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微炭酸なココア#3【薄目で他人を見る】

 人はどうしても人に期待をしてしまうものだと思う。職場でも家庭内でもどんなコミュニティでも。

 「裏切られた」という言葉なんかはその最たる例だろう。自分が傷ついたというショックで、頭に血が上って自分が悲劇の主人公のような世界にしか見えなくなる気持ちは痛いほど分かる。自分をわざとどん底に落として悼むのが気持ちいいことも知っている。一種の自己防衛だ。
 でも、一歩引いて冷静に事実だけを見ると、自分を傷つけるまでの優しかったその人も、自分を傷つけたその人も、「同一人物」である。ある日突然マインドコントロールされたわけではない。ただ、自分から見えていない一面、いや、自分が見ようともしていなかった相手の一面をいよいよ突きつけられただけの話であることが多い。

 だから僕は他人を薄目で見る。苦手なホラー映画を観る時と同じだ。目を薄く開いてよく見えない状態で相手を見ることで、「自分は相手を知っている」なんてイタい勘違いを全力で阻止する。「みんな生きてる世界が違うから、分かり合えっこない。期待しても無駄。僕には関係ない」とスカした態度がそれにあたる。

 そして、すでにいる自分の友人たちにはあけすけとものを言って、常に本心でぶつかる。「僕は自分のいいところと悪いところを隠さないから、比べた上で僕と付き合うかどうかを決めてくれ」だなんて口には出さないけれど、言動で彼ら彼女らに突きつける。
 この生き方をするようになってから、周りから随分と人が減った。でも、それは必ずしも悪いことではないと思っている。内と外の線引きを明確にしただけの話だ。時間にもお金にも心にも限りがあるから、フリーペーパーのように自分を配ることは出来ない。

 けれど、それでも、薄目から見えるふとした一面が自分と似ていると感じる人がいると、胸が高鳴る。目を見開いてしまう。「つくづく人間は非合理的な生き物だな、僕もそうか」とメタな自分が認識しながらも、「この人とならいい付き合いが出来るかもしれない」だなんて思ってしまう。

そう、他人への期待だ。

 きっとその人も人生で色んなことを経験する中で、多面性を内包しているはずだ。僕が気にくわないような面もあるはずだろう。それでも、今の自分の目に映るその人は素敵に見えてしまう。

 本能が論理を超えて目を開いてしまうと、普段の薄目の状態からは考えられないほど、積極的に交流をする。しかし、人間関係というものはそんなに簡単ではない。交流をするうちに「なんか違うな」と思い始めることの方が多い。
 僕は自分の目に見えるその人のいいところが51%を超えたら、友人になろうと考えるのだけれど、これが49%とかだとやるせない気持ちになって相手に怒りすら覚えてしまう。俗にいう「裏切り」だ。

「あとほんの少し、お互いの考えが近かったら、僕たちはいい友人になれるのに!」

 この段階になると、僕の話を聞いて相手の価値観が変わったらいいなと思うようになってしまう。もしくは、自分の価値観が相手によって変えられたいと思ったりもする。でも、お互いの価値観なんてそんな簡単に変わらない。だから、僕は「そっか、目を開けてしまった僕が悪いね」と再び薄目に戻って、世の中を斜めから見る。

 つい最近も、気が合いそうな友人候補と知り合った。これ以上ないくらいに趣味が合って、きっといい友人になれる気がした。でも、表層的なところは合っても、根本的な価値観に大きな差異があった。僕も自分の価値観を変えられないものかと検討はしてみた。
 けれど、僕の今の価値観は大事な人たちの死を乗り越えて形成されたものだ。その相手の為に変えるとなると、僕は相手を好きでは居られなくなる。要するに、僕たちの差異は僕が一番許せない方向のものだったのだ。

あぁ、そうか、僕らは合わないんだ。

 今回は随分と期間が長かったけれど、ようやく冷静なメタな自分が戻ってきた。久々に目を大きく開け続けて瞼が疲れた。しばらくはまた薄目で他人を見ようと思う。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。