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微炭酸なココア#4【傷のなめ合いは悪くないと思う】

 ここ最近、色々辛いことがありました。辛いことがあると、世の中の気にくわないことが目につきやすくなったりします。先週、神経が衰弱したせいでMATCHを飲んで「しまって」から、僕は世の中の「キラキラ正義」や「○○らしさ」という僕に纏わりついてくるものへの抵抗感で自家中毒を起こしていました。

 でも、こういう時に僕を救ってくれたのは、やっぱり創作でした。毎日書いている手記やnoteの中で自分を吐露して、気持ちを整理する。そして、同時に他人の作品からも沢山勇気を貰いました。

最もパーソナルなことが最もクリエイティブなこと。

 マーティンスコセッシさんの言葉を完全に自分流に曲解している僕は、みなさん個人の人生そのものが作品だと思っています。
 たとえば最近僕が触れた作品としては、

ずっと自分を苦しめてきた家族に絶縁宣告をした女性の話

 東京藝大を目指して三浪した漫画家さんの話

そして、六浪の末に国立大の医学部医学科に合格した僕の同級生の話などが挙げられます。彼ら彼女らの苦労話は綺麗と同時に生々しくて、僕の心を揺さぶりました。

 これらの作品に触れても、上から「大変だったね」と同情したり、「その辛さ分かるよ」と対等に語ったりはしません。相手の感情や人生や選択肢を尊重して、「ありがとう。僕もまた自分の人生を頑張ろうと思えたよ」と自分の心の中で静かに熱意に再点火するきっかけにするんです。そして、立ち直ったら僕もまた、自分の辛かったことを文章にして書くんです。自分の為に書くのが第一ですけど、ついでに誰かの助けにもなったりすればいいなと考えたりもしています。一向に上手にはならないんですけどね。。。 

 僕のこの考え方って、【傷のなめ合い】ってやつなんだと思います。辛いことがあったら部屋に引きこもって、毎日20時間くらい音楽と言葉と心象世界に浸りながら、他人様の人生の苦労話に触れて、「こんなに辛いのは自分だけじゃない」と自分に言い聞かせるんです。
 辛い時に一番危険なのは、「自分だけがこんな目に遭っている」という悲劇の主役思考です。だからこそ、辛い時には、他人の比べようもない苦労話に触れて、自分だけじゃないと考えることが、一歩引いて冷静になるきっかけ、さらには立ち直るきっかけになると考えています。ここで一つ気を付けたいのは、それを他人が言っちゃだめだということです。「大変なのはお前だけじゃない」だなんて言ったらだめです。絶対に。

いつやるの?人それぞれでしょ。

 僕は「くよくよすんなよ」「元気出せよ」とかいう人のことを、鈍感ヤクザと呼んでいます。一歩先のそれっぽく説教じみたことを言い始める人のことは、天動説信者(自分の目に見えるものしか考えられない想像力のない人)と呼んでいます。

 発破をかけることが、立ち直りへの一番の近道と考えている人は一定数いると思います。でも、そもそも近道したいかどうかなんて、そんなの落ち込んでいる人の自由なんですよ。
 個人のことなんて、基本的に他人には関係のないことです。いつまでも凹みたければ凹めばいいんです。心の防衛本能なんですから。いつかは立ち直れます。立ち直るのが命の終わりに間に合うかどうかってだけの話です。別に生きている間に間に合わないことなんていくらでもあるんですから、立ち直れないまま死んじゃったりするのも個人の自由だと思っています。誰も、立ち直った先で待ち合わせなんかしていないんです。

 僕はメンタルがフニャフニャなので、結構凹んだりするんですけど、一時期は「くよくよしないで元気出せよ」とか「いつまでも凹んでるなよ」という鈍感ヤクザが周りに居ました。僕はそういう人に対して、「叙々苑の高い焼き肉食べたら元気が出る気がするから奢って」と言いました。すると、どういうことでしょう、熱血なことを言う人に限って急にしどろもどろになって「先月あんまりバイトのシフトに入れてなくて」なんてバイト事情を話し始めたりしました。そうなんです。無責任なことを言う奴に限って、僕という友人よりもお金が惜しいんです。そんな役にも立たない無責任な励ましよりも、傷をなめ合うことの方がはるかに心を救ってくれます。 

傷の舐め合いとは、「似たような不幸の下にある者がなぐさめ合うこと」で、しばしば、ただ互いを甘やかし合うことへの軽蔑の意味を含む。
(出典:wikipedia)

よく考えてみて欲しいです。動物が傷を舐めるのは傷を癒すためなんですよ。本当にダメな事なんでしょうか。人間も動物なんですよ。。。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。