何もしないことが最上級の優しさなのでは?そのあえての「無言の優しさ」を差し出せる自分は、わかりづらいけど実はすごく優しくて、その優しさに当然相手も気付いて受け取ってくれて、お互い言わなくても分かり合えているんじゃないか?”と妄想していたことがあった。

妄想甚だしい。一周どころか三周くらい回って着地点を大いに見誤っている。こじらせすぎもいいところで、何もしないということは、私がこんなに頭を悩ませていることすら相手に伝わらないというのに。


そしてある日、気付いてしまった。いや、待て待て。”言わなくてもわかる”は幻想で、相手には何も伝わってないぞ、と。
そして、次にこう思う。これでは私がかわいそうだ、と。


私が、お風呂の時間や夜寝る前、休日に、考えなきゃいけない、やらなきゃいけないことがない時に、読みたいマンガ、好きな俳優の情報収集、来週の予定などなど自分のことよりも優先して、あなたのことにこんなに頭を悩ませているのに、それがあなたに伝わらないなんて、、私がかわいそう!だからこれは私のために伝えるべきなんだ!と、開き直ってしまった。(自分が大事な私らしい開き直り方だなと我ながら感心する。)

この開き直りは最強で、「あれ、もしかして相手のためにならないかな。。」なんて考えがよぎっても、「相手のためじゃない、私のため、私がしたいからする」と自分を後押ししてくれる。逆に「受け取られ方次第では自分が後悔するかも」と思ったらそれをしないし、タイミングや内容を考え直す。

自分のためだから、相手が喜んでくれたら嬉しいけど、喜んでくれなくても「せっかくやってあげたのに」なんて思わない。だって自分がやりたくてやったことだから、やった時点でもう気持ちは満足している。自分がやりたくてやったことに見返りや評価を求めるなんておかしいでしょ?


そんな自分本位の優しさなんて迷惑だよ、なんて言われてしまうかもしれない。でも、相手が欲しいタイミングで、欲しいものや言葉を差し出すことができるなんて、そうそうない。自分が受け取り手側だった時のことを思い出しても、”まさにそれが欲しかったんだ、すごい!よくわかったね!”なんてこと滅多にない。
でも”自分のことを考えてくれた”、その事実だけで嬉しくなったことはいくらでもある。

だから私はそれを伝えたい。選ぶ言葉や贈るものがちょっと違うかもしれないけど、”あなたのことを考えてるよ”っていうことは真っすぐ伝えたい。まずはそれでいいと思うんだ。


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